episode1:Nighthawks 4
ここに出てくるキャラクター名は一応元ネタがあります。まあ本編とは関係ない作者の趣味みたいなもんです。気が付いてくだされば幸い。
こちらに向かってきたのは、私よりふた回りほど大きな男性だった。
なぜか相手は私を見た途端、ビクッっと硬直した。
幽霊にでも見えたのかな。
男は私にライターを貸してくれるかと聞いた。
警察ではないことは確かなようだ。私は慌ててポケットから取り出して手渡した。
けれども、私は警戒を解くことはない。
なにしろここは、真夜中の人気のない大学なのだ。用心に越したことはない。
私は無意識にポケットにある防犯ブザーをそっと握り締めた。
もしものことを考えてのことだ。
ちょっとでも不審な動きを見せてみろ。ブザーの紐を抜いてやる。
だが、それは全くの悪手であることに気がつく。
もしここでブザーの爆音を響かせたとしよう。確かに大学の守衛さんや近くを通り過ぎた人が助けてくれるかもしれない。
しかしその後はどうだろう。
身分を確認されたり、警察へ事情聴取に行くのではないだろうか。
なんということだ。家に連絡が行くだろう。きっと家族会議が開かれる。
リビングには鬼の形相をしたお母さんと悲しそうな顔をしたお父さん、テーブルの真ん中に置かれたタバコ。
家庭崩壊、離婚、一家離散―――そこまで想像したところで男に声をかけられた。
「そのタバコうまいっすよね。俺も同じやつなんすよ」
男はあからさまに作った笑顔で私に声をかけた。
なんだこの人。
どうやら痴漢や強盗の類ではないようだが、私の頭の中は、地震でも起きたかのように混乱している。
やばい。
喫煙所に人が来るパターンまでは想定したけど、話しかけられることは全く予知していなかった。
体中からアラート音が鳴っている。
タバコを吸う人同士ってどんな会話するもんなんだろう。
冷静に考えろ、相手は私のことを同じ大学生だと思っているはず。ランニングに出かける時は身分証もスマホも持ってきてない。私の歳がばれることなどない。
私はなるべく平静に、しかも興味のない風に「そうですね」と返した。
だが、言葉が続かない。
このタバコしか知らない私は他の種類との味の違いなどわからないからだ。
ああ、もう何て言えばいいの。
私は逡巡の末、味について答えようと決心した。
味覚ならば人によって感じ方が違う。それならば私が未成年だってこともバレない。しっとりとまろやか、それでいて深みのある……いや、これはお父さんの好きな料理漫画の反応だ。
「ここ雰囲気いいよね。あの藤棚とか今の季節は綺麗だし」
私が味について述べる前に、向こうから新しい話題が飛んできた。
よかったぁ、この話ならいける。私は内心ほくそ笑んだ。
この大学は志望校で、おおよそのことはこの間のオープンキャンパスで知っている。この流れならこの大学をよく知ってる人間っぽい会話ができるぞ。
「そうですね。人もいないし。あ、あとあそこの藤棚ってけっこう有名みたいですよ。今年の綺麗なキャンパスがある大学ランキングで上位でしたし」
「へえ、知らなかったよ」
男はぽかんとした口調で呟いた。
……よし。私は若干冷静さを取り戻し、相手を観察することにした。
真夜中とは言っても月が出ているので、ぼんやりと男の全身像は見ることができた。
ざっと確認したところ、どこにでもいる大学生といった容姿だ。
真っ赤なジャージとカーキのチノパンで、足元にはトロピカルなビーチサンダルを履いている。私としてはクラスメート中で3番目くらいにかっこいい男の子がそのまま年をとった、という感じで悪い印象はない。
だが、大切な時間を邪魔しに来たのは間違いない。私は相手がサンダルを履いていることを思い出した。もしものことがあっても走って逃げ切れるのではないか。
わずかに心の余裕ができたところで相手に質問してみる。
「あのう、よくここで吸ってるんですか?」
男性はよくここを訪れるのだろうか、だとしたら私の大切な時間と場所は失われることになる。それだけは避けたい。
「どうだろ?月に1回くらいかな……たまになんだけど、夜ここに来ると落ち着くんだ。気分転換ってヤツ」
なあんだ、じゃあ今日は本当に偶然か。
私はほっとした。それくらいの頻度であれば問題ない。
そこまで考えたところで、もう1つの決心をした。
