殺し屋令嬢に王子が懐いて困っています ~硝子の靴には毒を塗れ~
舞踏会に潜り込む方法は三つある。
招待状を盗む。関係者を篭絡する。あるいは、最初から招待される側になる。
エラが選んだのは三番目だった。正確には、侯爵家が選んだ、というべきかもしれないが。
馬車が王宮の正門をくぐった瞬間、エラは窓の外に視線を走らせた。
衛兵の配置、松明の間隔、影の濃さ。
習慣だった。
どこへ行こうと、まず逃げ道を三つ確認する。
正門。東側の勝手口と思しき低い扉。
それから——馬車の轍の跡が消えるあたりに、格子のない窓がひとつ。
三つ。よし。
「エラ様、そろそろ到着いたします」
御者台から声がかかった。侯爵家の使用人の声ではない。今夜だけ雇われた、素性も知れぬ男だ。その声をスイッチにして、エラは微笑んだ。練り上げた、完璧な微笑みを。
「ありがとう」
声にも笑みにも、一切の感情を乗せない。感情は計算を鈍らせる。それがエラの信条だった。六つの頃から叩き込まれた、唯一の生存戦略。
馬車の扉が開く。差し出された手を取り、エラは石畳に降り立った。
薄青のドレスは侯爵家が用意したものだ。「本物のシンデレラらしく」という注文だったらしい。エラはその「本物」が今どこにいるのか知っていたが、知らないふりをする技術も、とうの昔に身につけていた。
王宮の階段を上りながら、エラは今夜の任務を頭の中で整理した。
標的:ヴィクトル・ド・ベルナール。伯爵家嫡男、二十歳。社交界では傲慢で鳴らしているが、実務能力は高く、父である伯爵の右腕として動いている。侯爵派にとって、彼の排除は急務だった。
手順:接触、篭絡、信頼獲得。文書の場所を吐かせたのち——処理。
シンプルだ。これまでと変わらない。
エラは扉をくぐった。
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大広間は、光の洪水だった。
シャンデリアが千の炎を抱いて天井に揺れ、磨き上げられた床が鏡のように貴族たちの姿を映していた。香水と蝋燭と、微かな汗の匂い。笑い声、楽器の音、ドレスの裾が床を擦る音。
エラはその光景を、窓の外から眺めるように受け取った。
美しい、とは思わない。有用か、有用でないか。それだけだ。
ひっそりと扇の影から視線でヴィクトルを探す。事前に肖像画は頭に入れてある。黒髪、高い鼻梁、少し尊大な顎の角度——
「失礼」
声が、真横から降ってきた。
エラは半歩だけ動いた。反射だった。が、手が取られた。柔らかくもなく、乱暴でもない、計算された力加減で。
「一曲、お付き合い願えますか」
振り向いた先に、男が立っていた。
金の髪。涼しげな灰色の目。王家の紋章をさりげなく縫い込んだ礼装。エラはその顔を、即座に記憶の引き出しと照合した。
エドゥアール・ド・ロワ。第二王子。十九歳。政治的発言力は低く、社交界では「美貌だけが取り柄の飾り」として有名。
脅威度:低。
そう判断していた、一秒前まで。
「……光栄です、殿下」
エラは微笑んだ。作り物の笑顔を、完璧に貼り付けて。
エドゥアールの目が、一瞬だけ細くなった。
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―― エドゥアール ――
扉をくぐった瞬間だった。
エドゥアールは今夜、来るつもりがなかった。王家の夜会など、出席するだけで各派閥の思惑に利用される。笑顔を貼り付けて、何も言わず、何もせず、ただそこにいる。それだけのために呼ばれる席が、好きになれるはずもなかった。
それでも来たのは、報告のせいだった。
三日前、王家の暗部から書状が届いた。今夜の夜会に、ラフォン侯爵家の「娘」が出席する。本名不明。侯爵家が拾い上げた孤児で、長年手駒として育てられた。今夜の標的はベルナール伯爵子息——暗殺者だ、という内容だった。
エドゥアールはその報告を三度読んだ。
危険人物の確認のために来た。そのつもりだった。
しかし扉をくぐった瞬間、大広間の入り口に彼女が立っていて——エドゥアールは、自分が何をしに来たのか、一瞬だけ忘れた。
薄青のドレス。扇の影から広間を静かに見渡す目。笑ってもいない、かといって無表情でもない、あの顔。
暗殺者の顔ではなかった。
いや、そうではないかもしれない。暗殺者というのは、たぶんああいう顔をしているのかもしれない。何も映さない、水面のような目。
エドゥアールは気づいたときには動いていた。
