1 視察
北の大地に冬が来る。
いや、そもそも南側の人界よりはずっと北に位置するため、このあたりの気候は基本的に寒冷だ。土地も痩せ、作物の実りは悪い。
南側、遠方にあの「北壁」を擁する雄大な山脈を眺めながら、俺は刈り取りの済んだ畑の間をゆっくりと歩いている。ところどころに刈り取った草を干したもの、それを丸めた大きな干し草玉がある。さらに、雑木を寄せ集めて組み合わせた大きな塊があちらこちらに散見された。あれに雪が積もり始めると、本格的な冬の始まりなのだという。
(季節は、あったんだな)
いまさらのように、そんなことを考える。
ほんの半年しか滞在しなかったこともあり、温暖だった南側では、さほどその違いを感じなかったのだが。
こちら北側にやってくると、その違いは鮮やかだったのだ。針葉樹の多い、遠目にはほとんど黒く見えるような色目の濃い森。ごろごろとした岩をむきだしにしている痩せた土地。わずかな雑草。
このあたりの働き盛りの男たちは、屋外で農作業のできない季節になると、遠くの鉱山や街に出稼ぎに行くようだ。雪の降りだす前に動かなければ、移動の足の十分でない貧しい人々は思うように動けなくなってしまう。
残されるのは、その奥方と、年寄りや子供たち。もちろんかれらも遊んですごすわけではない。屋内でできるあらゆる作業、針仕事などの内職に明け暮れて、日の短い冬の季節を働きづめで生き抜くのだ。
こうして歩く間に時おり行き交う人々も、小さな子供をつれた年配者が多い。
ちょっと見渡すと、畑の隅に置かれた大きめの石の上に、疲れた顔で座り込んでいる老婆がいた。隣には小さな女の子が立っている。もちろん、二人とも魔族としての青い皮膚を持っている。このあたりでは、赤茶けた縮れた髪と、ダークエルフのようなとがった耳をしている者が多い。
魔族にも色々あって、こうしたヒューマンに近い見た目を持つ者もあれば、レティのように他の生き物の形質を大きく表出した者、また魔族としての蜥蜴族なども多くいる。こちら側でも、種族の多様さは南に引けを取らないものだった。
俺は老婆のそばで立ち止まると、話をしようと地面に片膝をついた。
後ろからついてきていたマント姿のギーナも足を止める。彼女はこのあたりでは珍しい自由な身分のダークエルフなので、大抵はその顔をすっぽりとフードに覆って隠している。でなければ、かなりの高確率で面倒くさいことになるからだ。
ちなみにこちら側では、滅多にハイエルフを見かけない。他のエルフも同様だ。居るとしてもそれは、南側から強制的に掠め取られてきた者がほとんどである。要するに、性的な奴隷として利用される者たちが中心なのだ。……まことに嘆かわしい話だったが。
とりわけ、こちらでは滅多に見ることのない白い肌をしたハイエルフは、裏社会にあって非常な高値で取引される。その多くは貴族と名の付く上級魔族に飼われ、そこで死ぬまで、ありとあらゆるものを搾取される人生が待っている。
もちろん俺は、今後は誰に対してもそんなことを許すつもりはなかったけれども。
「申し訳ありません。少しお訊ねしたいことが」
「……はあ。なんでございましょうか。旅のお方が、こんな婆に」
老婆がやたらに大きな声で答える。少し耳が遠いようだ。隣にいたほんの四、五歳ぐらいに見える少女が、恥ずかしそうに通訳をしてくれる。彼女はおそらく、そのためにこの老女のそばにいたのだろう。
俺は少女の助けを借りて、このところの暮らしぶりや、いま困っていることなどをゆっくりと老婆から聞くことができた。
「まあ、新しい魔王さまの御世になりましてもな。こんな田舎の村にはとんと、縁もないことでござりましての……」
「左様でございましょうね」
「どなたが魔王様におなりあそばされましてもの。わたしらみたいな卑しい者にまで、お目を掛けてくださるなぞはありませぬわな」
「……そうなのですか」
その後も、老婆は訥々といろんなことを語ってくれた。
これまでの人生。日々の暮らし。それなりに幸せだった若い頃のこと。
家族のこと、近隣の村人のこと。
ときおり現れる魔獣や低級魔族による被害。それらのものから、村の者たちが力を合わせて必死に村を守った記憶。
そうした事件のひとつに巻き込まれて、かつて夫が命を亡くしたという話。
「まあそれでも、この間までいたずるがしこいお役人が辞めさせられて、みな喜んでおりますじゃ。あの男はずっと、皆から集めた租税の穀物をこっそりとちょろまかしておったのです。それがこのたびは、袖の下を欲しがらないちゃんとしたお方がお役についてくだすって。これも新しい魔王さまのご人徳よと、村の者は喜んでおりましたじゃ……」
