第12話 蘇る鮮やかな世界
次の瞬間、フィリーネの眼球が熱くなった。瞼は閉じているけれど、ギュッと力を入れてしまう。
初めての体験に戸惑っていると、ほどなくしてシドリウスの手が離れた。
「目を開けてみてくれ」
言われた通り閉じていた瞼を開ける。
周りの世界を認識した瞬間、フィリーネは目を瞠った。
「わあっ、眼鏡がなくてもシドリウス様の顔がはっきり見えます!」
いつもぼやけていた世界が鮮明になっている。肉眼ではっきりと周りを捉えたのは何年ぶりだろうか。
辺りを見回すフィリーネに、シドリウスが説明をした。
「魔法でフィーの視力を回復させたんだ。人間は精霊と契約しなければ魔法が使えないが、竜人族は自由自在に魔法が操れるからな。ささやかな贈り物だが喜んでもらえただろうか?」
「ささやかどころか大層な贈り物です! 眼鏡なしでまた生活ができるなんて夢のようです。シドリウス様、ありがとうございます」
「……俺はフィーが喜んでくれるならなんだってする」
手放しで喜ぶフィリーネはシドリウスが熱を帯びた目でこちらを見ていることに気づかない。
「食事をお持ちしたのでございますよ」
厨房からカロンがワゴンを押してやってくると、テーブルの上に料理を運んでくれた。
バターの芳醇な香りがするロールパンや、季節の野菜がたっぷりのスープ、オムレツと厚切りベーコンなど、どれもこれもフィリーネの食欲をそそった。
「こんなに豪勢な朝ごはんは生まれて初めてです」
これまでの食事といえば、数日経ってカチカチになったパンとくず野菜のスープばかりだった。
いみじくもハビエルは闇の精霊の逆鱗に触れないよう、加減をしながらフィリーネを虐げていた。
味方である使用人たちは雇い主であるハビエルと魔法の雇用契約書を交わしている。
その内容には闇の精霊について屋敷以外で他言しないことに加え、フィリーネに栄養のあるものを与えてはいけないという一文が添えられている。
逆らえない彼らはフィリーネに粗末な食事を出すしかなかった。
フィリーネは脂の乗った厚切りベーコンに目を輝かせる。
(一度でいいから厚切りベーコンを食べてみたかったんですよね)
厚切りベーコンをナイフとフォークで丁寧に切り分けると、フィリーネはその一切れを口に運んだ。
豚の脂身はカリカリで甘く、赤身の部分は塩加減が丁度よくて美味しい。
幸せそうに頬に手を当てて食べていたら、シドリウスがクスリと笑う。
「気に入ったのならこれも食べろ」
そう言って、厚切りベーコンを自分の皿からフィリーネの皿へと移してくれる。
フィリーネは慌てて止めに入った。
「これはシドリウス様の厚切りベーコンです。私がいただくわけにはいきません!」
「遠慮するな。俺はフィーが食べる姿を見ているだけで幸せになれる。それにたくさん食べないと体力はつかないし、大きくなれないぞ」
フィリーネは下を向いて自分のお腹を触ってみる。指でつねっても皮だけで肉らしい部分はない。
胸の膨らみもミリーネの豊満な膨らみと比べて小さかった。こんな身体のままではシドリウスを到底満足させられない。生贄失格である。
フィリーネはシドリウスの厚意に甘えることにした。
「ではお言葉に甘えて。私、たくさん食べて一日でも早く大きくなりますね!」
「ああ、そうしてくれ。でないと本番で辛い思いをするのはフィリーネだからな」
「そうなんですか?」
フィリーネはこてんと小首を傾げる。
本番で食べる部分が少なくて辛い思いをするのはシドリウスの方では?
