第四夜
「……全く、一体何があったんです。深夜に道の真ん中で寝ていただなんて」
やれやれとでも言いたそうな本所の嫌味な笑みに、少々友美はムッとする。ここは、友美の住む荒川区の警察署だ。
どうやら、昨夜友美は道端に倒れていて、通りかかった警察官に保護されたのだという。その辺りの記憶が、友美には全くない。
「仕方ないでしょう。不可抗力だったんですよ」
本所は軽く聞き流して見せた。「それで、用向きは? 私を呼び出すほど緊急の事とは、一体何なんです」
「それなんですが」
友美は、声を潜めた。
「昨日の事故で亡くなられた、駒形さんの家を家宅捜索して頂きたいんです」
言われている事が理解できないかのように、本所は目をぱちくりさせる。実際、理解なんて出来るはずもなかろう。
「そりゃまた、どうして」
「兎に角、お願いです。令状を出して頂くのは、さほど難しい事ではないのではないですか?」
我ながらごり押しも此処に極まれりだと感じる。本所は何か言いたそうだったが、無言でケータイを取り出した。
友美も、鞄を手に駆け足で警察署を出た。
確認すべき事項が、いくつもある。
駒形の自宅の場所、家族構成、来歴。住民基本台帳も閲覧したい。墨田区役所に駆け込み、事情を説明し、様々な文献を手当たり次第に探した。
やはり、思った通りだ。これまで起きた事件の半分くらいは、これで真相に近づけたような気がする。確信を手に区役所を出た友美は、数百メートル先に聳え立つ超高層ビルを見上げた。イーストライズタワーだ。
あと少し。あと少しで、あの高みに届くのだ。そう思うと、胸の高鳴りが抑えられない。
「もうちょっとだからね、菊川」
呟いた時、ケータイが鳴動した。着信だ。
「……業平さん……?」
◆◆◆
「──イーストライズタワーについて、色々と嗅ぎ回っているらしいじゃない」
開口一番、業平嘉子はそう友美を問い詰めた。「どういうつもりよ」
「私は、調べたいことを調べているだけです。嗅ぎ回っているなんて、そんな……」
「だからそれが困るんじゃない。貴女、新聞記者なんでしょ? こっちとしては有る事無い事新聞に書きなぐられて評判落とされても困るのよ。せっかく、上手く行っているのに」
猛獣のような鋭い目に睨まれ、友美はもう半ば負けそうだった。この人は、纏う雰囲気が怖すぎる。
東京の都心部を一望できる広い広い会議室はしかし、息が苦しくなるほどに空気が張り詰めていた。ここは、イーストライズ東京の開発会社──東上ビル株式会社の入居する、港区の超高層ビルの最上階だ。
「確かに、貴女の会社のヘリがうちのビルに墜落したのは事実よ。貴女とは同期だったというし、それは残念だったわ。でも、あれは飽くまでただの事故。世間は幽霊がどうのこうのって騒ぎ立てているみたいだけど、あんなの有り得ないわ」
「……どうして、そう言い切れるんですか?」
「非科学的だからよ!」
バン! と机を叩く音が会議室中に反響した。思わず友美は肩を竦める。
「私たち人間は、きちんとした計算や想定のもとに、あのビルを建設しているの。どっちが高等か、とかはどうでもいい。私たちは今まできちんとやって来た。それを、幽霊だなんて意味の分からない輩のせいで壊されたくない。きちんと原因究明して頂いて早急に建設を再開しなければ、間に合わなくなるの」
「それはそうでしょうけど……」
「これ以上邪魔をするようなら、産建新聞さんに文句つけるわよ。お宅の記者が云々、ってね!」
もうタジタジである。すっかり椅子の上で小さくなっている友美を見てか見ずか、業平は大きなため息をついた。
「イーストライズは、地域の希望。でもそうである前に、全国の再開発の希望なのよ」
……友美は少し、顔を上げる。
