2、少女の願いの行方
部屋の中にしばらく、沈黙が落ちる。
「……………………」
「ころして」
「断る」
ようやく言葉を発した青年の言葉は、不機嫌そのものだった。
「あれ?」
狼の獣人と言えば、人を簡単に殺められるほどの凶暴性を持つ存在のはず。
心底不思議そうに聞くイヴに、うんざりした顔で狼は顔を伏せた。それきり反応はない。
当てが外れたのを悟って、少女は大きな目にじわりと涙を浮かべた。
「やだやだやだやだ!! オオカミさんのいじわる!」
「うるさい!!」
ぱしんと空気を打つような声に、イヴは口をつぐむ。
そして頬を膨らませ青年のいるところまで這っていき、彼の手をとった。
大きくてごつごつして、固い皮膚と、先程首に食い込んだ鋭い爪に触れる。
もうあと少しだったのに。
「お願い」
暗闇でも見える狼の目が、少女の顔を捉える。
懇願するような顔と声。切羽詰まった様子は、青年をからかっているものではなかった。けれど、彼にとってはそれはどうでもいいことだ。
掴まれた手を振り払って、世の中のことを知らない幼子に、狼が静かに言った。
「お前を殺せば、俺が処分される」
「あ、うん、それは」
イヴはポケットから4つ折りの紙切れを取り出した。
「いしょ、書いてきたから平気!」
「どこも平気じゃない上に、そういう問題でもない」
狼の顔がわずかに引きつっているのを見ずに、イヴはその紙をずいと突き出す。
「これ」
「だから……」
うんざりした様子でイヴを見下ろす狼が、視線を扉の方に向けたのは、その時だ。
「イヴ」
後ろから声を掛けられて、少女はびくっと肩を震わせた。
振り向けば扉のところに救急箱と桶を持った父ダニエルがいて。彼は厳しい表情で娘を見つめていた。
「おとうさ」
「イヴ、ゆっくり、こっちにおいで」
話を聞かれたかと青ざめた彼女に、ダニエルが緊張感を含む声をかける。
なぜそんなに硬い表情をしているのか分からず、彼女はとりあえず狼に差し出していた手を下ろす。
そのまま、父親のところに行こうと振り向いた時に、後ろから伸びてきた手が胴に巻き付いた。
「っ」
力を入れて引かれ、抵抗する間もなく後ろに倒れ込めば途端に、むっとするような血の臭いに包まれた。
イヴが上を見ると、青年の顔がすぐそこにあって。彼の腕の中に抱き込まれていることに、数秒遅れて気づいた。
立ち上がろうとするが、胴を押さえ込まれて、動けない。
「なんのつもりか知らねぇが、余計なことをするな」
聞こえてきたのは手負いの獣の、低い唸り声。先程までと違う狼の雰囲気に、彼の発する殺気に、それとは知らずイヴの全身に鳥肌が立った。
自分のことかと見上げれば、しかし狼は父親の方に視線を向けていた。
睨まれたダニエルは静かに扉を閉め、しゃがんで持っている荷物を床に下ろした。
そのまま、じっと狼の目を見て話しかける。
「人間を信用できないのは分かるよ。でも、僕は君を治したいだけなんだ」
「それが、余計なことだっつってんだよ」
噛みしめる狼の口に、鋭い獣の牙が見える。
(あ)
暗がりの中で銀の光りが瞬くことに、イヴが気づいた。彼の首に、金属の首輪がはまっている。
視線を廻らせば、同じような金属が手首と足首にもついていた。
家に併設している病院で、見たことがある獣人用の拘束具だ。しかも、普通であれば1つで十分なのに、3つも。
「痛めつけたいなら私にすればいいよ。その代わり、娘を離してくれないか」
「なら、これを外せ」
左手でイヴを捕らえたまま、青年が右手の指で首の輪を引っ張る。ダニエルは視線を逸らさず、しかし悲しげに首を振った。