政治的に有用だ、と頭のどこかが言った。婚約という形を使えば、動ける範囲が広がる。侯爵派の手駒を手元に置くことで、派閥の動きが読める。
そうだ。それだけのことだ。
だから声をかけた。手を取った。それだけのことだ。
ダンスの最中、彼女が何かを考えているときの顔を見た。水面が、わずかに揺れるような顔だった。
政治的に、有用だ。
エドゥアールは自分に、もう一度そう言い聞かせた。
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ダンスは、戦いに似ている。
リードする側とされる側。崩す側と耐える側。笑顔の下でどれだけの計算が走っているか、相手には見えない。
エラはエドゥアールの手に従いながら、頭の中でヴィクトルの位置を追い続けた。北東の柱の近く。グラスを片手に談笑している。まだ動く様子はない。
問題はこちらだ。
なぜ王子が自分に声をかけた。
「初めてお見かけしますね」
エドゥアールが言った。ダンスの定型句のような、何気ない口調で。
「ラフォン侯爵家の娘、エラと申します。殿下のお目に留まるとは、光栄の極みで」
「侯爵家の」エドゥアールは繰り返した。「ああ、シンデレラと呼ばれているという」
エラは笑顔を崩さなかった。「お恥ずかしい話ですが、そのような渾名を頂戴しているようで」
「恥ずかしくはないでしょう。良く似合っている」
褒め言葉の形をした何か、だと思った。エラは相手の目を見た。灰色の目が、こちらを見返してきた。
表情がない。
笑ってはいる。社交的な、王子らしい柔らかな笑みを浮かべている。しかし目の奥に、エラはまったく別の何かを見た気がした。
品定め。
品定めをされている。
(面白い)
エラは内心だけで思った。声にも顔にも出さない。出す必要がない。
この男は飾り物ではない。少なくとも、今この瞬間は。
ならば利用できる。
ヴィクトルへ近づくより、王子の寵愛を受けた令嬢という立場の方が、動きやすくなる場合がある。エラは素早く計算を組み替えた。このダンスを活かす。王子の関心を引いておく。後で——
「楽しそうですね」
エドゥアールが言った。
エラは一拍、止まりそうになった。
「ダンスが、ということでしょうか」
「いいえ」エドゥアールは微笑んだまま言った。「何かを考えているときの顔ですよ、それは」
エラは笑顔を保った。内側だけで、警戒のレベルを引き上げながら。
「緊張しているのです、このような機会など…」
「そうはみえないが」
「殿下は…」よほど、女性の顔をご覧になり慣れているようですね、と言いかけそうになったがやめた。
笑いを噛み殺したような間のあと、「そうかもしれない」と言った。
曲が終わった。エドゥアールがエラの手を離した。その瞬間だけ、指先の力が一度だけ強くなった。気のせいかもしれない。そうではないかもしれない。
「また話しましょう、ラフォン侯爵令嬢」
王子は優雅に一礼して、次のパートナーにと切望する人の波の中へ消えた。
エラは三秒だけ、その背中を見送った。
計算が、狂った。
そう思った。狂ったというより、新しい変数が加わった、という方が正確かもしれない。いずれにしても、今夜の任務は当初の想定より複雑になった。
エラはドレスの裾を直し、再びヴィクトルを探した。
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ヴィクトルへの接触は、予定より三十分遅れた。
原因はエドゥアールだった。正確には、エドゥアールに声をかけられたエラを見ていた周囲の目だった。第二王子が見慣れぬ侯爵令嬢と踊った、という事実は、大広間の空気を微妙に変えた。エラの周りに、好奇の視線が集まり始めた。
悪くはない。注目は使いようだ。
エラはグラスを手に、さりげなく北東の柱へ向かった。
「ベルナール伯爵子息、でいらっしゃいますか」
声をかける直前、一瞬だけ自分の笑顔を確認した。輝くような、嫌みのない微笑み。これが完璧すぎると、ときどき人を遠ざけることがある。だから今夜は七割程度の明度に抑える。少し恥ずかしそうに、少し緊張しているように見せる。
「そうですが」
ヴィクトルがこちらを向いた。黒髪、尊大な顎。肖像画通りだ。視線がエラを上から下まで流れた。品定めというより、警戒に近い色だと思った。
「先ほど殿下と踊っていた方ですね」
「はい。エラと申します」
「知っています」
短い答えだった。エラは笑顔を崩さない。
「ずいぶんとお早い。私の名前をご存知とは」
「王子が踊った相手の名前くらい、五分あれば調べられる」
