6、黒い来訪者
暴力表現があります。
それが起こったのは、狼が来て1ヶ月ほど経った頃のことだった。
「じゃあ行ってくるわイヴ。いい子にしていてね」
祖母が少し遠くの専門病院に出かけることになった。
車の運転と付き添いに、父親も一緒だ。イヴは風邪気味なので、1人でお留守番をすることになった。正確には、療養中の狼がいるから、2人で。
熱は出ていないがうつる危険があるから、イヴは毛布にくるまりながら居間の机で絵を描いていた。
外は雪がちらついていて、明日には10センチほど積もることになりそうだ。
窓の外は冷えた風が吹いているが、家の中は温かい。祖母が起こしてくれた暖炉の火が明るく部屋を照らしている。
ちりん。ちりん。
玄関のベルが鳴って、イヴは立ち上がった。
「はい」
「こんにちは」
ドアを開ければ、そこには見たこともない男たちが立っていた。
全員黒いスーツを着て、サングラスを掛けている。瞳は見えない。見下ろす彼らの威圧感が怖くて、イヴはわずかに後ろに下がった。
「お父さんは、いるかな?」
言葉が出ず、イヴはただ首を振った。
彼らは無言で目配せすると、イヴを押しのけて家の中に入ってきた。大の大人が4人。
止める事も出来ずにいる彼女の前で、次々と部屋の扉を乱暴に開けていった。
「おい、早く4号を探せ!」
荒々しい口調に。その単語に、嫌なものを感じながら、イヴは玄関で固まっていた。
けれど、あの傷ついた狼のいる部屋をあけた男が、いたぞ! と叫んだのを聞いて、少女は咄嗟に駆けだしていた。
一息で階段を登って、男の脇からするりと部屋の中に入る。
「……オオカミさ……」
狼は相変わらず部屋の奥に座っていて、鋭い目でイヴを見た。
いつもと違う、恐ろしい顔に立ちすくんだのも一瞬で。
追ってきた男たちの手で電気がつけられた。目の奥が痛くなるほど明るい部屋の中で、イヴは狼を背に立った。
彼らは多分、狼の本当の飼い主だ。
だけど、こんな人たちのところに彼を行かせるのは、嫌だった。
「帰っ……て下さい! まだ、怪我治ってない!」
イヴの身長は男達の腰くらいだ。手を広げて狼の姿を隠そうとしたが、じろりとサングラスを外した男に睨まれて、息を飲む。
体が震えるが、彼女はキッと男を見上げた。
「オオカミさんは、まだここにいるの!」
「……はぁ」
わずかに息を吐いた男が大股でイヴに近づき、その長い髪を掴んだ。
「いっ……」
「お嬢ちゃんに構ってる暇はねぇんだよ」
頭皮ごとはぎ取るような容赦の無い手に、イヴが顔を歪める。痛みで涙が目の端からこぼれたが、指はさらに力を増した。
少女をそのままに、男は狼に対峙した。
「その手を、離せ」
手負いの獣は、わずかに腰を浮かして床に手をつき。 低い姿勢で、男達を睨んでいた。
喉の奥を鳴らすような低いうなり声が、部屋に響く。
「あん? おい4号。もう動けるだろ? 早く復帰してもらわねぇと、客が煩くてな」
獣の気配に、取り巻き達はわずかに後ずさったのに、イヴの髪を持ったままの男は、明るく声をかける。
「もう駄目かと思ったけど、大した怪我じゃなかったみたいだな。 あぁ、俺はちゃんと止めたんだ。さすがの4号でも刃持った10人相手じゃ荷が重いってな」
「じゅう、にん……?」
イヴが呟くのを、ちらりと男が見る。
「あの先生には感謝しねぇとな。奴隷動物をタダで治療をしてくれるなんて、本当にありがてぇ」
「ああぁっ!」
憎しみのこもる叫びと共に、狼が地面を蹴る。
一瞬で距離が詰まり、鋭く伸びた彼の手が、男の顔を捕らえると思ったそこで―――――パシ、と鋭い音がした。
「――――……っ」
声にならない叫びとともに、もんどり打って狼が床に倒れた。
