1、怪我した狼
イヴの家に予期せぬ客人がもたらされたのは、とある秋の日のことだった。
「しーっ、静かにね。そっとして、絶対に驚かせないように」
父親の言葉を聞きながら、イヴは部屋の中に視線をやった。
家の2階の一室。空き部屋で、下にカーペットが敷かれているだけでほとんど何も置いていない部屋の奥に、大きな影が見える。
カーテンを閉め切り、電気も消した部屋は薄暗い。『彼』は眠っているのかぴくりとも動かず、床に丸くなっていた。
わずかにカーテンから入る光で見えるのは、男性の体と、包帯の白い色。そして、だらりと下がったふさふさの尻尾。
イヴは視線を父親に向けた。
「……ちょっと、お話するだけは?」
「だめ」
簡潔に言って、父親―――――ダニエルはドアを閉めた。
手負いの獣の姿はもう見えない。それでも、じっと閉じられた扉を見つめる娘に苦笑して、ダニエルはその頭を撫でる。
「イヴも風邪を引いたときは、じっとしているのが楽だろう?」
「うん……」
「眠りたいのに、おばあちゃんに隣でずっとお喋りされてたら、どんな気持ちがする?」
「……向こうに行ってくれないかなぁって、気持ちになる」
「同じだよ」
おばあちゃんには内緒でね、と口に指を当てた父親に笑って、イヴも同じ動作をする。丁度その時、階下からケーキが焼けたと声を掛ける、祖母の大きな声が聞こえてきた。
「ねぇお父さん。オオカミさん、大丈夫? 治る?」
階段を下りながら、イヴが振り返って聞いた。長く綺麗なブルネットの髪と、後ろで結ばれた白いリボンがその動作で、翻った。
真剣な表情で言う娘に、ダニエルは微笑んだ。
「大丈夫だよ」
その言葉に、わずかにほっとした顔を見せて。イヴは足軽に階段を下りて、ダイニングへと入っていった。
ダニエルはその背中を見送り、もう一度青年のいる部屋を仰いでから、ゆっくりと1階に足を下ろした。
イヴの父親は獣人専門の獣医だ。
獣人というのは、人間の体に獣の特性を加え品種改良された、新しい種のこと。
四半世紀ほど前に確立された技術により生み出された彼らは、既存のペットの役割の一端を担う存在だ。
愛玩種としては犬、猫、兎、鳥が主な人気。中にはライオンや虎などの変わり種もいる。
一時期は力の強い種を大量生産し奴隷に、という話もあったが。そもそも獣人が生まれる確率は、今の段階では極端に低い。それゆえ、獣人を入手できるのは金持ちのみで、一般市民にはまだ手の届かない存在でもある。
彼らには知性があった。
会話も出来る。学ばせれば、十分な知識も会得する。寿命もそう変わらない彼らは、人間によく似ていた。
そしてイヴの家に来た、怪我をしたという獣人は、狼の種らしい。
人に慣れることはあまりない。
強い殺傷力を持つ。
獣人の中でも珍しい存在。
過去には人に大怪我をさせてニュースに取り沙汰されることもあった、そんな種で。
「オオカミさん?」
イヴが父親の言いつけを守れたのは、一日だけ。
翌日、少女は父親の仕事中にこっそり客人を見に行った。
祖母の目を盗んでマスターキーを手に入れて、部屋の扉を開ける。
廊下からこっそり覗けば、狼の獣人は壁に背を凭れて、座っていた。昨日はぐったりと横たわっていたのを思えば、恐ろしく回復が早い。
しかし、イヴが声を掛けても、相手は全く動かなかった。
「……」
こくん、とつばを呑んでイヴは扉を大きく開けた。
ゆっくりと部屋に入り、扉を閉める。
廊下の陽光がなくなった部屋はほとんど闇だ。イヴは、前に手を伸ばして、恐る恐る部屋を進んだ。
「オオカミさん、けが、大丈夫?」
部屋の大きさはある程度分かっているが、手探りで進むとなると、感覚がずれる。
そのうちに、とん、と少女の手が壁に付いた。……ということは、と体を少し横に移動させれば、足に柔らかい感触が触れた。
暗がりに慣れた目に、青年の姿が映る。
灰色の髪と毛皮の青年だった。片膝を立てて肘をのせ、そこに顔を埋めた彼の頭の上には、食い破られたような跡の付いた狼の耳。
床に力なく落ちている尻尾はボロボロで、血のような黒い染みがこびりついている。
シャツを着た、その首も腕も、胸元も包帯が巻かれていて。こちらもいたるところが黒く染まっていた。足には当て木がされている。
伏せているためわずかに見える頬には、幾重にもガーゼが貼られていた。
痛そう、という言葉が軽く、イヴは息を飲んだ。
「オオカミさ、ん」
本当に生きているのだろうか。にわかには信じられず、震える手を伸ばして、イヴは青年の腕に触れた。
「きゃっ」
その瞬間にぐっと手を引かれてイヴは床に押し倒された。
ブルネットの綺麗な髪が床に広がる。
驚きで目を見開いて、言葉もないイヴを組み敷いて。青年は薄暗がりの中でも光る瞳で、少女を見下ろした。包帯だらけの手が伸びてきて、イヴの首を掴んだ。
その爪は鋭利に尖り、柔らかい肌に食い込む。ひ、と小さい悲鳴が出たのを、少女は咄嗟に飲み込んだ。
「…………」
「…………」
2人の視線が絡む。
何も言わずに震えるイヴを前に、先に力を抜いたのは青年の方だった。
「なんだ……ガキか」
小さく呟いて、彼は首を掴んでいた手を離す。体の上からどいた狼の青年は、無言で壁際に戻り元の体勢になった。
かなり遅れて、イヴも起き上がる。首に手をあてるとわずかに切れた皮膚から血が出ていて、手に赤色がついた。
けれど、痛みはほとんどない。
「あの」
手に付いた血をワンピースで拭いて、イヴが口を開く。
「イヴ=ローレ・フラン 7才です! はじめましてっ!!」
名乗りに、ちらりと、青年が視線だけあげる。
祖母から、挨拶だけはきちんとするようにと躾けられた。そんな少女は、深呼吸して口を開き、本題を切り出した。
「オオカミさん、私をころしてくれませんかっ」