「昨今の再開発は、どれも雑すぎるわ。ただタワーマンションでも建てとけば、それでいいと思ってる。儲かればいいと思っている。でも、それは再開発じゃない。ただ、そこに巨大な建造物を置いただけに過ぎないの。本来、再開発はその街のポテンシャルを引き出し、持ち上げ、街全体を活性化するものでなければならないの」
業平の目が、遠くなっている。その視線の先を追った友美は、彼方にぼんやりと蜃気楼の如く浮かぶ摩天楼を見つけた。
「私たちは、あれの完成に全てを賭けているの。社運の、いえ……東京の未来の、全てをね。
今さら、後戻りなんか出来ないわ」
そう、業平は静かに宣告した。
「はぁあ……」
電車に乗ると、友美はやや大袈裟に息を吐く。
前に会った時も思った事だが、やはり業平と向き合うのは苦手だ。何と言うか、やりにくいのである。
──何が何でも、か……。
椅子にもたれ掛かった友美は、斜め後ろの天を仰いだ。灰色の雲が、東京の空を覆っている。汐留や虎ノ門の超高層ビル街が、暗い天の下でさも居心地悪そうに肩を寄せあっている。
そろそろ、連絡が来てもいい頃合いなのだが。
そう思った矢先だ。ケータイにメールが届いたのは。
宛先はやはり、本所だった。
文面には、こうあった。
[……大変なものが見つかりましたよ。向島さん、貴女まさかこうなることを分かっていて、我々を差し向けたのか?]
その通り、である。文面から察するに、想定される事態としては最悪の様相を呈しているようではあったが。
素早く友美は返信を打つ。
[私も、そちらに行かせて頂いてもよろしいでしょうか?]
◆◆◆
現場──死んだ駒形の自宅は、警察官で溢れかえっていた。
友美の姿を見るなり、本所が駆け寄ってくる。「教えてくださいよ、向島さん。どうして分かったんです」
「教えてもらったんですよ。幽霊に」
友美は真顔でそう答えた。一言も間違った事は言ってはいない。
昨日、最後に少女は自分の姓名を言っていたのだ。意識を失ったのがその直後だったため、名前までは聞き取れていない。だが、苗字はちゃんと聞き取っていたのである。
あの時、少女は、「駒形」と名乗っていた。
「こちらが、発見された遺体です」
警官の声とともにブルーシートが剥がされ、思わず友美は声を上げそうになった。
そこには、酷く腐乱した子供の亡骸が横たわっていた。
性別さえも、分からない。それでも友美は、確信した。昨日も一昨日も会った、あの少女だと。亡骸の着ている肌着が、友美の記憶に残る少女のものと一致したからである。
ところどころが原形をとどめず、腐った肉が落ちて白い骨が覗いている所さえも散見される。一体、どんな状況で今日まで来たのだろうか……。
「閉じますね」
警官に訊かれ、友美は押し寄せる吐き気と闘いながら何とか頷いた。
友美が出ていった後、本所たちは令状の取得に走った。イーストライズ工事現場内の殺人事件の延長である旨を伝えると、それは直ぐに出された。それを手に、現場へ向かったのだ。
入り口は閉鎖され、全ての窓も施錠されている。そればかりか、ガムテープで外から完全に閉め切られていた。不自然な状況に戸惑いを覚えた本所たちだったが、何とかドアを抉じ開け、中に入る。
すると玄関の土間に、少女──駒形百合花の遺体が倒れていたのを発見したのだという。
「酷い有り様だった……」
思い出したくもないのか、本所は心底嫌そうな顔をする。
「死後、最低でも一年以上は経っているそうです。指紋の採取の結果、廊下には殆ど被害者以外の指紋がない事も分かりました」
「と、言うことは……」
「駒形家は父子家庭だそうですな」
机をトントンと指で打ちながら、本所は苦々しい声を出す。「状況からして、どう見てもこれは死体遺棄──いや、もっと前から放置されていた可能性がある。つまり、児童虐待です。実は、後者を裏付ける証拠も見つかっていましてな」
「何ですか?」
「日記ですよ」
本所は、ビニール袋に入れられたぼろぼろのノートを差し出してきた。タイトルには「日記」と書かれ、少女の名前が記されている。