ヴィクトルはグラスを口に運びながら言った。それから、ちらりとエラを見た。「あなたは、何をしに来たのですか」
「舞踏会に、ですか?」
「いいえ。私のところに」
エラは笑顔を保ったまま、内側でわずかに修正を加えた。
この男は勘がいい。あるいは、疑い深い。どちらにしても、正攻法は使えない。
「実はご相談があって」エラは声を低めた。「伯爵家について、少し気になることがございまして」
ヴィクトルの目が、一度だけ鋭くなった。
針に触れた魚の反応だ、とエラは思った。
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その夜、エラは三度エドゥアールと言葉を交わした。
一度目はヴィクトルとの会話の直後。人の流れの中でたまたま隣り合った形で、エドゥアールはただ「うまくいきましたか」とだけ言った。エラは「何のことでしょう」と返した。エドゥアールは笑っただけだった。
二度目は夜半過ぎ、バルコニーで。エラが一人になって頭を整理しようとしていたところへ、音もなく現れた。
「夜風が必要な時間帯ですね」
「殿下もですか」
「私は別の理由で」
エドゥアールは手すりに肘をついた。月が出ていた。彼の横顔が、光の中では少し違う色に見えた。
「ベルナルド侯爵令嬢」
「はい」
「ヴィクトルとは、どんな話を?」
エラは一瞬だけ考えた。嘘をつくべき場面か、本当のことを言うべき場面か。あるいは、話題を変えるべきか。
「お世辞と当たり障りのない近況報告を」エラは答えた。「殿下と踊った令嬢というのは、珍しい話題を持ち込むのに便利なのです」
「なるほど」エドゥアールは言った。「賢い」
「買いかぶりです」
「そうは思わない」
また、品定めの目だった。しかし今度は少し違う。値踏みではなく、もう少し——何というのだろう。確認、に近い気がした。
エラは視線を月に戻した。
この男は何かを知っている。確信していた。ただ、何をどこまで知っているのかが読めない。それが気持ち悪かった。「気持ち悪い」という感覚を覚えたこと自体、久しぶりだった。
「一つ提案があります」
エドゥアールが言った。
「聞かせていただけますか」
「あなたを、もう少し近いところに置きたい」
エラは表情を動かさなかった。
「それはどういった意味でしょうか」
「文字通りの意味です」エドゥアールはこちらを向いた。「婚約という形式が、互いにとって都合がいい」
沈黙が落ちた。月だけが音もなく動いていた。
「殿下にとっての都合とは」
「私が何かを動かそうとするとき、独身の王子というのは色々と不便が多い。婚約者がいれば、動ける範囲が広がる」
「私にとっては」
「侯爵令嬢が王子の婚約者になれば、どこへでも行ける。誰にでも会える」
エラは三秒、考えた。
罠かもしれない。正体を知った上で、管理下に置こうとしているのかもしれない。あるいは本当に、政治的な道具として使いたいだけなのかもしれない。後ろ盾としても有効だろう。
どちらにしても——有用だ。
「我が家へのご挨拶が必要ですが」エラは言った。「私は一人ではございませんので」
「知っています」エドゥアールは即座に答えた。
やはり知っている。
「では」エラは微笑んだ。七割ではなく、十割の笑顔で。「喜んで」
三度目の会話は、広間への帰り道だった。並んで歩きながら、エドゥアールは何も言わなかった。エラも何も言わなかった。
ただ、階段を下りる際にエドゥアールが手を差し出した。エラはそれを取った。
手袋越しからでも体温が伝わってきた。
エラはその感覚を、即座に情報として処理した。体温、三十六度程度。脈は落ち着いている。緊張していない。
自分の鼓動を確認しようとして——やめた。
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侯爵への報告は、翌朝だった。
「王子が婚約を申し出てきました」
侯爵は紅茶のカップを置いた。六十を過ぎた、白髪の細身の男。娘を見る目でエラを見る、と言われたことがある。エラにはよくわからなかった。娘を見る目というのがどういうものか、知らないから。
「エドゥアール殿下が?」
「はい」
「……なぜ」
「私を煙幕に使いたいようです。殿下は派閥争いを傍観しているように見えて、実際はそうではないと思われます」
侯爵はしばらく黙っていた。
「お前はどう見た」
「有用です」エラは答えた。「王子の婚約者という立場は、ヴィクトルへの接触を容易にします。また、王宮内の動きを把握しやすくなる」
