掌編小説 大唐怪異譚・火車 ノート20150830
大唐・長安城は、中央の朱雀門街を挟んで東西に各五十四坊を数える条坊都市で、四辺を囲む城壁内部の条坊をも牆壁で仕切っていた。刻限となれば各条坊の門は閉じられ市民はそれまでに帰宅せねばならず、うかうかとしておれば締め出されてしまう。
東市は九坊からなり、軒を連ねた商店街には、畿内で産する穀物から、織物や陶磁器類などの生活雑貨、全国各地から取り寄せた特産物の珍品が並び、合間には花街やら飲食店も混在している。
その長安に、魏顥という肥った名士がおり、人づてに李白を知って、玄宗皇帝の妹君である玉真公主を介し天子に推挙するに至った。
李白が宮中に召される少し前のことだ。条坊の門が閉じられる刻限を知らせる鐘が鳴らされたのだが、何、気にするほどのことはない。夜通し飲み明かせばよい。毎夜のことではないか。
気取った料亭は飽きてきた。親爺一人が切り盛りする居酒屋に入る。四十を超えたばかりの男が二人、酒を酌み交わしながら詩の批評を始めようとしたのだが、今宵は少し空気が重い。というのは店の隅にいる陰気な様子の男が気になって仕方がないのである。身なりばかりはいいが、小柄で貧相な感じがする。
李白は、男の席に徳利を持って行き、杯に酒を注いでやった。
「なぜ震えているのだね?」
酔って上機嫌になった李白の顔は紅潮している。彫り深く青い目をした西域顔で、顎には長い髭の長身だ。陽気で邪気がない。
男の瞼の下には隈がある。おどおどした様子で李白の顔をみつめていたのだが、やがて、安堵したように、身の上話を始めたのだった。
十年前になる。
月の夜、隣の条坊に住む友人と話し込み刻限に遅れた、親族である門番に頼み込んで、西市安永坊にある自宅に戻ると、条坊の門をくぐる少し手前に大きな邸宅があるのに気づいた。
(おかしい。ここは空き地だったはず)
男は首をかしげながら通り過ぎようとしたその時、足に何かが当たった。拾い上げて月光に照らしてみると一冊の帳面のよう。
(竈の焚き付けくらいにはなる)
そう思ってあばら小屋に持ち帰ったのだった。
夜が明け、朝げの支度をしようと、寝ぼけ眼をこすりながら、竈の薪に火をつけるため、昨夜拾った帳面を手にして頁をめくってみる。
帳面には、びっしりと名前が書いてあるではないか。
男は浅学なれども文字の読み書きくらいはできた。
頁の末行に自分も名前を書いてみたくなる誘惑にかられ、硯箱を持ってきて一筆加えた。
その夜。
男の家に、書生風の若者がやってきた。
「お迎えに参りました、旦那様」
男は若者がからかっているのだろうと思ったが、相手の調子に付き合って、「おお、ご苦労」と答えた。
外には馬車が控えている。さすがに気が引けたが、どういうわけだか乗ってみたくなった。馬車が、条坊の門前にくると、門番はそそくさと開けて通してくれる。そのまま車は前日に見かけた邸宅に入って行った。
男を乗せた馬車が着くと、暗がりの屋敷中に明かりがともり、賑やかに琵琶に笛太鼓まで奏でられ、中に入ると舞姫まで踊っている。
主席につき男の杯に酒が注がれる。酒を注いだのはまだあどけなさが残る夫人だ。
自分は独り身の小役人のはずだったのに交易で巨万の富を築いた素封家になっているではないか。これは夢だ。夢ならば全て合点が行く。ならば醒めるまで大いに楽しまねば損というものではないか。
酔い、舞って、美麗な夫人と共寝する。
夢のような日々は十年続いた。
ある日男は昔板あばら家に寄ってみたくなった。書生一人を伴って行ってみると、空き家になって荒れてはいたが原型をとどめてはいる。近所の人に、自分を覚えているか訊いてみようとしたが知る人はおらず、こう答えた。「宮廷闘争「武偉の乱」のとばっちりで市街戦となり、昔からいた人々はどこかに行ってしまったよ」と答えた。