「ご自由に、捲ってみてください」
そう言われ、友美はページを捲ってゆく。
[今日も、お父さんにたたかれた。なんでたたかれたのか分かんないよ。私、ただ本を読んでただけだったのに。ひどいよ……]
[今日、またお昼ごはんが抜きになった。おなかすいて仕方なくって、お菓子を買ってこようと思って外に出ようとしたけど、くつが壊れてて出ていけない。私のもちもの、みんなこわれちゃってる……]
[今日、お父さんがリビングでだれかとケンカしてた。だれかは分からないけど、おばさんだった。しんけんが何とかって話をしてたみたい。こわくって、部屋のすみでずーっとかくれてた。もう、いやだよ……]
[もう一週間も、お父さんが帰ってこないよ。もう、食べ物が残ってない。それに、なんだか最近部屋の中が暗いの。まどの外を見たら、太陽が大きな柱に隠れて見えなくなってた……。寒いよ、こわいよ、お父さん……。早く、帰ってきてよ……]
[……きっともう、お父さんは帰ってこないんだ。きっとそうだよ。だって、いま見たらお父さんの服、すっごい減ってるんだもん。お父さんは、私をすてたんだ。
信じられない。私、ずうっと待ってたのに。もう十日も、待ってるのに……。
許さない。
お父さんも、私を産んだお母さんも。
みんなみんな、許さない。
みんな不幸になっちゃえばいいんだ!!]
「………………」
友美の頬を、つうっ、と涙が流れ落ちていった。
この子は、ずっと苦しめられていたのだ。恐らくは、生まれた時から。しんけん、と書いてあるのは親権のことなのだろう。
そして最期は、暗い家の中で孤独と空腹に耐えきれず、玄関まで這って来て…………。
「……これは、面倒な事件になってきたものですな。何が起こっているのやら、全貌が掴めない……」
ぼやく本所を他所に、涙を拭った友美は部屋の窓から外を見た。
天空に伸びる人の造った柱が──イーストライズタワーが、傾き気味の日の光を遮っていた。
これは、復讐劇なのかもしれない。
タワー最上階で見つかった死体の首に巻き付いた手形と、墜落寸前にヘリの搭乗者が見ていたという幽霊。友美の背中を追いかける、正体不明だった少女の霊。そして、腐乱死体として発見された現場監督の娘。
全てが噛み合う結論は、それしかない。
「────貴女だったんだね」
背後に立っているであろう少女に、カーブミラー越しに友美は告げた。
──『私ガ、何?』
「この事件を引き起こした犯人。いえ、貴女も被害者だったよね。虐待を受けていたんでしょ?」
友美の言葉に、少女は首をぐにゃりと不自然に曲げる。ひっ、と思わず声が漏れそうになるが、どうにか友美は耐えきった。
──『ナゼ、ソレヲ知ッテイルノ?』
「覚えてないの?」
恐怖の抜けきらない友美の声は震えてはいるが、しかし今回は自分の口でしゃべっている感覚が確かにある。友美は尚も問いかけた。
「貴女の亡骸を今日、警察が発見した。全てが、これから明らかにされるわ。貴女が生前に残してくれていた日記のおかげだったのよ。まさか、覚えていない?」
少女はまたぐにゃりと身体を歪めると、ケタケタッと笑う。
──『私ガ覚エテルノハ、コノ身体ニナッテカラノ私ダケ。
他ハ、知ラナイ』
「…………!」
まさか。
少女は生前の記憶無きままに、怨みだけで行動しているというのか。
──『私ハ、許サナイ。誰モ彼モ、絶対ニ許サナイ。私ヲコンナ姿ニシタ全テを…………』
そこまで言ったところで、少女の姿がふいに消えた。
「あっ」
友美は振り返る。
もう、あの後ろにいるような気配がない。本当に消えていってしまったのだ。
「そんな…………」
友美は、へたりこんでしまった。
生暖かいアスファルトが、ここが現実世界であることを実感させてくれた。
次の被害者が、出る。
確かな予感が、友美の頭を完全に支配していた。