4、ほんの少しの譲歩
「オオカミさん?」
数日後、再びイヴは部屋を覗いた。
相変わらず暗い部屋の隅に座る狼は、彼女の声でわずかに顔を上げた。そして無言で下げた。
「ちりょうしにきたよ」
イヴは持っている家庭用救急箱を掲げる
夕食の席で、父親が狼の警戒心が強くて治療が出来ないと話しているのを聞いたのだ。忙しい彼に代わって頑張ろうと、少女はいそいそと部屋の中に入った。
それをうさんくさげに見る狼の頭の包帯は、解けかけたままの状態になっていて。黒く、いたるところで変色していた。
「いらん」
「私、包帯変えるのとくいだよ!」
狼は、この娘がどうも苦手だった。
顔を引きつらせながらわずかに身を引く青年の前までいって、床に救急箱を置いき、イヴは中から包帯や消毒液や絆創膏を取りだした。
うきうきした顔で、頭の包帯の端を掴んだイヴの体を、狼がうんざりした様子で突き飛ばす。
「わぁっ」
とはいえ、彼としてはほんのわずかに押す程度の力。
それでも、少女の軽い体はよろけて、床に尻餅をついた。
「……あっちいけ」
その事に少し驚いた顔をして。狼は視線を逸らす。
消毒液を持ったまま、青年を見上げていた少女は。
「でも、怪我」
目にじわりと涙を浮かべた。
「っ」
夜目の利く青年には、その大きな目が緩み、今にも泣き出しそうな様子が見えた。
彼女の泣き声が大きいことは知っている。大音量の甲高いその声は、怪我をした体に響いて正直つらい。
獣の耳はいいから、特に。
「………………………………少しだけ、だぞ」
折れるしかなかった。
「うん!!」
いいように転がされていることを理解しつつ、言えば少女の顔がぱっと綻ぶ。
ゆっくりと青年の頭の包帯を解いて、イヴは血のこびりついたガーゼを外した。消毒液を染みこませた綿で髪の毛を撫でて、頭全体にガーゼを置いて、拙い動作で新しい包帯を巻きなおしていく。
「怪我してるところに、大好きを塗っておくね」
「…………」
「そしたら、痛いのなんて飛んでっちゃうおまじないなの。これ、おかあさんがよく言って、て…………ん、あれ? これで、こうで……」
「おい。耳、巻きこんでる」
頭の上の狼の耳が、包帯でがんじがらめになって痛いと訴えれば。少女はまた真剣な表情で、手をもだもだと動かした。
自信満々に治療などと言ってはいたが、あまり器用ではなさそうだ。
「ふぅ!!」
しばらくして、満足げに手を離したイヴを、狼は無言で睨んだ。
目の前に包帯が幾重にも垂れ下がっていて、ほとんど前が見えない。これでは解けかけの、初めの方がまだマシだった。
「次は」
「いや、もういい」
「えーーーっ」
「やめろ。触るな」
頬を膨らませていたイヴだったが、本気の拒絶を感じて包帯を置いた。
改まった顔で、狼に言う。
「じゃあ、ちりょうしてあげたから」
「お前が勝手にしたんだろ」
邪魔な包帯を、軋む腕でかきあげる。開けた視界の先に、真剣な表情の少女がいた。ころして、の言葉を思い出して、狼は素っ気なく言った。
「そんなに死にたきゃ、車にでも轢かれてこい」
「なるほど!」
自分を当てにするな―――――と、脅しを込めて言うと、目の前でイヴが手を叩いた。
「ありがとうオオカミさん!」
爽やかな顔でイヴが微笑む。わずかに首を傾けて言う幼子の、頭のリボンが揺れた。救急箱もそのままに、楽しげに部屋を出て行く姿を見送って。
初めて狼の胸に、なんとも言えない感情がわき起こった。なにか、大変なことをしてしまったような……不安感。
いや、これでいいはずだ。
あんな子どもの戯れ言を聞く必要もないし、処分されるのと引き替えに、殺したい相手は決まっている。
車だろうがなんだろうが、死にたければ勝手にすればいい。自分を巻き込まなければ、それで。
「……………」
イヴにばれないように、狼は窓からそっと外を覗いてみた。
家の前には小さいながらも前庭があって、ハーブや花が植えられている。その小道を進む小さな背中と、ブルネットの髪が見えた。
