第7話 死線を越えた先に
「えっ」
それまで二人の会話を聞いていたフィリーネは目を剥いた。
何故なら外は未だに土砂降りで、尚かつ強風がびゅうびゅうと吹き荒れているからだ。窓からは庭の木々が激しくしなっているのが見える。
こんな嵐の中、外に出たら確実に風邪をひいてしまう。
ミリーネの罰は甘んじて受けるが、体調を崩して明日の仕事に響かせる訳にはいかない。
「お姉様、流石にこの天候で屋敷を出るのは厳しいと思います」
「私は外に出ないから濡れないし大丈夫。おまえがどうだったかは、温かいお茶でも飲みながら報告を受けるだけだもの」
外が雨だろうとミリーネはこの罰を取り下げる気はないようだ。
悟ったフィリーネは腹を括る。
「承知しました、お姉様。それで私は……」
どのくらいマツの木と一緒に過ごしたら良いのか尋ねようとしたら、言葉の先を読んだミリーネがきっぱりと言う。
「嫁いだからにはこの屋敷に二度と帰ってこないで。マツの木とよろしくやっていなさい。ああ、そうだ。餞別としてウエディングドレスを用意してあげる。この間、お祖母様のウエディングドレスが物置きにあるのを見つけたの。マーシャ、すぐに準備して」
「お嬢様、どうか考え直してください。いくらなんでもこれはまずいです」
マツの木と結婚させるにしろ、こんな嵐の中での決行はどう考えても体罰の部類に入る。
ミリーネが紫紺蝶から仕返しを受けるかもしれないし、フィリーネの体調も心配だ。
苦言を呈するマーシャに、ミリーネが眉間に皺を寄せて一喝した。
「使用人風情が誰にものを言っているの? 黙って私の命令に従いなさい。さもないと暇を出すわよ!」
これ以上マーシャが意見したところで意固地になるだけだろう。
もう誰もミリーネを止められない。
マーシャは諦めの表情を浮かべた。
「……すぐに着替えさせますのでお待ちください」
こうしてフィリーネは純白のドレスを着せられた挙げ句、マツの木のもとへと送られた。
――そして現在に至るのだが。
長時間雨に当たっているせいで体温が奪われ、フィリーネは身体を震わせていた。歯もカチカチと音を立てていて、歯を食いしばっても止まらない。
それでもフィリーネは己を奮い立たせ、この場を耐え忍んでいた。
(お姉様もそこまで極悪人じゃないはずです。きっともうすぐ迎えを寄越してくださいます)
現状、フィリーネがマツの木に縄で括りつけられてから半日が経とうとしている。
腕とお腹、足首の三カ所を縄で括りつけられ、身動きが取れない。
フィリーネは一心不乱に迎えが来るのを祈った。
しかし、どれだけ待っても助けが来る気配はなかった。
日は暮れて辺りが薄暗くなろうとしている。
(うう、いつまで体力が持つのか心配です)
焦燥感に襲われて心が疲弊していくのを肌で感じる。
雨風はさらに激しさを増し、括りつけられているマツの木がギチギチと悲鳴を上げながら激しく揺れる。その度に、身体に巻きついている縄が食い込んで痛かった。
きっとウエディングドレスの下の肌には、縄の跡がくっきりと入っているはずだ。痛みに表情を歪めていたら、空に光が閃いて雷鳴が轟き始めた。
(このままじゃ雷がマツの木に落ちて、丸焼けになってしまうかもしれません)
括りつけられているマツの木は、崖の上に一本だけ立っていて周りには何もない。
なんとかしてこの状況を脱しなければ雷が木に落ち、側撃を受けて死んでしまう可能性が高い。
(だけど、私にはもう気力も体力も残ってません)
震えが悪化して浅い呼吸を繰り返していくうちに、意識が朦朧とし始める。
曇天には再び閃光が走った。
やがて、ドオォンという雷鳴が響く。どうやら雷がどこかに落ちたらしい。
次に雷が落ちるのは、自分が括りつけられているマツの木かもしれない。そんな確信めいた何かがフィリーネのぼんやりとした頭の中に広がっていく。
(私は、ここで死ぬのでしょうか……?)
