8 緑の勇者
※児童虐待を想起させる表現があります。
どら声を張り上げる男の声に反応して、周囲の人々がさあっと道を開ける。それはいかにも、蜘蛛の子を散らすようだった。
男の目からは見えないところで眉を顰めたり、嫌悪の表情を浮かべている者が何人もいる。また、中には「さ、行け」と男らに言われて、人ごみにまぎれるようにこそこそと小路のほうへ逃げ込んでいる少女や女たちの姿が見えた。
(これは……)
どんどん嫌な予感が増してくる。
この男が本当に俺と同じ「勇者」だというなら。
奴には俺と同じ、<奴隷徴用>の能力があることになる。
思わずその男のそばに立っている小さな少女たちに目をやって、俺はすべてを確信し、同時に吐き気をもよおした。少女たちは四人いる。彼女らを含めてその場には、それぞれに美々しい様子の「奴隷」らしき者が七人いることになる。
……七人。
三人よりもはるかに多い、その数字。
(こいつは……!)
この男は、こんな小さな少女たちにまで<スレイヴ・テイム>を使ったというのか?
こんな、まだ母親が恋しいような年齢の子に……?
有無を言わさず自分に好意を向けるように仕向け、自分についてくるように、その自由意思を魔法によってがんじがらめにしたというのか。彼女たちを、自分の思い通りにするためだけに。
世に「ロリータ・コンプレックス」略して「ロリコン」という言葉が流布しはじめて随分たつらしい。しかし、これは厳密には十四才以上の未成年の少女を嗜好することを言うのだそうだ。
ちなみに十歳から十三歳が「アリス・コンプレックス」、それ以下の五歳から十歳が「ハイジ・コンプレックス」と呼称されるらしい。さしづめこいつは最後のものに分類されるのだろう。
その子たちに親が居るのかどうかは定かでなかったが、それでもそんな男の傍で彼の「世話」をして過ごすのが、こんな年齢の子供にとって健全だとはとても言えない。
俺の隣にいるレティとライラも、明らかに嫌悪の表情に顔を歪め、真っ青になって男を見つめている。マリアはと言えば、いつもの静かな面持ちを少しもくずさないままじっと立っているだけだ。
(こんな……。こんなことが──!)
俺はぎりっと奥歯を噛みしめた。握った拳がどうしても震えてくる。
少女たちはちょうどレティのように、男に「ご主人さまあ」と甘えた声をかけ、口元に笑みさえ浮かべている。しかしその瞳の中に、美しい輝きなど少しもなかった。むしろ少女たちの目はどれも虚ろで、ただ人形が命令された通りに笑い、動いているようにしか見えなかった。
それが、何を意味しているか。
想像したくもなかったが、少女たちはこの男から指一本触れられていないとは到底思えなかった。
俺がその場に棒立ちになり、拳を震わせているうちに、男の一行はもう目の前までやってきていた。他の人々はもうとっくに彼の行く手から逃げ出している。
男がふと、不快げにどろりとした目をあげた。
「なんだあ? 兄ちゃん。どけって言ったのが聞こえなかったかぁ?」
俺は男の凄む声など聞き流しつつ、隣に立つマリアに目を向けた。
「シスター・マリア。……お訊ねしても?」
「はい、なんでしょう」
恐ろしく低い声だったと思うのだが、マリアはまったく動じず、いつも通りの表情と声のままだ。
「初めから勇者の『奴隷』と決まっている三名に、ああいう幼い子供が含まれることはあるのでしょうか」
「……いえ。基本的にはありませんわ。たとえ魔力を持っていたとしても、そもそも子供は戦闘には伴いにくいものですし。なにより、体力的にも精神的にも未熟ですから」
「そうですか。では俺が今、あそこの少女たちを<テイム>すると、どうなりますか。また奴に<テイム>を仕返されれば、無駄なばかりなのでしょうか」
「…………」
マリアはちょっと困ったような、呆れたような顔で俺を見上げたが、すぐに首を横に振った。
「いいえ。一度<テイム>に応じた者は、二度と同じ者からの<テイム>に屈することはありません。彼女たちは、すぐにもあなた様のものになりますでしょう。……ただし、もともとあの者の『奴隷』として決定していた三名の者については、誰にも<テイム>はできません。彼女たちを解放するには、あの者が『勇者』としての資格を失う以外にはないのです」
「……わかりました」
そのまま俺は、ぐいと一歩、前に踏み出した。
相手を真正面から睨み据える。