「そうでしたか。……大変、お手間を取らせました。参考になりました。どうもありがとうございます」
老婆に深く頭を下げ、通訳を頑張ってくれた少女にも礼を言い、たまたま持っていた茶菓子を渡してそこを離れる。少女は手の上に置かれたものにびっくりして、もともと大きなつぶらな瞳をこぼれそうに見開いた。そうして、宮殿の料理人の自信作であるトリュフチョコレートのような菓子をじっと見つめていた。
今の俺は、もともと南側にいた時とさほど変わらない服装だ。肌は青く変化したままだけれども、髪は短く、普段着の素朴なチュニック姿。まずまず、そこらでよく見かける旅の者と似たような格好である。
もちろん実際はこういう姿ではないのだけれども、今の俺には魔王としての強大な魔力が備わっている。こうやって人の目を欺き姿を変える魔法は、さしたる魔力を消費するものではなかった。
「この辺は、だいぶ落ち着いたみたいだね、ヒュウガ」
背後から、静かなアルトの声が掛かる。俺は振りむいた。
「ああ。少し安心した。だが、まだまだだな」
「そうなのかい? 酷吏のバカどもがいなくなって、おばあちゃん、随分と満足そうだったけど?」
「これまでがこれまでだっただけだ。本来ならもっともっと、皆が働いた分に応じて報いられ、豊かでなくては嘘だろう」
「……そういうもんかねえ」
そもそも、「勇者」には「魔王を倒す」という一応の目標があった。
しかし、今の俺にはそれがない。あの「創世神」が「魔王」に求めるもの。それは、単純に「魔王でありつづけること」。それだけだ。
あの日、魔王として生まれ変わった俺に向かって、シスター・マリアは淡々と事務的にそう告げた。
いつか四天王そのほかの強い魔力を持つだれかに殺され、位を奪われるか。あるいはそのほかの誰かにやっぱり殺されてこの世の者でなくなるのか。要するにその日まで、ただただ「魔王として」生きていること。
それ以上のこともそれ以下のことも、「創世神」は俺に望んでいない。
それさえ果たせば、あとは何をしていようが構わない。
臣下や民に、何を求めても構わない。それがどんな理不尽なことであっても。どんな圧政を敷こうが、残虐な専制君主となろうが。どんな悪逆非道の王になろうが構わぬ。
もはや、なんでもいい。そう、なんでもいいのだ。
真野は敢えて、自らそういう「魔王」であることを選んだ。
……だが、俺は。
正直いって、そういう負のベクトルを背負いまくった君主になど、死んでもなるつもりはなかった。そんなことをして人々に多大な迷惑を掛けるぐらいなら、死んだほうがマシというものだ。
どうせこの道から逃れられないというのなら、できるだけ人々の役に立つ魔王でいよう。これまで自分のことしか考えることのなかった魔王の治世下にあって、庶民はさぞや苦しい生活を強いられてきたことだろう。せめて俺が君臨する間だけでも、そうした人々にとって楽に生きられるシステムを、なるべく多く残せるようにしてやらなければ。
「ほんっと。どこに行ってもヒュウガはヒュウガ……なんだよねえ。前向きすぎて、クソ真面目で。ちょっと笑っちゃうよ、ほんと」
ギーナが苦笑しながら肩をすくめる。
口ぶりとは裏腹に、その表情に俺を責める色はない。
彼女は俺がどこでどうなろうとも、何になろうとも、そして何があってもついて行くのだと、あの時宣言してくれた。ちゃんと伝えたことはないけれども、どんなに心強く思ったか。どんなにあの言葉を嬉しく思ったか分からない。
いつかは、きちんと伝えよう。そう思う。
と、頭の中に退屈そうな少年の声が響いてきた。
《なーなー。用事、終わった? もう帰ろうぜー。ここ、寒い》
魔王専用の黒いドラゴン、ガッシュの思念だ。
少年とは言ったが、実際は声変わりをしたての、人間で言えばちょうど中学生ぐらいのイメージの声音である。最初のうちはなんとなく、あちらの世界に残してきた弟のことを思いだして胸が痛んだものだったが。
彼はやや悪ぶってはいるものの、なかなか筋の通った魂をもつ、黒光りする美しいドラゴンだった。聞けば、あのリールーとも遠い親戚筋に当たるらしい。これには俺も驚いた。
《すぐに行く。待たせてすまなかったな、ガッシュ》
《べっつに? いいけどー。早くしろよなー》
《ああ》
彼の思念にそう答え、俺はギーナを連れて、ガッシュの隠れている針葉樹林のほうへ向け、寒風の吹き渡る田舎道を足早に戻っていった。