そんな疑問が頭を過ったけれど、次に食べたオムレツがあまりにも美味しすぎたせいで吹き飛んでしまった。
「はああ、あんなに美味しいご飯を食べたのは生まれて初めてでした」
朝食が済んだフィリーネは未だに感動の余韻に浸っていた。唯一悔やまれるのは、デザートの果物に辿り着けなかったことだ。これに関してはフィリーネの胃袋が自分の予想よりも小さかったのがいけない。
「次からはデザートも念頭に置いて食事をしないといけませんね」
フィリーネは自分のお腹をぽんぽんと叩きながら廊下を歩く。
「――さて。お腹も満たされましたし、お屋敷の間取りを把握していきましょう」
食事の後、フィリーネは屋敷を見て回って良い許可をシドリウスからもらった。
これは一種の職業病で、お屋敷仕事を長年勤めてきた身としてはどこに何があるのかを頭に入れておきたい。
手始めに一階の部屋から散策していく。
この屋敷の食堂と厨房は繋がっていて、食堂から廊下を出るとその向かいには、トイレやお風呂といった水廻りがまとまって設置されていた。
続いて玄関へ向かって歩いていくと、シドリウスの書斎や図書室、客を出迎えるための応接室などがあった。
応接室は絵画や陶器などが飾られていて、全体的に華やかな空間となっている。
フィリーネはそれらの装飾品を真剣に眺める。もちろん、作家の想いを汲み取ろうとしたわけではない。気になるのはそれらについている汚れや埃だ。
フィリーネはどこぞの姑の如く、陶器をスーッと指で撫でて汚れがないか確認する。
「目立った汚れはありません。カロンさんは凄いです!」
シドリウスの屋敷は規模の割に超がつく少数精鋭。というより、侍女はカロンだけなのでその負担は相当なものだと推測できる。
「細かいところまで掃除が行き届いているとなると、朝はどれほど早い時間に起きているのでしょう?」
アバロンド家の使用人たちは分担が事細かに決まっていて、一人一人無理のないよう仕事が割り振られていた。
したがって、一人で仕事をこなすというのはまったく想像がつかないし、カロンが睡眠時間を確保できているかすら怪しくて心配になる。
「私がお掃除を肩代わりすれば、カロンさんの負担も減って楽になるはず……」
フィリーネは「よしっ」と言ってから踵を返し、早速行動に移った。
「お嫁様っ!? 何をなさっているのでございますか?」
カロンは上擦った声で叫んだ。
「あっ、カロンさん。見ての通り床のモップがけですよ。この規模のお屋敷を一人で掃除されるのは大変だと思うので、私にも手伝わせてください」
備品室で掃除道具を見つけたフィリーネは、必要な道具を持ち出して掃除を行っていた。
カロンはフィリーネの提案に首を横に振る。
「お嫁様が掃除をする必要はありません。私がシドリウス様に叱られてしまうのでございます」
「そうは言っても、カロンさん一人でこの屋敷を管理するのは大変ではないですか?」
「必要ございません。もともとこの屋敷はシドリウス様の魔法によって衛生面は保たれています。ご覧になった方が早いのでございます」
カロンはフィリーネが持ってきていた水の張ったバケツをわざとひっくり返す。
一度ひっくり返った水は床一面に広がっていく。変化はすぐに現れた。
明後日の方向に広がっていた水が跡形もなく床から消えてしまったのだ。
(人間は契約した精霊から力を借りて魔法を使いますが、竜人は自由自在に魔法が使えるのでしたね)
フィリーネは舌を巻いて床を見入る。
カロンは綺麗になった床を手で示しながら口を開いた。
「ご理解いただけましたでございましょう? わたくしが担当しているのは料理と物品の在庫管理、帳簿管理くらいです。掃除道具はありますが滅多に使いません」
屋敷の衛生面が魔法で管理されていることも、カロンが何の仕事を担当しているかも分かった。納得はしたけれど、それでもフィリーネは食い下がる。
「皆様には親切にしていただいてばかりです。どうか、できることをやらせてください。じっとしているなんて性に合いません!」
懇願すると、フィリーネからモップを取り上げたカロンが優しく言う。
「お嫁様にはシドリウス様の花嫁として、礼儀作法と教養を身につけていただくのでございます。わたくしの本来の役割は花嫁の教育係ですから」
成人したら食べられるのに、礼儀作法と教養を学んでおく必要があるのか甚だ疑問だ。
しかし、それはフィリーネの好奇心を刺激した。
(お父様の指示で必要最低限の読み書きと計算しか教わりませんでしたが、あれはとても楽しかったです。食べられるまでにまたあの素敵な時間を味わえるのですか!?)
フィリーネの学びたい欲がむくむくと膨れ上がる。
うずうずしているのがカロンにも伝わったのだろう。彼女は淑やかに笑った。
「存外学ぶのはお嫌ではないようで安心しました。図書室に教材がありますので、取りに行って授業を始めましょう」
「はい! よろしくお願いします」
心が浮き立つフィリーネは、元気よく返事をするとカロンと共に図書室に足を運んだ。