しばし郷愁に酔い家路につく。屋敷の蔵は十余を連ね、内院には大きな池があり、全国の奇石を集めた豪壮な造りとなっている。屋敷に戻った男は例の帳面をまた開いてみたくなった。帳面は書類箱に厳重に収められている。蝋燭の灯かりに数頁にも渡って書き綴られた氏名の末行に自分の名前が当たり前のようにある。
男は思った。
(貧乏だった自分というのは夢で、金持ちの自分が現実であったのだなあ)
安堵感を覚え、急に眠くなり、老いというものを知らぬ幼顔の細君が先に休む寝台に潜り込む。
翌日、遅くに起きた男は蒼白になった。
昨夜、箱に戻さず書斎の卓上に置きっ放しにしていた帳面がなくなっているからだった。細君に訊くと、書生の若者に命じてごみ穴に捨てさせたのだという。だが掘り起こしてみたがそこにはない。
男はまた思った。
(もしあの帳面が誰かに拾われて、帳面の最後に名を連ねたとしたらどうなるのか? この家も、美しい妻もそいつの手に渡るのだろうか? ――すると妻は自分以前に、百を超す夫を持っていたことになる)
「古くてみすぼらしい帳面だから書生に捨てさせた」といっていたのだが、実は、《古くなってみすぼらしく感じた》のは俺ではないのか? だから俺を捨てたくなったのではないのか?)
――そんなことを自問自答しながら、ふらふらと歩いているうちに、東市にあるこの居酒屋にたどり着いたのだという。
李白と魏顥は男の不思議な話を訊いて少し押し黙ると、やがてこう答えた。
「面白い話だ。あんた戯作者になれるよ」
戯作者とは芝居の脚本家のことだ。
震えていた男は二人の男の言葉に腹が立った様子で、「他人事だと思いやがって」と卓上を叩く。呂律が回らない。
そこに例の若い書生が現れた。
「旦那様、お迎えに上がりました」
李白は笑った。
「ほれみろ、思い過ごしだったんだよ」
男は安堵の息をつく。
若者は酔い潰れた主人に肩を貸し、居酒屋の外に停めてある馬車に乗せる。
見送りに出た李白と魏顥はそこでとんでもないものを目撃してしまった。
書生が、馬車の御者の席に座った途端、頭から角が生え、馬車が炎に包まれた。勢いよく駆けだして宙に舞い上がり闇夜に吸い込まれて行くではないか。
蒼白になった詩人と長安の名士は居酒屋に戻った。
魏顥が李白の杯に酒を注ごうとするのだが震えてこぼしてしまい、相手の手にかけてしまった。
「李白殿、男そのものが酒に酔うたわれらの夢ではなかろうか?」
「まあ飲まれよ、魏顥殿。酒あればこその人生だ」
李白は、かか、と無理に笑い、震える魏顥の手から徳利をひったくると、すかさず杯に酒を注いでやるのだった。
玄宗皇帝に仕えた李白は三年で解雇となった際、黄金を下賜され放浪の旅に出た。途中、洛陽の居酒屋で杜甫と偶然知り合う。――詩仙と詩聖の遭遇は、大戦中に活躍した民国の詩人・聞一多をして、「太陽と月が出会った」瞬間と形容された。
長安の名士魏顥については李白追放の後、洋として行方が判らない。――というのも、玄宗の寵臣にして楊貴妃の養子である安禄山が、楊貴妃の兄である楊国忠と権力闘争を行い、旗色が悪くなって反乱起こす「安史の乱」に巻き込まれたのだろうか。
玄宗は、乱の責任をとって息子に譲位。四川に落ち延びる途中、兵士たちが怒って、
「かかる事態になったのは、陛下が楊貴妃を溺愛するあまり、妃の兄、能なし楊国忠を宰相になどするから国が乱れたのです。二人を始末しない限りお供は願い下げです」
と迫るので泣く泣く兄妹を処刑。乱が収まり長安に帰京するものの孤独のうちに没する。
(了)
ノート1999年初稿原稿を2011年8月28日に加筆。2015年8月30日校正。
(――読み返してみればデスノートみたいな。笑)