「リスクは」
「殿下が私の正体を知っている可能性があります。ただ、知った上で申し出ているとすれば、殿下にも私を必要とする理由がある。現時点では、互いに利用し合う関係として機能します」
侯爵はエラをしばらく見た。
「辛くはないか」
エラは一瞬だけ、侯爵の顔を見た。
「任務に支障はありません」
「そういうことを聞いているのではない」
珍しかった。侯爵がそういう問いかけをするのは。エラは少し考えてから、答えた。
「問題ありません」
侯爵はまた黙った。それから、小さく頷いた。
「進めなさい。ただし、殿下が障害になると判断した場合は——」
「はい」
「その時は、報告してから動きなさい。よいかね」
それは命令ではなく、確認だった。エラは頷いた。
部屋を出る際、扉のそばで一瞬立ち止まった。習慣だった。逃げ道を確認する。
廊下の左。右。窓。
三つ、ある。
いつもと変わらない。何も変わっていない。
それなのに、階段を下りながら、エラはなぜか昨夜のバルコニーを思い出した。月の光と、伝わってきた体温と。
誤算だ、と思った。
感情は計算を鈍らせる。それは知っている。だから感情を持たないように生きてきた。持てないのではなく、持たないように。
エドゥアールの手のひらの温度を情報として処理した、あの瞬間。
あれは本当に、情報として処理できていたのだろうか。
エラは足を止めた。廊下の真ん中で、一人で。
確認するまでもない。
答えは出ていた。
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扉が閉まってから、侯爵はしばらく動かなかった。
紅茶はもう冷めている。カップには触れなかった。
あの娘が六つで屋敷に来た日のことを、侯爵はよく覚えていた。雨の夜で、泥だらけで、それでも泣いていなかった。泣き方を、もう忘れていたのかもしれない。
手駒として育てた。そのつもりだった。
いつからそうでなくなったのか、侯爵にはわからなかった。わからないまま、今日まで来ていた。
王子が婚約を申し出た。
政治的な思惑があるのだろう。エラの分析は正しい。あの娘の読みが外れたことは、ほとんどない。
それでも侯爵は、カップの取っ手を一度だけ指でなぞってから、静かに思った。
殿下が、まともな人間であればいい。
それだけだった。それだけのことが、侯爵にとっては——ずいぶん珍しい、祈りに近い何かだった。
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婚約の発表は、次の夜会で行われた。
貴族社会がざわめいた。第二王子とデビュタント以来夜会に出席していなかった侯爵令嬢という釣り合わぬ組み合わせに、好奇と嘲笑と羨望が入り混じった視線が集まった。エラはその視線をすべて受け止めながら、完璧な婚約者の顔をしていた。
エドゥアールの隣に立つのは、思ったより居心地が悪くなかった。
悪くない、ということ自体が、すでに誤算の続きだったが。
ヴィクトルは夜会の席でエラを見た。何かを確かめるような目で。エラは微笑んだ。七割の笑顔で。
「おめでとうございます、ラフォン侯爵令嬢」
「ありがとうございます、ベルナール伯爵子息。これからもどうぞよしなに」
ヴィクトルはグラスを傾けた。それから、低い声で言った。
「あなたは、何者ですか」
「婚約者ですよ」エラは答えた。「殿下の」
「そうではなく」
「それ以外に何があるのでしょう」
ヴィクトルは答えなかった。ただ、エラを見続けた。
それから、少し間を置いて、思いがけないことを言った。
「殿下があなたに声をかけたのが、なぜだかご存知ですか」
エラは笑顔を保ったまま、内側だけで静止した。
「政治的なご判断では」
「そうお考えで?」ヴィクトルは片眉を上げた。「私はあの方と幼少期から顔見知りでしてね。殿下が誰かに声をかけるとき、ああいう顔をするのは初めて見た」
「ああいう顔、とは」
「必死で平静を装っている顔です」
エラは三秒、黙った。
「……それはどういう」
「一目見て、離れられなくなった人間の顔ですよ」ヴィクトルはグラスを口に運んだ。「政治的判断というのは、後から本人が考えた理由でしょう。あの方はそういう人間だ。感情を認めるより先に、理屈を探す」
エラは何も言えなかった。
感情は計算を鈍らせる。だから持たないようにしてきた。
しかし今この瞬間、エラの頭の中で、積み上げてきた計算が、静かに、音もなく、崩れていった。