どうやら相手は私のことを未成年だと疑ってはいないようだ。だったら話を合わせてしまいましょう。
その後、何回か言葉を交わし、私の設定は固まりつつあった。
私はこの大学の2回生(2年生とは言わないらしい)で法学部、テニスのサークルに入っている。周りに喫煙者がいないので、練習後にここで1人で吸っていた。こんなところ。
なぜ法学部なのかというと、彼は社会学部にいて同じ学部だとまずいと思ったのと、実際に私が行きたい学科が、この大学の法学部にあるからだ。そしてこの男も2回生ということで、2人とも敬語を使わずに会話することになった。
「1人でぼぅっとしてるとさ、いろんなこと考えられるんだよね」
男は夜空を見上げながら呟いた。煙が空に舞い上がり、闇夜に吸い込まれるように消えていった。
「なんかカッコつけすぎじゃない」
男の言ったことがあまりにも自分に当てはまっていて、私は少し反発して見せた。
「じゃあ君はどうなんだい。深夜に女性1人でこんな場所にいるってさ」
男はからかうように私に微笑む。
こっちにはいろいろ事情があるの。……何て言えば誤魔化せるかな。だが、一瞬考えて出た言葉はあまりにもお粗末だった。
「私は……か、彼氏をまってたの」
男はなんともいやらしい笑顔を浮かべる。歯をニヤッと見せて勝ち誇るように言った。
「ふぅ〜ん。そっかあ、じゃあその彼氏が現れるまで待ってみようかなぁ」
どうやらこの程度の嘘は見破られるらしい。
「はあ?今日会ったばかりなのにストーカーですか。キモすぎ」
私は半分ヤケになっていた。そもそもが嘘で塗り固めた設定のため、この会話の着地点がまったくわからない。
「なんでストーカーなんて言葉がでるかなぁ、自意識過剰でしょ」
「君、どーせちょっと女に言い返されると自意識過剰って言葉つかって反撃してるでしょ。見てたらわかるよ」
あーもう、売り言葉に買い言葉。私はこの18年間で学んだ口喧嘩の作法その1「見ればわかる」を使った。効果:相手は死ぬ。
「……へえ、じゃあ君の彼氏はさぞ素晴らしい人格者なんだろうねぇ」
相手は一瞬怯んだものの、素晴らしい切り返しをしてきた。
むう、この相手はなかなか手強い。
「まあね!少なくとも君よりはいい人だよ。」
私はクラスで人気のある男子のコラージュを必死で作った。顔は下園くんで、性格は三浦くんで、声は多村くんで……よし、リアリティがでてきた。これならば何を聞かれても答えられる。
しかし、男は言葉を続けなかった。
一瞬の間。
私は言い切ってしまった。だからこの会話は終わってしまったんだ。隣にたたずむ男は素っ気ない様子でタバコをふかしていた。なんだか申し訳ない気持ちでいっぱい。
会話の糸口を探す内に、藤棚の隣にある時計台が視界に入った。もうここにきて30分以上経っている。ああ、もうこんな時間。
私は気まずさを紛らわすように切り出した。
「あーごめん、私もう帰らなきゃ」
雑な切り出し方だな……私は勝負から逃げるような後味の悪さを感じた。しかも、さっきは勢いとはいえ、根拠もなしに今日初めて会った男に悪口を言ってしまった。
けれども彼は先ほどの会話の声とは似ても似つかないような爽やかさで「じゃ、またな」と言った。彼は私の先ほどの発言をあまり気にしていないようだ。私もふと優しい気持ちが胸に湧き、「じゃ、またね」といった。
彼は私と別の方向に帰っていく。今日はこれでおしまい。
帰り道の最中、私はいつも感じる爽やかさとは種類の違う爽やかさが胸の内にあることに気がついた。
いつもより街灯が明るく見える。住宅街までのゆるやかな坂が辛くない。
私は最初自分の貴重な時間が奪われたことを嫌がっていたことを思い出した。
でも今は、どうだろう。
私は男の子とあんな言い合いを(しかも年上)したのは初めてだった。
小学生の頃はあったかもしれない。しかし、少なくとも女グループと男グループは別れて行動するものだと体感するようになっててからは初めてのことだ。
家に帰ると、いつものようにお風呂場に行った。
匂いを丁寧に洗い流すと、自分の中に溜まっていた何かも流れ出ていった。
今度も今日と同じ時間に走りに行こうか。
ベットに飛び込むと枕元のスマホを手に取る。SNSには友人から何かの長文が送られきていたようだが、全部既読せずに放置した。そんな気分じゃないの。今日は。
―――そういえば名前を聞いていなかったな。まどろみの中でそう思う頃、私は深い深い眠りについた。