心の中で呟いた途端、雷鳴ではないバキリという激しい音が背後から聞こえた。
驚いて後ろを振り返れば、それまでしなっていた幹が根元近くで折れかかっている。
どうやら風とフィリーネの体重を受けて幹が限界に達したみたいだ。
重力に従ってマツの木が倒れていく。
当然ながら、括りつけられているフィリーネの身体も下に傾く。
やがて、根元と繋がっていた最後の部分がバキバキと不気味な音を立てて完全に折れ、崖下へと落ちた。
「きゃあああっ!!」
バシャン! と大きな音を立ててマツの木は水面に叩き付けられる。老朽化していたのか、叩き付けられた拍子に幹が割れてフィリーネを縛っていた縄が緩んだ。
なんとか拘束が解けたけれど、ウエディングドレスが水を吸ってどんどん水底へと引き摺り込まれていく。手足を必死に動かしても水面から浮上できない。
(私、ここで終わってしまうのでしょうか……)
息が続かなくなったフィリーネの意識が遠のいていく。
最後に見たのは、暗闇の水面の向こう側でひらひらと舞う、二匹の黒色に発光した紫紺蝶だった。
フィリーネは暗闇の中を彷徨っていた。
辺りはどこもかしこも真っ暗で、光が一つも見当たらない。
自分は何故こんなところにいるのだろうか。
とにかく、光を探さなければいけない。そんな気がする。
(でも、どこへ行けば光はあるのでしょう)
周りを見渡せどやはり見当たらない。恐怖からくる不安に押し潰されそうになっていたら、不意に遠くから低くて優しい声がした。
――やっと見つけた俺の花嫁。
――俺の運命の番。
――もう決しておまえを離さない。
その心地の良い声音をもっと聞きたくなった。しかし、フィリーネの願いとは裏腹にその声は遠のいていく。
(待って、行かないでください!)
フィリーネは必死に声がする方へと手を伸ばす。
すると、誰かがフィリーネの手を優しく掴んで、こっちだというように力強く引っ張ってくれた。暗闇の中でその人の胸板にぶつかる。
フィリーネが顔を上げると、アイスブルーの双眸がこちらをじっと見つめていた。
フィリーネは重たい瞼をゆっくりと開けた。
目の前には梁材が剥き出しになった天井らしきものが見え、視線を走らせれば出窓のようなものがある。長方形をした窓からは外の明るい光が降り注いでいた。
どうやら嵐はやんだようだ。
天井から自分に視線を下ろすと、フィリーネはベッドに横たわっていた。身体には手触りの良いブランケットがかけられている。
(あの状況下で私は助かったのですか?)
崖からマツの木ごと落ち、幹が割れて縄は解けたものの、ウエディングドレスの重みで水面まで浮上できなかった。あんな状況で無事に生還したなんて信じられない。
死んで幽霊になっていないか、自分のほっぺを抓ってみる。
痛い。痛覚ははっきりしている。身体も透けていないので死んではなさそうだ。
フィリーネは生きていることに安堵の息を漏らした。
(誰かが私を助けて介抱してくださったようですね)
着ている服もウエディングドレスからゆったりとした綿のワンピースに替わっているし、きつく締められていたコルセットも外されている。
(助けてくれた人にお礼を言いませんと。あと、いくつか質問もしたいです)
自分がどうやって助かったのかや、どれくらい眠っていたのか情報が欲しい。
それから眼鏡が無事かどうかも。眼鏡がないと遠くがはっきり見えない。非常に困る。
意識を失う寸前まで眼鏡をかけていたのは覚えているけれど、それからどうなったのかは分からない。もしかしたらテネブラエ湖の底に沈んでしまっているかもしれない。
(命が助かっただけでも奇跡だと思わなければいけませんね)
フィリーネが上体を起こすと、部屋の扉が開いた。