「すまない。そこまでの権限は私にはないんだ」
「……くそったれが」
吐き捨てた青年の言葉は、誰にも拾われずに部屋に落ちる。
わずかな沈黙の後。イヴを離す様子のない青年に、一歩にじり寄ったダニエルが言う。
「拘束具が外れたら、どうするんだい?」
「決まってるだろ。あの闘技場の奴ら、全員殺してやるんだよ」
ぐ、とイヴを掴んでいる腕に力が入る。それだけの動作で内蔵が圧迫されて、息が苦しくなった。
わずかに顔を顰めた娘を見て、ダニエルがさらに近づいた。
「そうだね。そうする権利は君にあるかもしれない」
じり、とダニエルが距離を詰める。
それを見ても狼は動く様子は見せず、邪魔くさそうに頭の包帯をむしり取った。
ばりばり、という固まった血を無理矢理剥がす音と、目の前に落ちてくる血の塊に。イヴは思わず、青年の腕の中から飛び出していた。
何を考える間もなく、狼の頭に抱きつく。緩んで取れかけの包帯ごと、その小さな腕の中に抱え込んだ。
かたい髪の感触とは対照的な、柔らかい耳の毛が彼女の頬をくすぐる。
「おい、離」
「包帯とっちゃだめ、死んじゃうよ!」
涙で擦れた声が部屋に響く。
青年が息を飲んで、目を見開いた。
「イヴ!!」
慌てた様子で、ダニエルが少女の体を狼から引き離そうとして―――――イヴがさらに強い力で頭を抱く。
「痛っ、って、おい! 離、せ!」
「うわぁぁぁああああん」
耳をぎゅっと掴むイヴを、狼が無理矢理押し返すが。大音量で泣く少女はどうやっても離れなかった。
「イヴ、こら! 痛がってるだろう! やめなさい!」
「だってぇぇぇぇえええ!!!」
「おっさん、早くこれどうにかしろ!!」
「そうしたいんだが……っ」
小さな手を耳から外して、なんとか娘をダニエルが引きはがし。
泣くイヴを連れて、彼は部屋の外まで出ると、扉を閉めて鍵を掛けた。
ほーーっと長く息を吐いて、父親はイヴを廊下に下ろした。
「うっ……ひっく……」
「ケガは……あぁ、切れてるね」
しゃくりあげるイヴの様子を見て、ダニエルはポケットからハンカチを取り出した。
切れたのは首の皮1枚だけで、すでに血は止まっていて。それに父親はまた安堵の息を吐いた。
「……そっとしておきなさいって言っただろう」
「…………」
目の縁から涙をぽろぽろと零す娘と視線を合わせて、ダニエルはゆっくりと言った。
「イヴ、いつも言っているだろう。 彼らには彼らの気持ちがあって、楽しんだり喜んだり、怒ったりする権利があるんだよ。それを僕たちが勝手に奪うことは許されない」
彼は静かに言葉を続けた。
「よく聞いて。彼はね、よくないところで、ずっとケンカをさせられてたんだ」
「……ケンカ?」
「うん。そこで先日酷いケガをしてね。偶然それを見て……パパが、彼の治療を引き受けたんだ」
酷いけが。
確かに、イヴが今まで見たことのある『けが』とは明らかに違っていた。
あれは転んだ擦り傷や、引っかけた切り傷じゃなくて。相手を痛めつける、悪意を感じさせる怪我だ。
「無理矢理嫌なことをさせられて、すごく疲れてるんだよ」
「……はい」
「ここに休んでもらうために来たのに、イヴがまた疲れさせてどうするの」
「……………はい」
また涙声になった娘に、ダニエルはため息をついた。
「彼は『人』のことを恨んでる。それで、腹が立って、イヴを傷つけるかもしれない。 ……だから、近づいちゃだめだ」
「でも」
「いいね」
イヴはゆっくりと、目を伏せた。
「……………はい」
生まれて初めて父親についた嘘は、棘のようにイヴの心を突き刺した。