随筆/無名英雄(1985年、イラン・イラク戦争邦人救出作戦)ノート20160412
トルコの少年は教科書にあったこんな記事を朗読させられていた。――1890年、9月16日、日本の和歌山県串本町起きで、乗員600名を乗せたトルコ海軍木造フリゲート艦エルトゥールル号が、嵐のため座礁。地元漁師たちは仲間を失いながらも69名の同国海軍将兵を救出、さらに嵐で漁に出られず乏しい食糧を分けてやったことを……。
海難から100年が経った。
1985年3月17日、イラン・イラク戦争の最中の出来事だ。イラク大統領サッダーム・フセインは、「48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、いかなる国の航空機・民間機であろうとも撃墜する」と宣言した。これをきいたテヘラン駐在外国人たちはテヘラン空港に殺到した。
そのなかには300名弱の日本人の姿があった。日本政府自民党は、憲法9条がらみから、「航空自衛隊輸送機を戦地に飛ばしてはならない」とする社会党の主張で、上策での邦人救出を断念した。対案・中策として、日本航空に臨時便フライトを要請。ところが、会社側が飛ばそうとすると、高濱雅巳機長が手を挙げたものの、けっきょく、労働組合が、命がけなので拒否する、ということになった。――高濱機長は元海上自衛隊員で、同年8月12日、御巣鷹山での日本航空123便墜落事故で亡くなることになる。
最後の案は下策をきわめた。日本政府はテヘラン駐在日本大使・野村豊在を介して、各国大使館に連絡をとらせる。オーストリアは脱出航空機に日本人40人を乗せてくれた。当時のソ連(現ロシア)は、「自国民で手一杯だから無理だ」と拒否回答した。当然のことであり断った相手を恨むどころか、頼むと口にしたことすら恥ずかしいことだ。
タイムリミットである3月19日20時が刻々と迫ってきた。
現地には215人の日本人商社マン・銀行マンとその家族が取り残されていたままだ。ライフライフラインの最前線を担ってきた人々だ。――このままでは見殺しにすることになる。
そのとき、伊藤忠商事イスタンブール所長が、トルコの首相に日本人救出を頼んだ。オザル首相は長年の友人だったので、その申し出は受け止められた。また、イラン日本国特命全権大使となった野村をして、イスメット・ビルセル在イラントルコ特命全権大使への救援要請も受理された。
首相の要望がトルコ航空に打診されると、パイロットたちが全員立ち上がった。パイロットたちは少年のころ、昔、自国の軍艦将兵が日本の漁師たちに命を助けられたことを教科書で読んだ記憶があった。――オルハン・スヨルジュ機長やアリ・オズデミル機長もそうだった。
トルコからやってきた救援機は2機。
3月19日19時15分スヨルジュ機長の操縦するエアフロートの1番機が飛び立つ。オズデミル機長の2番機は、なんと、タイムリミットである20時での離陸だった。そして215名の日本人は全員脱出に成功した。――なお、日本人が救援機に乗ったこともあって、あぶれてしまったトルコ人たち500名は、自動車に乗り陸路をつかってイランを脱出することになる。
1999年8月17日。トルコ北西部で大地震が発生すると、救助された商社マン・銀行マンは義援金募金活動に奔走。日本政府は海上自衛隊護衛艦「おおすみ」に仮設住宅ほか支援物資を載せ、また、レスキュー隊・医療隊などの専門チームを送った。
2006年1月、小泉首相はイスタンブール市内のホテルで2番機元機長オズデミルと面会し功を労い記念品を贈った。――NHKの番組『プロジェクトX』ではオズデミル機長にスポットを当てあたかも1人で215人を救ったかのように描いていたため、詳細を知らない小泉首相はこの人のみに礼を述べた。そのためオズデミル元機長と親友スヨルジュ元機長との間に一時亀裂が入ったのだが、地元メディアの仲裁があって、なんとか旧交に復したという一幕もあった。
2013年2月24日1番機元機長スヨルジュ永眠。
.
ノート20160227
.
Wiki 「イラン・イラク戦争」
住永千裕 訳 「2006年02月02日付 Milliyet紙」
ほか