読書/森鴎外 『山椒大夫』 ノート20161125
森鴎外 『山椒大夫』 感想文
【概略】
私が史学科学生のとき、日本史概論で『山椒大夫の歴史的意義づけ』というのがあって、森鴎外の小説がテキストとされた。教授が何を言わんとしているのか判らない。レポート提出後に教授は、――山椒大夫は、荘園制の領主層にあたる人物である。一国司の独断で体制そのものを覆すことは、当時の社会構造から不可能だ。古代奴隷制から、中世農奴制をすっ飛ばして、近世小作人制に移行するのは無理がる。そのあたりは、著者のロマンチシズムである。――とのことだ。
.
【内容】
奈良時代・養老2(718)年、陸奥国から岩背国と岩代が分割されたのだが、数年後にまた陸奥国に戻された。岩背と岩代は福島県西部と東部に相当する地域だ。岩背国は別名岩代国という。両国は、陸奥国に戻っても、慣習として石城・石代と呼ばれていた。信夫郡は、だいたい福島市あたりになる。
さて本題。
舞台は平安時代のことだ。
岩背地方の信夫郡に住まいを置いていたのが平正氏だ。国守の次官を掾という。平正氏は陸奥掾だったが、国守の罪に連座して、筑紫へ左遷せられた。
妻子は、平正氏を追って旅に出る。姉が安寿、弟が厨子王だ。平正氏室の名は不詳である。それに侍女・姥竹が加わっての道中。――越後に抜けると、そこでは国守の命で旅人に宿を貸すことが禁じられている。直江の浦で出会った、人さらいに、そこをつけこまれた。そして親不知海岸。そこに佐渡二郎、宮崎三郎という、それぞれ奴隷船でやってきた商人に売却されてしまう。母と姥竹は佐渡二郎の船へ、姉弟は宮崎三郎の船へ乗船させられた。姉弟は、丹後国良ヶ浜の荘園領主・山椒大夫に奴隷として売却された。塩田を経営しており、安寿は潮汲み、弟は海水を煮沸するための、柴刈にだされた。それでも姉弟は、守本尊の地蔵様、父親がくれた護り刀を御守にして、互いに励まし合った。
あるとき姉・弟は、脱出の機会を得て逃亡を図った。追っ手は山椒大夫の息子・三郎だ。安寿は途中で足手まといになるとの理由で入水したのだが、弟は国分寺に逃げ込み、曇猛律師の保護を受けた。律師のはからいで、僧形となった厨子王は、東山の清水寺にゆく。するとそこで関白師実公と出会い、これまでの経緯を述べ守本尊の地蔵様をみせる。関白は、百済国から伝来した放光王地蔵菩薩の金像だと評価した上で、皇族・桓武平氏の祖・高見王が持仏としていたものだから、子孫である平正氏の子が持っているのは道理だとなった。
僧籍から還俗した厨子王は、関白に可愛がられて、元服して平正道を名乗る。昇進しついには丹後国守にまでなった。任国は遙授の官で、掾が統治してくれるので、国守自身が現地に赴く必要はないのだが、厨子王改め正道は、自ら行って、奴隷解放と人身売買の禁止を宣言した。その上で山椒大夫に、やんわりと、人夫には給料を支払うように諭す。すると家はますます栄えた。また姉の亡くなったところに尼寺を建てる一方で、随臣とともに佐渡に渡って、母親を捜索。
佐渡の国府あたりにある大家の庭で、盲目の老婆が歌から母親と悟り、ついに母子は再会した。
.
【所見】
森鴎外の『山椒大夫小説』は大正4(1915)年、中世芸能・説経節『五説経』「さんせう太夫」に取材している。「山椒大夫」の名の由来について、由良・岡田・河守の3ヶ所の庄を領していたためだという。庄は荘園をさす。荘園から逃散・浮浪化した民を散所の民と呼び。散所の民をさらって売買した奴隷商人のことを「散所の大夫」と言った。は、とも言う。安寿や厨子王丸の物語は、古代を舞台としているのだが、仏教的因果応報を主題とした、中世の説話的な様相が色濃いフィクションである。下層民・散所の民を描くよりも、面白さというところで、没落した貴種放浪譚の形をとっている。
小説同様に、「さんせう太夫」では、罪を得た上級地方官の妻子が、無実を訴えに上京する際に、悪者に騙されて、親子離れ離れになる。姉は弟を脱走させたために、荘園の長者・山椒太夫の息子・三郎の拷問によって絶命する。つし王は姉の霊や神仏の導きで危機を乗り越え出世し、ついには山椒太夫父子に報復したというものだ。
「さんせう太夫」では姉弟の父親は岩城判官正氏とある。ローカルバージョンが多数あって、正氏の任国が陸奥国全体の国守になっていたり、奈良時代に一時陸奥から分離独立していた岩城国守になっていたり、津軽地方の領主だったりする。平安時代の国守は地方自治体の首長であるわけだが、中には大名のような扱いのものも混じっていた。
――そのあたりの調整について、森鴎外は、随筆「歴史其儘と歴史離れ」で、伝説の筋書きを基にしながら、登場人物の年齢から実際の年号を振り当て、そのうえで辻褄が合わない、あるいは好みに合わない部分に小説的な脚色を加え、安寿の拷問や山椒大夫が処刑場面などの残酷シーンをカットし、賃金を支払うよう命じられた「山椒大夫」の家が、後により一層富み栄えたとした。
……新人物往来社1977年9月号『歴史読本』にそう書いてあるとwikiにあった。教授は若いときにその雑誌を読んでいたのだ。さも正解を自分で見出しているかのように振る舞い、学生たちに、『山椒大夫の歴史的意義』なるレポートを書かせた。トンチンカンお間抜け考察を読んでニヤニヤしていたというわけだ。嫌な奴。笑。
ノート20161125




