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私的哲学

小さな世界について

作者: 羅志

これはあくまでも私一人の考えです。

万人が同じ考えてはないので、悪しからず。

人の記憶は一つの世界だ。


その人の記憶に残っているということは、その人の世界で生きているということだ。




世界といえば、連想するのはこの地球という大きな惑星。


それがいま、自分という人間が生きている世界だ。


この地球に生まれた以上、誰もがこの地球という世界に生きている。




けれどそれよりも小さな括りの世界がいくつも存在している。


国というくくりでの世界。


私でいうならば、日本という世界だ。


国からもさらに小さな括りにわけられる。


日本でいうなら地方、都道府県、市、町。




さらに細かく括るならば、地域、親族、親兄妹、友人。


世界とは大きいだけではないのだ。






けれど、その世界はどれも、人の記憶という世界が根源にあると私は思う。


地球という世界だって、歴史上の人物がこの星に名前を付けなければそういう括りは生まれなかった。


歴史は記録と、記憶で成り立っている。


記憶というのは酷くおぼろげで曖昧だけれど、記録以上に多くのものを許容する世界だ。








人は誰しも、大きな括りで見れば、生きている。


けれど、小さな括りでは、どうだろうか。




私は、自分を含む人の記憶こそ、自分が最も身近に感じる世界だと思っている。


だからこそ、忘れられることが酷く恐ろしい。






例えば、だ。


AとBという人間がいる。二人は親友と呼べる仲だとしよう。


けれど、切っ掛けがあって二人は別れることになった。


数秒、数分、数時間、数日、数か月の別れであるならば、そんな忘れる、ということはないだろう。




けれどそれが、数年、だったら?




大体の人は別段親しくない者のことは忘れてしまう。


親しい者であっても、数年間音沙汰なし、なんてなれば日頃手に入る新しい記憶に埋もれて、その者のことを忘れてしまう。




その忘れるということ。


それが、その記憶の持ち主の世界で、死ぬ、ということだと私は考える。




生き返ることは容易いことではない。


相手に思い出してもらう必要がある。


けれどもし、相手が思い出すことを拒絶したら。


完全に忘れてしまっていたら。




きっと忘れられた人は、その人の記憶の世界で死んだままだ。


記憶の世界では、死んだ、なんて事実も残らないのだから。


消えてしまう。








私はそれが、恐ろしく怖い。


忘れられることが怖い。


とりわけ、親しい人間に忘れられることが。


その人の世界で死んでしまうことが。




例え相手の世界で自分が生きていようとも、当人でないかぎりそれを知る余地はない。




だから構ってほしい、と思う。


構ってもらえるということは、少なくとも相手の中で自分は生きているのだ。


鬱陶しいと思われようと、相手が自分のことを覚えていてくれているなら。






自分の世界で例え相手が生きていようと、相手の世界で自分が死んでいれば、なんの意味もないのだから。




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