第三夜
友美が急いで駆けつけた先は、あのイーストライズタワー建設現場だった。
「お待ちしておりましたよ」
本所が出迎えてくれる。息急き切った友美は荒い息を吐くと、尋ねた。「何があったんですか?」
「死者が出ました」
……!?
目が点になる。
「何を言ってるのか分からないでしょうな。昨夜、現場監督と作業員十数名、それに事故調査委員会の数名が、例の衝突現場を確認しに向かったんです。そこで──」
応答が、途絶えたのだという。
同時にビル内で停電が発生し、上に上がることが不可能となったため、今朝の電源復旧を待って捜索が行われた。
そして、最上部のフロアで倒れている人々を発見したのだ。
「全員、死亡していました。首には強い力で絞められた痕がくっきりと残っていまして……」
写真見ます? と聞かれ、一も二もなく友美は頷く。本所は内ポケットから、一枚の写真を取り出した。
「これなんですな」
そこには、被害者の首と覚しい部分が写り込んでいた。人の手の形をした、赤黒い痣が出来ている……。
「これは……!」
友美はたまらず訊ねていた。
「これが致命傷だそうで。大きさは子供の手ぐらい、しかし死に至らしめるほどとなると握力的には大人以上ですね。どうなっているのか……」
子供の手ぐらい。
思い当たる節が、あるではないか。
「兎も角、我々これから現場検証などもあるので、今日はこれで。あとで捜査本部の方から記者会見もあるでしょうから、そっちにも顔出しといてみて下さいな」
そう言い残し、本所は走り去って行く。
心なしか、嬉しそうに見えたのはなぜだろう。ヘリコプター墜落の時は事故調査委員会に主導権を握られるか何かして、自由な捜査が出来なかったからだろうか。
友美はまだ暫くそのまま、そこから動けなかった。
少女の正体は、一体誰なのだろうか。
どれだけ考えても、皆目見当がつかない。当たり前だ、墨田区の人口は数十万人もいるのである。幼い少女など、いったいどれほどいる事か。
一人一人当たっている暇はない。既に第二の悲劇が起こってしまったのだ。目的がまるで分からないが、この後もこうした被害が続くのであれば、それは食い止めねばならない。
そうは、思うのだが……。
──仕方ない。頼りたくないけど、あの人のもとに行ってみよう。
「──で、あたしの所に来た訳かい」
頷くと、あの老婆は大口を開けて笑った。「ひゃひゃひゃ、占い師を頼る新聞記者とはねぇ! 胡散臭い記事になっても知らないよ?」
「記事にするために来たんじゃないんです」
友美は老婆に迫った。「お婆さん、私、誰かに取り憑かれてないですか。霊とかお化けとかに」
「なんだい、唐突だねえ」
「いいから教えてください。私、最近よく感じるんです。後ろをついて回る何かの影を……」
老婆は不思議そうな目で友美を舐めるように眺める。ちょっとオーバーな表現をしたのがバレたかと友美はひやりとしたが、そうではなかったようだ。老婆の手は、ふいにするりと机の下へと潜り込んだ。
「ちょっとお待ち。こういう時は、これが一番さ」
取り出されたのは、如何にもといった姿の巨大な水晶玉だ。紫色のテーブルクロスの上に置かれたそれが、怪しさを一層のものにする。
「これは……」
「過去でも未来でも、見える、感じるってタイプの占いにはこいつを使うのさ。今、見てやるからね」
そう宣言すると、老婆は水晶玉を覗き込む。
ごくり。
喉を鳴らしたのは、友美だったか、老婆だったか。
「…………あんた……」
やがて老婆は、ゆっくりと面を上げた。
その顔が、恐ろしいほど引き攣っていた。
「あんた、いま何かの事件に関わっているだろう?」
どうして分かったのだろうか。こくっ、と友美が首を縦に振ると、老婆は言葉を繋げた。
「悪いことは言わないよ。あんた、今すぐその事件に関わるのをやめた方がいい。いや、この街に立ち寄らない方がいい……」
◆◆◆
結局、老婆は最後までその正体を教えてはくれなかった。
何度尋ねても恐れ戦くばかりで、話にならないのだ。
「気になるんだけどな……」
夜の帳に、友美は少し白い息を吐き出す。煙草の煙のように、それは儚く空へと散ってゆく。今日は空気が乾いているようで、遠くを走る車や電車の音がノイズのように聴こえていた。
