7、狼のしつけ
イヴが目を開けると、白い天井がぼんやり浮かんで見えた。
しびれたような手の感覚に横に視線を向ければ、父ダニエルが、手を握って眠っていた。白いシーツが目に入り、自分がどこかのベッドに寝かされているのに気づく。
「……オオカミさん?」
目を覚ます前のことを思い出して、不安と共に小さく呼びかける。
視界が狭い。顔の半分が布で覆われている事に気づいて、同時に顔や頭がずきずきと痛みはじめた。
「………行っちゃった……」
横たわったまま静かにイヴは涙をこぼす。
去って行くとわかっていたはずなのに、喪失感に胸が軋む。
父親も祖母もいるけれど、母親のいない寂しさに耐えかねていたイヴの前に現れた青年。
ぶっきらぼうでいつも仏頂面だけれど、本当は優しくて。だからそばにいるだけで、温かい気持ちになった。
会って間もないのけど、家族が増えたような気持ちになったのだ。
ひっくひっくとしゃくりあげていると、ベッド脇から不機嫌そうな声がした。
「寝てろ」
涙のままそちらを見れば、ひょこりと、灰色の獣耳が覗いていて。
軋む痛みを堪えて体をなんとか起こせば、そこには床に座ってベッドに背を向けている青年がいた。
顔だけ振り向いた彼は、じろりとこちらを睨んでくる。
「なんで……」
「彼が、病院まで連れて来てくれたんだよ。対応してくれた受付の人を殴って、もう少しで保健所に連れて行かれるところだったけど」
いつの間に起きたのか、ダニエルがそう説明してにこりと微笑んだ。
しかしイヴは半分も話を聞かず、ベッドから落ちるようにして狼にしがみつく。そのまま、胸元にぐりぐりと頭をこすりつけた。
「やだ、いっちゃ、やだ……っ」
「……おい」
「あ、ちょ、ちょっと、やめて、離れなさい。イヴにはまだ早い! だめ!」
困ったように腕の中の少女を見る、青年の服を掴んで。
ダニエルは真っ青な顔で叫んだ。
目の前に、真剣な表情で座った少女に、狼は渋い顔をした。
イヴが、真面目な顔のまま彼に右手を差し出した。
「………………ハイイロ、お手」
「……………」
小さな手を、狼が冷ややかな目で見る。
灰色の長い尻尾が不機嫌そうに揺れて、ぴたんぴたんと床を叩いた。
「お手―――ッ」
「やらん!」
手を出したまま、目を瞑って叫んだ少女に、狼――――ハイイロも大声を出した。
茶番に付き合っていられなくて、ハイイロはあぐらを掻いていた足を崩して立ち上がった。慌てたのは少女の方で、後ろから飛びついて彼の腰にしがみついた。
しかしそれは彼を止める力にはならず。そのまま普通に歩く、獣の青年にずるずると引きずられていく。
「ダメなの、お手するの! 芸の1つもできないなら、うちに置かないっておばあちゃんが」
「断る!!」
「お手だけだから!」
「嫌だっつってんだろ、何の話かと思えば……」
ジィ――――――という機械音がしたのはその時。
ハイイロがその音の方向を見れば、わずかにあいた部屋のドアの向こうから、ビデオカメラのレンズが見えた。
ダニエルがホームビデオをとっている。
それに気づいて顔を引きつらせた青年に、ダニエルは隙間から片手を上げて言う。
「あ、こっちは気にせずそのまま」
「撮ってんじゃねぇぞゴラァ!!」
扉を開けて叫んだハイイロの腰にしがみついたまま、イヴが叫ぶ。
「お手ーーーーっ」
「うるせぇ!!」
狼の獣人は改めて、イヴの家族になった。
拘束がなくなりその気になればどこへでもいけるとはいえ、病院にいる時点で未だ狼の所有は闘技場のもの。
それを、ダニエルは法外な値段を出して、彼を買い取ることにした。
「なんでおっさんはおれを助けたんだ?」
叫び疲れて眠ってしまったイヴに尻尾を貸しながら、狼が聞く。
ビデオカメラの再生操作をしていたダニエルは、顔を上げないまま苦笑した。
「なんでかと言われると、君には本当に申し訳ない話になるんだが……」
1つ断ってから。彼は言った。
「妻が死んだときにね、イヴに言われたんだよ。『お父さんはすごい医者なのに、なんでお母さんを助けてくれなかったの?』って」
「……………」
「ガツンと頭を殴られた。獣医だから、病気が分かったときには手遅れだったから、色々言い訳が頭の中を廻ってね。 でも、娘には何も返す言葉がなかった。そんなときに、君に会って」
死にかけの狼。
その姿は、最期の妻と被って見えた。
「結局、自分のためだったのかもしれないな。娘に今度こそは、いいところを見せたかったんだ……」
あと一話で終了です。