ライ麦姫のお話
昔々、あるところに石造りの小さなお城がありました。
小さなお城の主は、大きな玉座にそぐわぬ小さな身体の王様で、その娘のお姫様はそろそろお年頃、といった頃合い。王妃様はもうだいぶ前に亡くなっており、王様はひとり頭を悩ませておりました。お姫様はなかなか利発で聡明な良い娘だったのですが、容貌にはあまり優れず、旦那様候補に恵まれていなかったためです。
お姫様本人はそれほど気に留めていなかったのですが、王様としては大問題。そんなある日、王様は城下にひとりの吟遊詩人が訪れたという話を耳にしました。名はアルグレイブ。
その詩人の声は甘く、かつ凛とした響きを秘めており、リュートを爪弾く指先は繊細で、流れる音は蜂蜜のよう。覚えている歌の数は歴史物から流行り歌まで城内のどんな者よりも多く、たちまち町中の評判になっておりました。
王様もすぐに彼に興味を持ち、宮廷に招くことにしました。小さなお城ですから、そのあたりはとても柔軟なのですね。
招かれると詩人はすぐに、王様の要請に従って様々な歌を奏でました。この国の成り立ちの歌や、優しい恋の歌、悲しい英雄の物語まで。王様もお姫様も、宮廷の他の人々も、とても楽しい時間を過ごしましたし、詩人にたくさんの褒美を授けました。そこまでは良かったのです。王様は、彼が深々と頭を下げるとこう言いました。
「アルグレイブよ。そなたの腕前、その確かな声と業はよくわかった。そこでそなたにひとつ頼みがあるのだ」
詩人は顔を上げました。細面の、なかなかの男前ですが、どこか深い悩みを抱えたような顔をした男でした。
「私のこの姫について讃える歌を作り、そなたの行く先々で歌ってはくれぬか。とりわけ、姫の美しさについて」
「まあ」
お姫様はとても驚きました。そして父親に食ってかかったのです。
「お父様。何てことをおっしゃるのですか。そんなことをすればいい物笑いの種ですわ」
お姫様は賢い方ですから、自分の容姿が、醜いとは言わないものの、決して秀でているわけではないことはよくわかっておりました。それを変に飾れば、きっとおかしなことになるだろうということも。ですが、王様は聞きません。
「黙れ。いいからお前は黙って見ているが良い。どうだ、詩人よ」
「お言葉ですが、王よ」
詩人は悩みの色を濃くして、ほとんど苦々しいと言ってもいい顔で言いました。
「私には、ある呪いが掛けられております」
「呪いだと?」
辺りがざわざわと騒ぎ出しました。詩人は決然と続けます。
「はい。それは、新しい優れた歌を作れぬという呪いです。いえ、正確には」
彼は少し目を伏せました。
「嘘がつけぬ呪いなのです」
王様は目をぱちくりさせ、やがて、少し顔を怒りで赤くしました。
「つまり、姫の美しさを歌うのは嘘になると、そういうことか」
「そこまでは申しませぬ。ただ、歌や物語にはどうしても誇張が混じります。それが私にはできないのです」
「お父様。おやめください。私は自分の身の程はよく知っております。この方を困らせてまで嘘を喧伝させるわけにはいきませんわ」
お姫様は止めに入りますが、王様の怒りは止みません。どちらかというと、呪いなどというよくわからぬものを持ち出され、かわいい娘にケチをつけられたような気持ちがしてしまったのですね。
「アルグレイブよ。では我が娘、ブランシュの美しさを、一言で讃えてみよ。さもなくば首を落とす」
「は……」
詩人は弱り果てた顔で、それでもどうにか唇から言葉を紡ぎ出しました。
「花のかんばせ、と」
「なんだ、出来るではないか」
王様は少し拍子抜けしました。
「では何の花か。薔薇か、雛菊か、あるいは野に咲く勿忘草か」
その通り、可憐な勿忘草です、と答えておけばこの場はしのげたことでしょう。姫は綺麗な青い目をしておりましたから。でも、あいにく詩人に掛けられた呪いは本物で、彼はこう言ったのです。
「そのどれとも異なり……そう、ライ麦です」
どよめきが起こりました。ライ麦には確かに花は咲きますが、とても美しい花とは言えません。ごく小さな、地味なものです。そう思って姫の顔を見れば、なるほど、そばかすの散った地味な顔は、確かにライ麦と言うのがぴったりの様子をしていました。人々の中には、思わず笑いを堪えた者もいたほどです。
しかし、王様の怒りは頂点に達しておりました。腰の剣を抜いて彼に飛びかかろうとした時、鈴を転がすような笑い声が響いたのです。
皆がそちらを見ました。笑い声の主は、当のお姫様でした。ほとんど笑い者にされた本人が、一番楽しそうに笑っているのです。王様も、毒気を抜かれた顔でぽかんとそれを見ていました。
「ああ、おかしい。ライ麦とはぴったりね。アルグレイブ。あなたは本当に優れた詩人だわ」
そうしてお姫様は、長いスカートの裾をつまみながら、真っ青な顔をした詩人の元に歩いていきました。
「私からもお願いがあります。今の言葉をどうか旅の先々でふれ歩いてもらいたいの。この城の姫はライ麦姫、と」
「ブランシュ!」
「私が知ってほしいのは、私の本当の姿ですもの」
背筋をぴんと伸ばし、はっきりとした声で姫は言いました。
「よろしくお願いね。アルグレイブ。それでは、退出を許します。皆もくつろいで」
