第七夜
────昔から、霊感は強い方だと言われてきた。
見えざるものが見える。そんな体験は、確かにしたことがあった。
でも、
今回は────
……友美は、そっと目蓋を開いた。
何だか、嫌な夢を見ていたような気がする。その割には身体は乾いていて、友美は目眩にも似た違和感をふと抱いた。
その時、気がついた。
自分がいま、真っ白な服に身を包んでいる事に。
よく見ると周りの光景も見慣れたそれではない。妙に綺麗で、何の味気もない白壁に囲まれたこの部屋には、友美がいま寝ているベッドと、その隣に並ぶ機械の他にはほぼ何もない。窓の外の暗さが、部屋の明るさを余計に引き立てている。
ここは、どこだろう。そう思った矢先であった。
「あ、起きられました!」
「向島さん、大丈夫ですか!? 記憶はありますか?」
そんな声とともに何人もの白衣の人物が駆け寄ってくる。はっ、と友美は気づいた。そうだ、ここは病院だ。どうもどこかで見覚えがあると思っていたのだ。
「あの、私……」
腕を上げようとすると、ずきんと激痛が走った。「ああ、安静にしていてください!」と医者の声が飛ぶ。
「全身に打撲を負われているんです! 動くと悪化してしまいます」
──打撲、か。車に撥ねられたのに、私それだけで済んだんだ……。
「向島さん、ご自分がどのような目に遭われたか、覚えていますか?」
そばに来て脈を見ながら、一人の医師が話しかけてきた。
「申し遅れました。墨田東玉州会病院の吾妻と申します。向島さんの治療を担当させていただいております」
「覚えてます。その……車に撥ねられたんですよね、私」
「はい。撥ねた車の運転手から通報があったそうで、一昨日の夜にここに担ぎ込まれたのです」
一昨日……?
「私、二日間も眠っていたんですか……?」
「ええ」
ホッとしたように吾妻医師は頷く。「良かったですよ、意識が戻られて。怪我の割に脳波が弱くて、私ども実はヒヤヒヤしていたんですよ」
大変だ。
まだまだやりたい事があるのに。いや、やらなければいけない事があるのに、友美は三十時間近くも無駄にしてしまったのだ!
焦りが表情に出ていたようだった。気になったのか、吾妻医師が尋ねてくる。「……どうか、なさいましたか?」
友美はあわてて否定する。
「あっ、いえ! なんでも……」
ここは病室だ。密かに脱出するなど、まず不可能に近いだろう。
それでも、それでも何もしないで手を拱いている訳にはいかないのに。
再びじわりと滲み始めた汗を感じながら、友美が唇を噛んだ時だった。
「……まぁしかし、向島さんも不幸中の幸いでしたよね……」
そう言ったのは吾妻医師であった。うんうん、と周りの看護師も頷いている。
何のことだろう。
「なぜですか?」
友美が問いかけると、吾妻医師は「ああ」と笑った。
「向島さんが事故に遭われたの、墨田区だそうじゃないですか。錦糸町近辺、だと聞いていますが」
「多分、その辺りだったような……」
「そのままあの地域に留まっておられていたら、命を落とされていたかも知れませんよ?」
──えっ……?