(本当に轢かれる気じゃないだろうな)
前庭を抜ければ、そこは車道だ。
住宅地なのでそんなに車は通っていないし速度もゆっくりだが、その代わりに高級そうな車体は、例外なく大きい。
轢かれる車を吟味しているのか、イヴは視線を左右に廻らせている。
関係ない、と思いながらいつの間にかハラハラと見守っていることに、狼は気づいていなかった。
と、そこに長いコートを着た一人の男がやってきた。
地図を持って彼女に近づき、話しかけている。住宅地は午後の空白の時間でシンとして、他に人影はない。
しばらく話をしていたイヴに、男が棒付きキャンディーを差し出した。
首を振って拒否をしていたが無理矢理渡される。そして、少女は何故か男と一緒に道を歩き出した。
「……………なんだあれ」
その背がだんだん家から遠ざかっていくのを、そわそわと見ていた狼は。
一際大きくため息をついて、部屋の窓を開けた。
2階部分から躊躇なく飛び降りて、四つん這いで着地する。ふわりと灰色の髪と、ぐじゃぐじゃの包帯が舞って、重力に従って下りた。
折れた足の骨は庇ったつもりだが、痛みが激しい。それを無視して立ち上がった。
植えられている植物も気にせず裸足で踏みつけにし、前庭を最短距離で突き抜けると。低い塀に手をついて、体を一息に、歩道へ投げ出した。
宙を舞うように1歩、2歩。
踏み込んで3歩目で、並んで歩く2人の背後に近づくと、コートの男の背中を無言で蹴り飛ばした。
「オオカミさん!?」
風とともに、隣の大人が道路へ吹っ飛んだのを見て、びっくりした顔でイヴが叫ぶ。
青年の目からすれば、眩しすぎる陽光。その下で少女を見れば。イヴは小さいし素直そうだし、従順そうな子どもだった。
よからぬことを考える大人がいても、まぁおかしくはないかと。
そんなことを思っていたら、内臓破裂の治療痕だらけの腹部を少女にぽかぽか殴られた。
「ひどいぃぃなんで私には攻撃してくれないくせにぃぃぃ」
「やめろ。叩くな。痛い。」
半泣きで頓珍漢なことを詰る少女を押しのけて、狼が道路に倒れた男を睨む。
「ひっ」
帽子を被って口ひげを生やした、ふっくらとしたおじさんだった。
血まみれの怪我だらけで、明らかに獣人とわかる耳と尻尾を持つ青年を見て。彼は悲鳴をあげて走り去って行った。
「あ、駅はそっちじゃなくて……っ」
追いかけようとするイヴの腕を掴んで、引き留める。おじさんの姿が見えなくなってから、狼はぱっと手を離した。
「お前。ぼーっとしてたら誘拐されるぞ」
言って、彼は踵を返した。
これだけの動きで酷く体が重いことに、苛立つ。
このまま逃げようかという思いが一瞬過ぎるが、どうせ拘束具に仕込んでいる発信器で、闘技場の奴らに居場所は筒抜けだ。
それなら、雨風をしのげるあの家にいて体力を回復させたほうがいい。
「肩、使っていいよ」
後ろから追いついてきたイヴが横に並ぶ。
わずかに足を引きずる青年を思っての言葉だろう。遠慮無く、狼は少女の頭を借りることにした。いや、高さ的に肩は低すぎたのだ。
「…………」
爪が食い込まないように、一瞬躊躇して、そっと手の平を頭に乗せる。
思わず体重が掛かったのか、イヴがよろけたが。頼ってもらったのが嬉しかったのか、狼を見上げてへらりと笑った。
脳天気なその様子を眺めて、狼はわずかに肩の力を抜いた。
ダニエルが狼の部屋を訪れたのは夕方のこと。
その部屋の扉を開けた瞬間に、彼は怒るべきか笑うべきか、一瞬迷った。
言い聞かせたはずの娘が、青年の尻尾をクッション代わりに抱いて床で眠っていたからだ。
しかも、狼の全身に巻き直された包帯は、ジャングルの蔦のように垂れ下がって酷い状態。
しかし、むすっとした表情で尻尾を抱える少女をそのままにしている狼を見、ダニエルは頭を掻いて、少し笑った。
「子守を任せてすまないね」
「…………別に」
新しい包帯を持って、彼に近づく。
警戒は解かなかったが、狼ももう抵抗はしなかった。