5、兎の獣人
「オオカミさん」
「また来たのか」
呆れた声で言われたのにも構わず、イヴは部屋の中に入る。
ここ数日ですっかり慣れた様子で、彼女は狼の隣に座った。そして、尻尾を掴まえようと手を伸ばして、あっさりすり抜けたそれに不満の声を上げた。
「しっぽ」
「触るな」
ふさふさと目の前で揺れるそれに、イヴが飛びつく。けれど動きを見破られているのか、掠ることもなく。少女の体は前につんのめり、床にそのまま倒れた。
「う、うぅう」
痛む顔を押さえて起き上がる。
目の前の青年は無表情で尻尾を揺らしているだけだ。頬を膨らませたイヴは、その場から動かないのをいいことに、青年の体によじ登った。
新しく綺麗に包帯の巻かれた体は、当初の痛々しさは薄れていたが、代わりに無数にある傷が浮き彫りになっていた。
青年の大腿に足を乗せて、狼の耳ごと頭を抱きしめる。
「よしよし、痛かったね」
「おい、触るな」
「痛いの痛いの飛んで行」
狼がイヴを引きはがそうとした時に、唐突にドアが開いた。
「イヴちゃ~~ん!!!!!」
ハートマーク全開で入ってきたのは、兎の獣人だ。
白い毛並みの長い耳が頭の上に生えていて、青いきゅるんとした目を部屋の中に向けて――――狼にひっついている少女の様子を見て、『彼』は悲鳴を上げた。
「うぃぃいいい猛犬……っいや狼!!? イヴちゃん!? 危険よ、なにしてるの!!?」
「…………誰だよこのオカマ」
甲高い声が傷と気に障る。狼が不機嫌な声を出した。
「サターシャさん。病院によく来てくれるお得意さんなの」
「イヴちゃん、ほら、こっち! 来て!」
真っ青な顔でイヴを抱き上げた兎は、慌てて包帯だらけの狼と距離を取った。
どう見ても成人男性の体なのに、口調はまさしく女の人のもの。彫りの深い綺麗な顔の兎は、腕の中のイヴにぎゅーっと抱きついた。
「久しぶりぃ、会いたかったわ」
「今日はどうしたの? 注射?」
「そうそう、あと定期検診にね。もちろん問題なしってダニエル先生にお墨付きをもらったわ。飼い主はまだ話ししてるから、その間にと思って挨拶にきたの~」
そこまで言って、ちらりと兎は鋭い目を狼に向けた。一転、野太い声で兎が問う。
「で。あれ、なに?」
「初対面であれ呼ばわりされる筋合いはない」
静かな睨み合いが、薄暗い部屋の中で行われた。
「オオカミさんだよ。怪我をしてて、うちで預かってるの」
「へぇ~~……」
それに気づいていないイヴは、手を伸ばして青年兎のもふもふした耳を指先で摘んでいた。彼女なりの、健康診断だ。
イヴの好きなようにさせていた兎は、その小さな体を抱き上げたまま、彼女の耳に囁いた。
「ねぇイヴ、覚えてる? 大きくなったらの約束……」
ひそりとした声が、静かな部屋に響く。
その言葉にわずかに首を傾げて、しばらくして少女は大きく頷いた。
「私、大人になったらサターシャさんと結婚するんだよね!」
「そうそう」
満面の笑みで言う兎に、狼がわずかに眉根を寄せる。その場からぴくりとも動かないけれど、明らかに敵意が増したのを感じつつ、兎はそれを無視した。
「あぁもう可愛い……、私のことこんなに平等に扱ってくれるのなんて、先生とイヴとアルマさんだ……け、あ!」
聞こえた名前に、少女が目に見えてしゅんとなり、兎が慌てる。その小さな頭を撫でて、彼は言った。
「ごめんなさい、今のは私が不注意だったわ。まだ時間も経ってないのにね」
「あのね、サターシャさん、私……」
顔を上げたイヴが、兎を見る。
その目を真っ直ぐに捉えて、少女は言った。
「結婚できないの、ごめんね」
「なんで!?」
「オオカミさんに、…………えっと、私を好きにしてくださいって、お願いしてるから!!」
「~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!?????」
さすがに殺して欲しいと言っていることは伝えられなかったのか、彼女なりに言い回しを考えたらしいが。
卒倒しそうな様子で、兎は片手で頭を抱えた。
「好きに!? え? そういうこと!? まさか……こいつ、ロリコン……!!?」
「違う」
「イヴ、駄目っ、あんなケダモノに全てを委ねるなんてそんな危険なこと……っわかったそれなら、今すぐ私が代わりに優しく全てを」
「おい」
いつの間にか立って近づいていた狼が、むんずと兎の耳を掴む。
「ごちゃごちゃやかましいんだよ、この万年発情期」
「私のイヴを横からかっさらおうなんていい度胸じゃない、このムッツリ狼」
「兎の分際で、死にてぇみたいだな」
「やってみなさいよ。私も容赦はしないわよ? それに怪我したらイヴに優しく看病してもらうから~別にいいわよ~」
「よし表出ろ、一撃で仕留めてやるよ」
「兎の蹴りをなめんじゃないわ」
ぐぐぐぐ、と今度は至近距離で二人が睨み合う。
兎の腕に抱かれたまま、それを見ていたイヴは――――不意に、笑い出した。
少女の笑い声に毒気を抜かれて、狼と兎がちらりと視線を向ければ。イヴはおかしくて堪らないというように、お腹を抱えたまま言った。
「2人とも仲良しだね」
「「違う」」
「ほら」
同時に言った獣たちに、イヴはまた肩を震わせた。
「こいつとなんて、全力でお断りよっ!!!」
「俺もだ」
憮然とした表情の青年2人を見たイヴは、もう一回くすくすと笑った。
母親が亡くなって、久しぶりに心の底から、笑えた日だった。