「昨夜、大きな地震がありましてね」
彼はそっと目を閉じた。
「なんでも、墨田区中央部の一帯で大規模な火災が発生したそうです。噂ではかなりの住宅が焼けて、亡くなった方も恐ろしい数に上っているとか……」
嘘だ。
嘘だ。
そんなの嘘だ。
友美はまだ、自分の耳が信じられない。
あの少女が──駒形百合花が、やってしまった。自然と導き出されたその結論を、俄には信じたくなかった。
自分は、間に合わなかったのだと…………。
前日夕方、東京都を巨大地震が襲った。
十日ほど前に発生していた地震の余震だろうと、多くの人々は勘違いした。夕食時の煮炊きの炎が大火災を引き起こし、首都圏のあちらこちらで街が壊滅したという。予てから不燃化が進まず、危険と言われ続けてきた東京都墨田区は、木造住宅の半数近くが消失するという大被害を出し、死者の数も相当数に上った。友美も予定通りなら、震災発生時は墨田にいたはずだ。吾妻医師の言うとおり、不幸中の幸いだったのである。
皮肉にも、地域の不燃化の先駆けとして建設されていたイーストライズ東京の工事現場は、焼け野原の真ん中にぽつんと一人取り残されている。それはさながら、共通言語を失った人々が離れ離れになり、荒原に寂しく佇むバベルの塔のようであったという。
沢山の人々の営みは、一夜にして灰燼に帰してしまったのだ……。
「ああ……」
口惜しかった。
どうしようもないとは分かっているけれど。それでも口惜しかった。
喪失感と絶望感に苛まれて、友美はその日一日塞ぎ込んだままだった。医師や看護師と簡単な会話を交わすだけで、あとはずっと外を見ていた。
まだ煙の燻る東京の空は、今にも落ちてきそうに低かった。棚引く紫色の不気味な雲に、かつて老婆に見せてもらったタロットカードの「塔」の図柄が重なった。
『悲惨な運命』。
それはまさに、現実のものとなったのである。
今はもう何もしたくなかった。産建新聞社からかかってくる労りの電話にも、出なかった。
私が。
私が。
私が、
私が、もっと、
非力でなかったなら、
だったら、解決したのかな……。
こんな結末、なかったのかな……。
――『関係、ナイヨ』
はっと上半身を起こすと、ベッドの淵に誰かが座り込んでいた。
友美はぎょっとしてベッドの端に寄る。気が付けば時刻は既に深夜になっていて、窓の外には少し暗い夜景が広がっていた。
まさか、あの少女か。そう思った途端、真っ黒な影がぐらりと動いて、友美はまた震え上がった。
こんな距離で姿を見るのは、初めてだった。
――『ドッチミチ、ヤル心算ダッタ。貴女ハ関係ナイ』
そう言うと少女はけたけたと笑う。薄気味悪さは、不思議とあまり感じられなかった。怖いのは何も変わらないけれど。
「どうして……来たの…………?」
縮こまりながら、友美は尋ねた。よもや、殺し損ねた者を殺して回っているのではないだろうか。運良く難を逃れた、友美のような存在を。
思わず一歩引こうとして、ベッドから落ちそうになる。
――『感謝、シニ来タ』
少女の言葉が理解できなかった。
少女はさっと髪を掻き上げた。
もう幾度も目にした、汚れた服と髪。その中に隠れた顔はしかし、全く普通のモノであった。整った面はやや痩せこけて煤けてはいたが、何ら恐怖を感じるものではない。
どうして。いや、死ぬ直前の姿をしていると思えば当たり前か。
驚きで声が出ない友美に、少女はまた笑いかける。
――『貴女ダケダッタ。私二気ガツイタノモ、私ヲ探ソウトシテクレタノモ。貴女ガ最初デ、最後ダッタ。
私、嬉シカッタ。ダカラ、貴女ダケハ殺シタクナカッタ。ナントカシテ、アノ街カラ引キ離シタカッタ』
そういえば、と友美は思い出す。事故に遭った時、最後に見た顔は少女のものだった。場所からして、背中だって押せたに違いない。
あれは、幻影ではなかったのか。
そしてそうだとすれば、友美が助かったのは――――
「……あれ」
ふっと気が付くと、少女は忽然と姿を消していた。
何一つ、言い残すことなく。
狭い病室の窓が少し開き、夏場にしては冷たい風がびゅうびゅうと吹き込んでいる。
友美は、ふっと笑った。
夢を見ていたんだ。そう、思うことにした。
駒形百合花という少女が見せてくれた、夢を。
彼方の地平線に、足元を失ったイーストライズタワーの朧げな像が、いつまでも漂っていた。
これにて、「ザ・タワー」完結です。
夏のホラーということで書き始めた作品だったのですが、ホラーというより下手な推理物になってしまったような気がします。やっぱり三人称は書きづらい……。
テーマソングはAKB48「軽蔑していた愛情」、舞台は東京都墨田区です。「イーストライズ東京」というビルの名称は、墨田区のシンボルである東京スカイツリーの名称候補の中にあった「ライジングイーストタワー」を改変したものでした。またタワーの高さは、計画初期段階の東京タワーの高さである380㍍に設定してあります。何を隠そう高層建築マニアの著者、この辺の設定には力が入りました(笑)
本当は、もっともっと時間をかけて丁寧に描きたかったところなのですが。
そうするには時間が足りないのと、どんどんホラー要素が失われていくように思われたので(苦笑)
ホラーとしてでなくても、少しでいいので「面白かった」と思っていただけたら、作者としては感無量です。
ホラーの腕を磨こうと思います。
蒼旗悠
2014.8.12