そうして、詩人はうやむやのままに外へと急がされ、城を後にしました。この日のことは人々が噂しあい、ライ麦姫の名前は瞬く間に町中に、それから町の外へと広まっていきました。だから、実際は詩人がわざわざ歌って歩くほどのこともなかったのです。
詩人は王様の怒りを恐れてすぐにこの土地を後にし、そして、二年の月日が過ぎました。
吟遊詩人、アルグレイブは、再びあの小さな城の下の町を訪れていました。二年も経てば王様の怒りも解けているだろうと踏んだのと、何よりあのお姫様の輿入れの日が近いとの噂を聞いたからです。ライ麦姫の婚礼だ、とからかうような調子ではありましたが、城下の民はめでたい日を祝っているようでした。
詩人は町に滞在する中、祝いの日にふさわしい歌を歌い、また喝采を受けておりました。そんな中、宿に知らない男が訪れました。
男は城からの使いと名乗り、これから姫がお忍びでいらっしゃる。決してこのことは口外せぬよう。また、姫に失礼があれば即切って捨てる、と彼に告げたのです。
吟遊詩人はさっと青ざめました。あの場は助けてくれた姫ですが、どんな気持ちでいたかも知れない。一体どんな用でこんなところまで来るのか、と。
やがて、戸が静かに開き、村娘の格好をしたお姫様が姿を現しました。少し大人になり、すっとした顔つきにはなっていましたが、そばかすの数と、豪奢なドレスよりも地味なエプロンがよく似合う、そんな顔立ちは変わってはいませんでした。
「お久しぶりです、アルグレイブ」
お姫様はスカートの裾をつまみ、礼をしました。優雅な所作が、格好とは実に不釣り合いでした。
「お久しぶりでございます。ブランシュ姫様。この度は、私に一体何用で……」
くすり、とお姫様は笑います。
「緊張しなくても良いのよ。私はあなたにお礼を言いに来たのですから」
「お礼、ですか」
「ええ。あなたもご存知と思いますが、私はもうじき他の国に嫁ぎに参ります」
お姫様は青い目を細めました。遠い国を夢見るように。
「是非にと言ってくださる方がいたの」
「おめでとうございます」
詩人は深々と頭を下げました。
「それでね、私、話が来た時にお父様にお願いをして、その方にお手紙を送りました。私がライ麦姫と呼ばれていること。決して美しくもかわいらしくもないということ」
詩人は驚き、ただその言葉を聞いていました。
「そうしたらね、アルグレイブ。その方はこうお返事をくれたの」
お姫様は言葉を切り、すらすらと手紙の内容を口にしました。あるいは、もう全部覚えていたのかもしれません。
「『親愛なるブランシュ姫。実は、あなたのその愛らしいあだ名と名付けの一部始終は、我が領地にも届いております。
ですが、それが何でしょうか。ライ麦は豊かさと繁栄の象徴。上辺のみの美しさよりも、私はあなたのその強さと聡明さを愛するでしょう。
どうか我が土地に根付き、千の民にも食べきれぬほどのパンとなってはくれませぬか』
しん、と一瞬沈黙が降りました。やがて、お姫様はまた言いました。
「私はこの手紙で、この方に恋をしたのよ。アルグレイブ。どこまで本当の気持ちなのかはわからないけど、この手紙の向こうにいる人に恋をしたの。そして、そんな恋しい人の元に嫁いでいける、なんて幸せなことでしょう」
にこにこと、お姫様は笑っています。本当に、嬉しそうに。
「あなたのおかげです。本当にありがとう」
「いいえ、それは姫様があの場を収めてくださったおかげで……」
詩人は言いかけ、そしてやめました。心からの感謝を向けられた時、応えるのに一番良いのは、それを真っ直ぐに受け止めること。
「勿体ないお言葉です」
「呪いの話は本当なの?」
「ええ。昔、ひとりの女性に不誠実なことをいたしました。その相手に掛けられた呪いです」
詩人は、少しだけ笑いました。
「私も、姫様のようにひとつの恋を大切にすればよかったと、そう思うばかりです」
「まだ間に合ってよ。嘘をつかない誠実な方なんて、きっといい方と巡り会えるわ」
「そう願います」
詩人はふと、何らかのひらめきに捕らわれ、目を細めました。お姫様は少し不思議そうにします。
「アルグレイブ?」
「姫様。私に、あなたを讃える言葉をもうひとつ足させていただけませんか」
「? ええ」
詩人は、ゆっくりと心の中に浮かんだ言葉を形にしてゆきました。嘘のつけない彼の、本当の言葉を。
「ブランシュ姫。ライ麦の姫。されど、心は……豊穣の大地。全てを生み出す深き土」
詩人は、真っ直ぐにお姫様の青い瞳を見つめました。
「あなたの未来が限りない繁栄と希望の元にあることを祈ります。姫様。言葉より他に物を持たぬ者からの、ご婚礼のお祝いです」
お姫様も、詩人の悩み深い瞳を覗き込みました。
「ありがとう。確かにいただきました」
それから、お姫様は供に守られて宿を後にし、詩人の元には礼として一本の美しい短剣が残されました。彼はこの短剣を生涯大事にし、どんなに苦しい時も決して手放そうとはしなかったそうです。
お姫様は、無事に遠い国へと嫁いでいきました。限りない繁栄とはいかないようでしたが、それでも領主である夫と共に様々な苦難を乗り越えていった、と伝えられています。
昔々のお話です。ライ麦姫と呼ばれたひとりのお姫様と、嘘のつけないひとりの詩人の、小さなお話です。