「んお? なんだ……?」
まだ頭をぐらぐらさせている男は、酔いが抜けきってもいないのだろう。隣にいる胸の大きなエルフらしい金髪女の細腰をこれ見よがしにぐいと抱き寄せ、俺を嘲笑うような目で睨んでいる。
「なんだい? 兄ちゃん。なんか文句がありそうだねえ。けど、気をつけな? 俺は『緑の勇者様』だぜ。俺に手出しできるのは、魔族か勇者ぐらいのもんだ。こいつらは俺のガードだぞ。変な真似はしないが吉だぜ──」
だらだらとしゃべるその舌の回転が終わるのを待っているつもりはなかった。俺は以前にマリアから指南された通りに、片手を自分の宝玉に当て、もう片方の手をぐいと少女たちのほうへ突き出した。
一瞬で気を集中させ、その呪文を口に乗せる。
──『聖なる青の宝玉の名に於いて。汝に命ずる。……我に従え』。
途端、ぱっと俺の手のひらから光が溢れた。それが光の粉のように輝きながら、見るみる少女たちの額に吸い込まれていく。
遠巻きに眺めている群衆からも、「おおっ」という声が聞こえた。
「なっ……。なん、だと……?」
酔いどれの勇者はそれで、やっと事態を把握したらしかった。慌ててきょときょとと俺と少女たちとを見比べる。
小さな少女たち四名は、光を受けてからふっと一度目をつぶった。ふらふらとその体が揺れる。今にも倒れそうになった彼女たちの体を、<テイム>の影響はないはずの他の女たちが支えてやった。
やがて、少女たちがぱちりと目を開く。
そうして、すぐそばにいる醜悪な「勇者」をぼんやりと見上げた。
次の瞬間。
「ひいっ……!」
「い……や、いやあああッ!」
「きゃあ、ああっ……!」
広場に絹を裂くような少女たちの悲鳴が響き渡った。彼女たちは大嫌いな虫の化け物でも見たかのようにそこから跳び退った。そうして、よろよろして石畳のへりにつまずき、転びながらも、必死でこちらに向かって走ってきた。
「た……たすけて。たすけて、勇者さまっ……!」
「おねがいです、おねがいです!」
「いやなの。……あいつ、いやなの。いやなのおおっ……!」
小さな手が俺のチュニックの裾にとりついて、次にはもう、わあわあ大声で泣き出す声に包まれた。思わずその小さな背中を抱き寄せながら、俺は「緑の勇者」とやらをじろりと睨んだ。
この少女たちの反応が、何よりの証拠だった。
この男は、この子たちに非道の真似をしてきたのだ。
腹の底で、言い知れぬ炎が燃え上がった。
(外道が……!)
「き、貴様っ! 俺の奴隷を……!」
言いかけて、俺の眼光に怯んだように、男はびくりと動きを止めた。
俺の前に、レティがファイティングポーズで立ちはだかっている。ライラもライラで、いつのまにか荷物の中から取り出したらしいお玉を握って必死の形相で構えていた。
見れば周囲の人々も、じりじりと近寄ってきている。主に男が中心だが、いずれもこの男に対する憎しみをいっぱいにその瞳に浮かべていた。
「帰れ、勇者」
「腐れ外道め」
「この、緑の汚物め」
「小さな子供を食い物にしやがって、恥を知れ!」
次第に周囲から、誰からともなくそういう声が湧きあがり、やがて広場を揺るがすような大合唱になった。
「帰れ、帰れ!」
「てめえみたいな『勇者』、俺たちには要らねえんだよ!」
「せっかく頂いた聖なる力を嵩に着て、さんざん勝手なことをしやがって!」
「魔王を倒しに行きもしねえで、毎日女や子供あさりしちゃあ酒びたりでよ……!」
「俺たちが、俺たちが今まで、どんな思いでッ……!」
と、突然何かが飛んできた。
「ぐはっ……!」
それはきれいに「緑の勇者」の額にヒットし、ごん、と道に転がった。ジャガイモのような芋だった。
それを皮切りに、広場はもう大騒動になった。男にむかって、店の商品やらだれかの履いていたブーツらしいものが、雨あられと降りかかった。
卵に、トマトのような野菜。それらは勇者の頭の上でぐちゃっとつぶれ、体をドロドロに汚していく。
「消えろ」「出て行け」という怒号と共に、街じゅうの怨嗟がこめられたありとあらゆるものが男とその「奴隷」の三名に降り注いだ。奴隷の女たちは必死で、「主人」と自分たちの顔をかばうように腕を上げている。彼女たちもまた、悲惨なまでにドロドロに汚れていく。
俺はついに見かねて叫んだ。
「もういい。行け……!」
男はそれを合図にしたように、ぱっとこちらに背を向けて、三人の女たちを連れ、一目散にその広場から逃げ出した。