青ざめた顔でイヴが見れば、彼は首の輪を必死に掻きむしっていた。
「っ……っが」
「オオカミさん!!」
操作で、首が絞まる拘束具。しかも、手足の輪も同時に締め上げられている。
気管がしまり、ろくに呼吸が出来ないようだった。苦しさで暴れ回る狼を前に、イヴは悲鳴を上げた。
「ほらほら、さっきの威勢はどうした」
髪を掴まれたまま、落ちてきた声に、上を見る。にやにやと笑いながら狼をいたぶる男が持っているのは、小さなリモコン。
狼は立ち上がることさえできないのに、彼が装置を止める気配はない。
先程感じた、嫌な予感が確信に変わる。
こんな酷い事をする場所に、この優しい狼を返すわけにはいかない。
発作的に。
手を伸ばして、イヴは男からリモコンを奪った。
「!? っこのガキ!!」
獲物を前に油断していたのだろう。小さな手に無事おさまったそれを、咄嗟に狼の方に投げる。
それと同時に頭を殴られて、イヴの目の前が白く染まった。
口の中に血の味が広がって、抵抗も出来ずに床に蹲った小さな体を、男が何度も足蹴にした。
舌打ちをして、壁に向かって少女を蹴り飛ばす。
「おい、そんなことしてる場合じゃ……っ」
隅で動かなくなった少女の体に意識を向けていた男が、仲間の声ではっと顔を上げた。
激情のままに暴力をふるっているうちに、赤と青のボタンのついたリモコンは、音を立てて床を滑り―――――――狼の目の前で止まっていた。
苦しげに腕を振り上げた青年は、拳で、一息にそれを破壊した。
体が動かない。
白く霞掛かった、横向きの視界に、銀の輪が落ちるのを見る。
「………っひ」
誰かが悲鳴を上げる。
床に倒れたままのイヴから離れたところで、狼が立ち上がった。
彼は自分の首をさすり、手を眺める。そこに忌々しい銀の輪がはまっていないのを確認して、黒い服の男達を見た。
狼が、唇を大きく歪めて心底嬉しそうに笑う。
「うわぁぁぁあああああ!!!」
我先にと男達が部屋を飛び出した。
それを追って飛び出した狼は体勢を低くして、一番近い男の背に爪を食い込ませると。そのまま服と共に、肉を引き裂いた。
斬られた男が呻いて動きを鈍らせたところで、背中に蹴りを叩き込む。悲鳴を上げて床に倒れたその背を、思い切り踏みつけた。
「化け物が!!」
もう1人が服の胸元に手を入れた。
そこにあるものを取り出す前に、狼は距離を詰め、その胸ぐらを掴むと、鳩尾に膝を叩き込む。
「がっ……」
唾を吐いた男の頭を、容赦なく殴りつけた。
床に倒れた男の手から拳銃が落ちて、冷たい音を立てる。それを無表情で見下ろした狼は、足で鉄を階下に落とした。
「はは。おい、待てよ!」
階段を慌ただしく下りる男達を追おうとして、ふと彼は、足を止めた。
部屋の隅に倒れたままのイヴを見る。
繋ぐ鎖がない青年は、尻尾をふさりと揺らして、少女に近づいた。
「死んだか」
「……まだ、」
長い睫を伏せて、イヴは小さく答える。頭を強く打ったせいか、吐き気が酷い。足蹴にされた体はどこもかしこも痛くて、指の1本も動かせなかった。
吐息のような音を漏らすだけで、顔がひきつった。
ブルネットの髪に混じり、赤い血が床に広がるのを、狼は静かに見ていた。
「悪いが、お前に構ってる暇はない」
「…………うん」
すぐにでも残りの奴を追いかけたい、と狼の顔に書いてあった。
自由になったら、この家からも出て行くだろう。武器を持った人を相手にしなくていい、どこか、彼に似合う場所へ。
それが良い。
彼に、殺してもらえなかったのは残念だったけど。
「我が儘、言ってごめんね……これで、お母さんのところに、……いける、かなぁ…………」
全部が黒く塗りつぶされる感覚と共に、イヴの意識は途切れた。