掌編小説 マグロのピアノ組曲 20150809
短い間だったけれど、ピアノを習ったことがある。
エリちゃん先生。
夏休みになると、音大の学生だった彼女が、私の家を訪ねてきた。――長い髪・一房を束ね、長いまつ毛のぱっちりした目を眼鏡で隠していた。白を基調にした縦縞のブラウス、黒のスカートは膝丈くらい。
家の前には、けやきの古木が並んでいた。
敷地の東側が名刹に続く通りになっていて、そこに面した馬小屋を、戦後、長屋門に改築されたのが離れだ。階段を昇った二階にふるいピアノがあり、私はそこではじめて習って、弾いた曲が〝雪景色〟だったと思う。夏なのに、弾かせられたのは、いまだもって理由が判らない。――同曲は、クラッシクで、NHKの〝みんなのうた〟では歌詞がついていた。いまは弾けない。
リクエストすると、私の好きな曲を弾いてくれた。
アニメソングやら流行歌やらいろいろだった。
ある日、母が遠出することになって、少しばかりアルバイト料が奮発されたらしく、私のお守り役となって、水族館に連れて行ってくれた。
ガラス張りの館内では、静かにクラッシクの〝荒れの海〟が流れていた。――題名がいかついわりに、癒し系の静かな曲。
プリズムみたいなガラスのトンネルの上下左右を魚たちが泳いてゆく。大きなのや小さなの、水面のゆらめきが天井からさしこんで、幻想的だった。魚たちは青くみえたり、黄色くみえたり、赤くもみえたりした。
魚屋に売られているものとは違った色だった。
父がマグロが好きで、母がマリネをつくり、肴にしてウィスキーを飲んでいた。それが私にとって、オードブルになっていた。
「ねえ、エリちゃん先生、マグロはどれ?」
エリちゃん先生は、係員にきいてから、私に答えた。
「マグロ? あれね、飼育が難しいんだって」
「へえ」
私はエリちゃん先生に少し困らせてみようと考えた。――思いつきで、
「ねえ、マグロのピアノを聴かせてよ」
「マグロのピアノねえ……」
エリちゃん先生は、双眸を大きく見開き、深呼吸してから指を顎に当てた。
家の前のバス停に着いたバスから、私とエリちゃん先生は、ステップを飛び降りて、例の馬小屋を改装した長屋門の階段を昇り、ピアノ部屋に入るなり、練習用ピアノの蓋を開けた。
白地に黄色いキリンの模様が並んだ壁紙が壁や天井に貼られている。
練習用ピアノは、壁寄りに置かれていた。
眼鏡の音大生は、早速、渡しに即興でつくった曲〝マグロのピアノ組曲〟を聴かせてくれた。一時間、電車とバスを乗り継いできている間に、彼女は曲のイメージをつくりあげ、見事に私のリクエストをかなえてくれた。
軽快で、ちょっとサンバに似た曲。
そしていってくれたんだな、「お誕生日、おめでとう」って――。
ノート20150809