指先の力が一度だけ強くなったこと。
政治的に有用だ、と即座に言ったこと。
バルコニーで、月の下で、ただ隣に立っていたこと。
——全部、そういうことだったのか。
「なぜ私にそれを」エラはようやく言った。
「あなたが何者であれ」ヴィクトルは静かに答えた。「殿下の隣にいる人間には、知っておいてほしかった」
エドゥアールがそばに来た。自然な動作で、エラの隣に立った。
「ベルナール卿、先日はご挨拶できずに失礼しました」
「いえ」ヴィクトルはエドゥアールを見た。「おめでとうございます、殿下。良い選択をされた」
「ありがとう。そう思っています」
エドゥアールはエラを見た。エラはエドゥアールを見た。
互いに笑顔だった。互いに、笑顔だけだった。
それなのに。
それなのに、エラはその瞬間、一つのことを考えていた。
もし任務が終わったら。
もし侯爵への報告が終わって、ヴィクトルへの任務が完了して、このすべてが幕を下ろしたら——自分はどこへ行くのだろう。
そんなことを考えたのは、生まれて初めてだった。
考えるべきではない。任務が終われば、次の任務がある。それだけだ。それだけのはずだ。
エラはグラスを口に運んだ。
ワインの味がした。ただのワインの、普通の味が。
甘いとも苦いとも、判断が、うまくできなかった。
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夜が更けてから、エドゥアールはバルコニーに来た。
エラはすでにそこにいた。逃げ道を確認していた。東の塔への渡り廊下。庭園への石段。それから——
「三つですか」
エドゥアールが言った。
エラは振り向かなかった。
「何のことでしょう」
「部屋に入るたびに、少しだけ視線が動く。三箇所確認したところで、止まる」
エラは月を見た。
「よくご覧になっていますね」
「あなたがよく動くので」
エドゥアールが隣に来た。手すりに腕を乗せた。先日と同じ立ち方で。
「一つ聞いていいですか」エラは言った。
「どうぞ」
「殿下は、私の何を知っていますか」
沈黙があった。短い沈黙だった。
「必要なことは、全て」
「では」エラは続けた。「侯爵家のことも」
「ええ」
「ベルナール伯爵子息への任務も」
「おおむね」
こちらとしては表立って動けなくなるのだから、迷惑極まりないのに。
エラはようやくエドゥアールを見た。灰色の目が月光を受けていた。表情はない。しかし——目の奥に、何かがあった。先日とは少し違う何かが。
「それでも婚約を申し出た」
「有用だと判断しました」
エラは、少しだけ間を置いた。
「本当に、それだけですか」
今度は、エドゥアールが黙る番だった。
月が雲にかかった。バルコニーが、一段暗くなった。
「……政治的に」エドゥアールは言いかけて、止まった。
エラは待った。
長い沈黙だった。風が、ドレスの裾を揺らして通り過ぎた。
「扉をくぐった瞬間に」エドゥアールはようやく言った。声が、わずかに低くなっていた。「あなたが立っていた」
「はい」
「それだけのことです」
短い答えだった。それだけのことです、という言葉の重さを、エラはしばらく測っていた。
感情を認めるより先に、理屈を探す人間の顔。ヴィクトルの言葉が、静かに耳の奥で鳴った。
「では」エラは言った。「互いに同じ計算をしていた、というのは」
「半分は本当です」エドゥアールは答えた。「半分は、そう思いたかっただけかもしれない」
エラは前を向いた。夜の庭園が、暗い緑の塊として広がっていた。
感情は計算を鈍らせる。
知っている。ずっとそう言い聞かせてきた。
しかし今この瞬間、エラには一つだけ、はっきりとわかることがあった。
自分の鼓動が、少し、速い。
それを情報として処理しようとして——今夜はやめた。
「殿下」
「何ですか」
「私はおそらく、いつかあなたの障害になります」
エドゥアールは答えなかった。
「侯爵家の命令が、そちらへ向く可能性がある。今はまだそうではないけれど、局面が変われば」
「知っています」
「それでも」
「それでも」エドゥアールは繰り返した。今度は少し違う声音で。「今は、隣にいる」
エラは何も言わなかった。
ただ、月が雲から出てきた。白い光が、バルコニーに戻ってきた。
エドゥアールの横顔が、また見えた。
必死で平静を装っている顔。
エラは、自分がどんな顔をしているか、確認しなかった。確認する必要が、もうなかった。
それだけが、今夜いちばんの——誤算ではなく、たぶん、正解だった。
了




