第16話 月光が降り注ぐ下で
一日が終わり、寝る支度を終えたフィリーネは今日受けた授業内容を復習していた。
家庭菜園を終えた後、フィリーネはカロンから礼儀作法と教養を学んでいたのだ。
元来、好奇心旺盛な性格なため、授業は苦ではなかった。
カロンはそんなフィリーネの姿を微笑ましく思っているのか、礼儀作法と教養だけに留まらずダンスまで教えてくれるようになった。
これらの内容がシドリウスに食べられることとどう関係があるのか分からないけれど、フィリーネは授業が楽しくて仕方がない。
「生贄のはずなのに、まさか勉強する機会に恵まれるなんて」
要点を読み直し終えたフィリーネはノートを閉じて顔を上げる。
机の隅には、茶色の小瓶が置かれていた。これはヒュドーからもらったラベンダーの香油だ。
流石はあの歳でシドリウスの秘書をしているだけはある。その日のうちに香油を手に入れてフィリーネのところまで持ってきてくれた。
試しに手首につけてみると、柔らかい花の香りとすっきりとしたハーブの香りがする。
「とても良い香りですね。これならシドリウス様の食指も動くはずです」
フィリーネが小瓶に蓋をしていると、部屋の暗闇から紫紺蝶がひらひらと飛んできた。
昼間は黒色の光を纏っているが、夜は翅の紫紺色の部分が光を放っている。
紫紺蝶は二匹に分裂すると、フィリーネの邪魔をするように顔の前で飛び、それから置き時計に留まった。短い針は既に一番上を差している。
「早く寝なさいって言っているんですか?」
紫紺蝶は喋らないけれど、何を言っているのかフィリーネはなんとなく理解できる。
置き時計から飛び立った紫紺蝶は、正解だというようにベッドへと移動した。
苦笑するフィリーネは、観念したようにノートを片づける。
「分かりました。寝ます。寝ますから!」
追い立てられるように机の上の灯りを消して、席を立つ。席が窓際なので灯りを消すとカーテンの隙間から月光が降り注いだ。
(今夜は月が明るいです。満月のようですね)
締め直そうとカーテンを掴んだら、外の景色が視界に入る。濃紺の空には煌々とした満月と、銀の砂を撒いたような星が静かに瞬いている。
中庭も月光に照らされて普段とは違う顔を見せていた。
紫色のライラックと、サンザシの白い花は降り注ぐ光を浴びて神秘的だ。
景色に見惚れていたら、中庭に誰かがいる。シドリウスだ。
「こんな時間に何をしていらっしゃるのでしょう?」
いつも背筋を伸ばして優美かつ堂々としているのに、今夜のシドリウスは背中を丸めて項垂れている。明らかに疲弊しているようだった。
紫紺蝶が窓をすり抜けてシドリウスの方へ飛んでいく。あんなに早く寝るよう急かしていたのに、今度はシドリウスの元に行けと言っているような気がする。
紫紺蝶はしばらくひらひらと宙を舞っていたが、そのうちスーッと姿を消してしまった。
「元気がないのは私の気のせいじゃないみたいです」
哀愁漂う姿が放っておけなくて、フィリーネも外に出ることにした。
「シドリウス様」
ショールを羽織ったフィリーネがシドリウスに声をかける。
顔を上げたシドリウスはやはり疲れていた。というより、顔面蒼白で明らかに体調が悪そうである。
「フィー、こんな夜更けにどうしたんだ?」
「それはこちらの台詞です。どこか具合でも悪いのですか?」
心配して側に駆け寄ると、シドリウスは力なく笑った。
「大丈夫だ。悪夢に魘されていただけだ」
「それは、お辛かったでしょう」
シドリウスは隣に座るよう手でベンチをトントンと叩く。促されたフィリーネは隣に腰を下ろした。
シドリウスはさりげなくフィリーネが風に当たらないように壁になってくれる。夜の外は空気がひんやりとしていて、風が吹くと肌寒いのだ。
「悪夢は毎日見ている。百年も見続けているからもう慣れた」
「ひゃ、百年もですか!?」
竜人からすれば百年は大した年月ではないのかもしれない。だが、フィリーネにしてみれば途方もない。驚かずにはいられなかった。
(毎日悪夢を見ているだなんて……しっかり眠らないと身体の疲れも取れないでしょうに)
寝不足の状態で日中起きているのは相当辛いはずだ。
悪循環な生活が続けばいずれ身体を壊してしまう。
身体は資本だ。健康に気をつけなくてはいけないのはさることながら、一日の疲れを回復するには睡眠が不可欠。
シドリウスはその大事なプロセスに支障をきたしている。
「最近は、もっぱら悪夢のバリエーションが増えてだな。寝つきが悪くなっているのも重なって困っている。恐らく夢のせいで入眠するのを恐れているんだろうな」
話を聞いて眉尻を下げるフィリーネは、どうすればシドリウスが穏やかに眠れるか思案投げ首になる。
(うーん、私の力でシドリウス様はぐっすり眠れるでしょうか? 毎日魘されているとなると祈るだけでは効果は期待できない気がします)
マーシャたちと違い、シドリウスは緊張やストレスが原因ではなさそうだ。
フィリーネは自分が眠れない日はどうしていたかを思い出す。
確か紫紺蝶がやって来て、寝つくまで枕元にいてくれた。側にいてくれたおかげで、朝までぐっすり眠れた。
「なかなか寝つけないのでしたら、私がシドリウス様と一緒に寝ます!」
名案だと手を合わせて顔を輝かせるフィリーネ。
その一方でシドリウスはギョッとした。
「は? 待て、何を言っているのか分かっているのか? 一つのベッドで一緒に寝るってことだぞ? 危険だとは思わないのか?」
シドリウスはフィリーネの両肩を掴んで思い直すように諭す。
フィリーネは明るい調子で言った。
「一つ屋根の下で一緒に寝ているのですから、ベッドが同じだろうとなかろうとそう大差ありませんよ」
「いやいや、全然あるからな。大有りだからな。世間体を考えると外聞が悪い。……さては、また俺を試そうとしているな?」
シドリウスは別の角度から自分を誘惑していると思っているようだ。
フィリーネは首を横に振り、真剣な顔で否定した。
「試していません。それと、私は将来シドリウスに食べられる身です。世間体なんて気になりません」
「フィーが気にならなくても俺が気にするんだが」
「私はシドリウス様の体調の方がよっぽど気になります。このままでは手遅れになりますよ!」
「いや、だからと言って一緒に寝るのは……」
一緒に寝る寝ないの押し問答の末、フィリーネがくしゅんと可愛らしいくしゃみをしたところで、とうとうシドリウスが折れた。
「はあ。分かった。フィーが風邪をひいたら大変だし、今回は俺の負けだ」
「ありがとうございます。って、きゃあ!!」
フィリーネはシドリウスに抱き上げられる。所謂、お姫様抱っこの状態だ。
驚いて困惑している間に、シドリウスが颯爽と中庭を突っ切っていく。
「シドリウス様、私なら歩けます。重いので下ろしてください」
「痩せているのに何が重いか。フィーは羽のように軽いぞ。それと暴れるな。うっかり落として大怪我をさせてしまうかもしれない」
「うっ、分かりました」
大怪我と言われて怖くなったフィリーネは、大人しく抱かれることにする。
前を向いて歩くシドリウスの顔には、悪戯な笑みが浮かんでいた。