気になるというのもあるが、友美にしてみれば直近の問題でもあった。件の少女は昨日の夜、友美の後ろをつけてきてもいるのである。正体が分からないことには、どうしようもない。
──少なくとも、あのビルの計画の関係者ではあるんだろうけど。それにしたって候補が多すぎるよね……。
頼みの老婆が口を開いてくれるまでは、あの場所に通い続ける他ないか。少しげんなりしながら、友美は諦めのため息を吐いた。
老婆──で、思い出した事がある。
一昨日の夜話していた、タロットカードの話だ。元来オカルトにはまるで興味を示さなかった友美には何のことやらさっぱりだったので、調べてみたのである。
塔のカードは、旧約聖書に登場する伝説の「バベルの塔」に由来するのだという。そう、人工物で天空を目指した人類が神の恐れを買い、不幸な未来を背負わされてしまう、あの伝説である。
塔が発現した時、その人は凄惨な運命に曝される。逆向き、即ち引っくり返っていた場合でも、それは幸福とはならない。むしろ全てを失い、『無』と化すのだそうだ。
それが塔に宛行われた、宿命なのである。老婆が塔を忌み嫌うのも、無理はないのかもしれない。
はぁ、と肩で息をした時、友美はふっと気づいた。
ここは、昨日の例の場所だと。
ということは。
案の定背中が、ぞわっと粟立つ。間違いない、アレが後ろに居るのだ。
しかも、ひたひたと響くその足音は、紛れもなく此方へ接近してきている。
がくがくと震えだした膝を、友美は必死に押さえつける。駄目よ、私。震えてなんていられない。今日はきっちり、姿を見届けてやるんだから!
勢いをつけて、友美は振り返った。
誰もいなかった。
相変わらず、足音はする。
なのに姿はない。
もう心臓が爆発してしまいそうだ。ふらふらとよろけながら、友美はまた振り返ってカーブミラーを見上げた。
映っている。あの少女が。
真っ白な服に身を包み、鮮血のような口を開いた、あの少女が。
「────貴女は、誰?」
訊ねたのは、少女ではない。
友美だった。
「貴女はどうして、あんな悲劇を引き起こしたの。なぜ、殺したの」
まだ、微かに街の音が聴こえている。
その事が、今日は友美の心の静寂を支えていた。日常からはまだ、切り離されてはいない。そう思えた。訴えるように言葉を重ねる友美の心はいつしか、失いかけていた落ち着きを霞の彼方に見出していた。
思い出したのだ。
自分はどうして、こんな事件に首を突っ込み、ここまで奔走しているのかを。
本当は、事件を未然に防ぐのは目的ではない。ただ、知りたかっただけなのだ。菊川が死ななければならなかった、ヘリが墜落しなければならなかった、そして……大勢の人々が命を落とさねばならなかった、理由を。
その全ては、この少女だけが知っている。そう、思った。
「私を付け回しているのは、なぜ。私は貴女の望む知識もモノも、持ち合わせてはいないのよ。ねえ、教えてよ」
震える声で、友美は少女に語り続ける。「私は真実が知りたいの。貴女が誰だか、それさえも私は知らない。貴女の為に何かをしてあげることも、出来ないままなの」
ぐらり。
少女の像が、揺れた。
心が動いたのだろうか。淡い期待が膨らみそうになって、友美は慌ててその念を押し返す。相手が本当に幽霊なら、心だって読まれていかねないと思ったからだ。
代わりに、ふうっと長い息を吐いた。少しだけ増した寒気が、友美の脳を冷やしてくれる。
友美は改めて、少女の外見を見た。白い服に見えたのは、どうやら肌着のようだ。それも、よく見てみると汚れや染みが目立つ。かなり長い間、放置されていたのだろうか。それが証拠に、爪も髪も伸び放題だ。
そして肝心の目は鼻の下まで伸びる長い前髪に隠され、様子が全く分からない。両腕をだらんと身体の両脇に垂らしたまま、突っ立っている。
今はまだ、待つことしか出来ない。
少女が口を開く、その時まで。
そう誓った友美だったが、カーブミラー越しに睨み合い始めてから、もうどれほど経つだろう。
──『貴女ハ』
掠れた声は、友美の脳に直接届くようだった。
やっと、反応が返ってきたのだ。
──『向島友美』
なぜ知ってるの、とよっぽど問いたかったが、その疑問はぐっと喉の底に押し込む。
「そうよ。貴女は?」
友美が応答した瞬間、空気がビリっと凍りついた。
周囲の全ての音が、消え去った。
ミラーの向こう、
少女が一歩を踏み出した。
──『私ハ────』