1 古のドラゴン
「あら、おはようございます、陛下。こんな朝早くから、なにか御用でしょうかしら」
まだ冷たい風の吹く離宮の庭園で、キリアカイがこちらに気付き、すらりと貴婦人としての礼をした。周囲にいた彼女づきの侍女たちが、腰を低めて音もなく退いていく。
魔王城から少し離れた場所に位置する離宮。宰相ダーラムによれば、もとは先々代の魔王の側妃が使っていた場所らしい。
「ああ、いえ。なにかご不便などはないかと思いまして」
軽く一礼してそう返すと、女は手にした扇子の後ろでほほほ、と声を立てた。
「有難う存じます。お陰様で、すべて恙なく、ゆるゆると過ごさせていただいておりますわ」
「そうですか。それは良かった」
「何もかも、ご正妃、ギーナさまの細やかな心尽くしがあってこそ。まことに有難うございます、ギーナ様」
「ああ……いや。あたしは別に」
隣にいたギーナがやや困った顔で薄く微笑む。
結局あれから、キリアカイは北東の統治権をゾルカンの片腕である将軍、ヒエンに譲り渡した。そうして持てる限り、身に着けられる限りの宝飾品とともに、あの虹色の騎獣に乗ってこの魔王城へやって来た。本人曰く、「当面の生活費ですわ」とのことである。
やって来るなり、彼女はもはや「至極当然」と言わんばかりの顔でギーナに言い放ったものである。
『それじゃ、適当に部屋をみつくろってちょうだいな』と。
ギーナはちょっと変な顔にはなったものの、黙って彼女の言う通りにした。色々と候補はあったのだったが、結果的にはこの、先々代の魔王が気に入りの側妃に与えていたという離宮のひとつを提供したのだ。
『えっ? あの方に離宮をお与えになるんですか? ヒュウガ様』
『えーっ。そんにゃの、なんか危なくにゃい? まだそんなに信用できにゃいんじゃないの、あのおばちゃま』
『そうですね……。そこで好き放題、また贅沢三昧なんてことになったら、こちらの国庫が大変なんじゃ……?』
『ああ、うん。でもまあ、もうその心配はないんじゃないかと思ってな』
ライラやレティの心配は、これまでのキリアカイのやり様からすれば当然のものだったろう。だが、俺もギーナもここへきて、あのキリアカイを必要以上に警戒する気持ちは薄れていた。
何より、マリアを憎むその気持ちには嘘いつわりはないと信じられたからだ。
ちなみにキリアカイの立場だが、ライラやレティが心配するまでもなく、さほど重要なものにはしていない。政治的な発言権は与えず、要は「客人」として遇することにしたのだ。そして折々、軍事面や政治面のアドバイザーとしての機能を果たしてもらう。キリアカイ自身も、それで納得してくれていた。
離宮での生活も、これまでのように男妾などを何人も侍らせたり豪勢な食事を楽しんだりといったことはほぼ控え、ごくつつましく送っているようである。今のところ、それについて不平を鳴らす様子もない。
要するに、キリアカイのこれまでの生活態度は、愛する夫と子供をひどいやりかたで奪われたことへの抗議や、彼らを救えなかったことへの悔悟や孤独からきたものだったのだ。つまりは自分の、耐えがたい運命への復讐といったものだったということだろう。
あのマリアに一矢報いることができるというある種の「希望」または「生きがい」を得たことで、この女ももとの精神に立ち戻ることができた、ということなのかも知れなかった。
それでもまあ、ご覧の通り、貴族の娘としての矜持も気位の高さも、そのままなのではあったけれども。
「本日は、午後から南のヴァルーシャ帝からの定時連絡がございます。よろしければ、キリアカイ殿にもご同席いただきたいのですが。いかがでしょうか」
「あら。よろしいのですか? あたくしなんかをそんな、大事なお席に参加させても?」
「当然です。例の件に関しては、あなたも話を聞いておかれたいはずでしょうし」
「例の件」と聞いた途端、女の瞳はきらりと光った。
「ええ、それはもちろん。……それでは、のちほど魔王城へお伺い致しますわね。何時ぐらいがよろしくて?」
キリアカイに必要なことを伝えるとすぐ、俺たちはガッシュに乗って魔王城へ戻ることにした。
いつものようにギーナを抱いて彼の背に乗り、俺はガッシュに話しかけた。
《今日はまた、定時連絡で手数を掛けるが。よろしく頼むぞ、ガッシュ》
《おう。任せろー。あっちのリールーにも、頑張ってもらわなくちゃだなー》
《ああ。……そういえば、リールーは元気か?》
《あっはは。まあなー。お前に長いこと会えなくて、このところちょーっとすねてるみてえだけどな!》
《そうなのか》
《そーそー。『もとはボクが、ヒュウガの専属ドラゴンだったんだからねー!』って、何かってえとすーぐ突っかかってきやがんの。しょうがねえよなー。オレより年上のくせに、お子ちゃまなんだよ。ったくよー》
そう言いながらも、ガッシュの思念は楽しそうだ。
《そう言えば、お祖父様はいかがなさっている》
《あー。おじいちゃん?》
ガッシュの祖父というのはつまり、例の伝説のドラゴンだ。
《んー。まあ、いつも通り?》
《と言うか、お祖父様はいつも、どちらにいらっしゃるんだ》
《いや、どちらってえかさー。オレらドラゴンには、決まった住処ってのはねえんだよ。っていうか、言っちまやあ、この世界の全部が住処だ。オレたちはどこにでもいるし、逆に言えばどこにもいない》
《……ちょっと、意味がよく分からないんだが》
いきなり、そんな詩的な表現をされても困る。
正直にそう返したら、ガッシュは明るい声で「あっはは、だろうな」と笑い飛ばしてくれた。
《ドラゴンは、ニンゲンとは根本的に違う生き物だからよー。ま、オレらにだって、ニンゲンのことが全部わかってるわけじゃねえもんな。お互い様だよ、お互い様》
《それはまあ、そうだろうな》
ガッシュによれば、どうやらその古のドラゴンは、自分をあの「創世神」やマリアの「被造物」だとは言っていないらしい。
考えてみればその話だって、あのマリアが主張していることに過ぎないわけだ。マリアは以前、「被造物ごときにわたくしたちが倒せるはずがない」と大見えを切っていたわけだが、それもこうなってくれば眉唾、ということもあり得るわけだった。
つまり、真野の言は正しいということかもしれない。
マリアのいう事が、すべて本当のことだとは限らないのだ。
そこにこそ勝機があると、俺は見ている。
《おじいちゃんは、今ここにもいる、って言ってもいい。今のオレらの話だって、ちゃんと聞いてんぜー。んで、いざってなったらぜってーに助けてくれるって言ってるよ》
《そうか……》
《だから心配すんな、ヒュウガ。オレらドラゴンは、信じられるニンゲンに嘘だけはつかねえよ》
《……ああ。ありがとう》
俺たちはそのまま、魔王城を目指してまっすぐに飛んだ。





