第五話 吸血鬼は名前を呼ばれる
「妾のことは“ククル”と呼ぶのじゃ、紅!」
ククルさんは楽しそうに、嬉しそうに、期待を込めながら僕にそう命令した。
「あと、そのヘタクソな敬語もいらぬ。同級生なのじゃから、タメでよい」
ついでに僕の敬語も辛辣なコメント共に拒否された。
「え、で、でも……」
女性の名前を呼び捨てで呼ぶ?そんなゲームみたいなイベントが現実に起きるのだろうか。本当に呼んだら最後「きもい」と吐き捨てられないだろうか。ろくに友達も作れない僕が、今日であったばかりの人を呼び捨てで呼ぶ資格があるのだろうか。そもそも人ではなく吸血鬼だから問題ない――いや、そもそも本当に吸血鬼かどうかすら疑わしいし――
「なーにをまた難しい顔をしとる。ほれ、さっさと呼んでみ」
「く、……ククル……さん」
「やり直し」
ただ名前を呼び捨てにするだけなのに、自分でも分かるほどに動揺してしまう。
彼女は、いわば他人だ。今日初めて会話をした、おかしな人だ。“充実したキャンパスライフ作戦”が失敗する大きな不安要素であり、距離を取るべき人でもある。
そんな彼女の名前を呼ぶだけのはずなのに、喉がカラカラに乾いて声が思うように出てこない。女性を呼び捨てにすることは、こんなにも勇気がいることなのだろうか。女性経験に乏しい僕は、これが普通なのか、おかしいのかも分からない。
「こーう?妾の名前は?」
名前を呼んでくれるのを楽しみに待つ彼女と、その期待に応えられない僕。
耐えられない。この恥ずかしさと、みじめさに耐えられない。
――あぁもう!どうにでもなれ!
「……く」
「く?」
「……ククル」
「上出来じゃ、紅」
ククルはにんまりとした笑顔で僕を見る。きっと彼女の目に映る今の僕は、体調が悪いと勘違いされるほどに赤くなっているに違いない。それが自分でも分かるほど、顔が熱い。
「く、ククル……は、嫌じゃないの?僕に名前を呼び捨てにされて」
「妾から頼んでおいて嫌なわけがないじゃろ」
僕の不安に軽く笑って見せたあと、ククルは僕に手を差し出した。
「大学デビューを失敗したぼっち同士、これからよろしく頼むぞ。紅」
「……はい」
どうやら僕たちの付き合いは明日からも続くらしい。
それは僕の作戦の失敗に近づくことのはずなのに、不思議と悪い気はしなかった。
***
ご飯を食べ終えて、なんとなく買ってみた六つの円錐台のアイスに手を付けるころには、学食の席に空きができ始めていた。昼食を終えた人からサークルに向かったのだろう。僕はともかくククルも急ぐ様子がないので、どうやら彼女もサークルに入っていないようだ。
「そういえば、ククル……は、実験のグループはどっちなの?」
「名前でわかるじゃろ。Aじゃ」
「あ、やっぱりそうなんだ。本名知らないから自信がなくて」
「本名とはなんじゃ、本名とは。妾はククル・フェルネスタ、吸血鬼じゃぞ」
二限目が始まる前に散々聞いた自己紹介を、フンと鼻を鳴らしながら再び口にする。ここまで自信満々に吸血鬼と繰り返されると、本当にそうなのではないかと思えてしまう。たとえそうではなかったとしても、いっそ清々しくてその設定に付き合ってしまいそうだ。
「ま、まぁ‥…他の名前がないこともないがの」
「え?」
さっきまでの勢いはどこに行ったのか、やたらしおらしくボソッと付け加えるククルに、素っ頓狂な声が漏れ出た。やっぱりあるんじゃないか、本当の名前が。
「これからよろしく」とあいさつを交わした以上、最低限のククルの情報ぐらいは知っておきたいものだけれど、今の僕は彼女が“ククル・フェルネスタという名前を自称している”ことと“吸血鬼を自称している”ことしか知らない。複雑な家庭事情で名乗りたくないというわけではないのなら、ぜひ彼女の名前を聞きたいところだ。
「教えていただいても?」
「……嫌じゃ」
「それじゃあ来週の専門のとき、出席で返事するところ見てるしかないか……どうせ僕の番はすぐに来て暇だし」
「や、やめんか恥ずかしい!」
ククルはガタッと席を揺らすと、すぐに咳払いをしながら静かに座りなおした。
彼女はしばらくアイスを食べる手を止めたあと、僕を上目遣いで覗き込む。
「こ、こう?」
「なに?」
「名前……き、……ききたい?」
「え……う、うん……教えてくれるなら」
少しだけ大きな耳と白い頬が赤く染まり、手でもじもじとしながら僕に問いかける。さっきまでのようなにらみを利かせるような表情でも、ふてくされたような表情でも、自信満々な表情でもない、恥ずかしさが前面に出ている表情で、ククルは僕を見つめる。
――ドクン。
心臓の音が鳴り始める。僕の人生で最も大きな音と速さで。
――待て。待て待て。とても大変なことになってしまった。とても大変なことに気づいてしまった。
もしかしなくても、僕はククルのことを、とてつもないほどに――かわいいと思ってしまっている。
今朝初めて見た時からかわいい人だとは思っていた。クラロリなところも、小さくて整った顔も、小柄なところも、かわいいとは思っていた。ただし、それはアイドルのことをかわいいと思うのと同じように、誰にでも抱く感情の一つのはずだった。
それが、今はどうだろうか。僕のために恥ずかしさをこらえながら話そうとしてくれているところを見て、僕はククル自身をかわいすぎてたまらない存在のように思ってしまっている。
僕は女性経験に乏しい。けれど、今の僕の状態を表す言葉なら知っている。これは間違いなく、ひとめ――
「こ、これからもククルと呼んでくれるなら……教えてやってもよい」
「う、うん……約束、約束する」
「そこまで言うなら、し、仕方がないの」
――だめだ。それ以上を理解してはいけない。僕は“充実したキャンパスライフ作戦”を成功させて、友達をたくさん作って、楽しい大学生活を送らなければいけないのだ。ククルのような人と付き合い続けることは、僕の友達を増やす機会を失わせかねない。彼女とは距離を取るべきなのだ。
今朝からククルのことが気になってしまっていた理由は分かった。それが分かったとして、その心のとおりに動くべきではない理由だってある。今後を考えた時に、優先すべきことを間違えてはいけない。分かっている。分かっているはずなのに――僕はククルのことが知りたくてたまらない。
「……やし、くくる」
「やし?」
「こ……こばやし……小林來久瑠、それが妾の名じゃっ!」
ククルは顔を真っ赤にしながらキッと僕を睨みつける。
コロコロと変わる表情もククルの魅力の一つなのだろう。僕は彼女の一面を知ることができたのが嬉しくて、柄にもなく顔をほころばせてしまった。
「かわいい名前だね」
「バカにしとるじゃろ!だから言いたくなかったのじゃ!」
「そんなことないって!ほんとにそう思ったの!」
「どうじゃろな、名前聞いて笑っておったではないか」
「それはククルがかわいかったから!」
「かっ……!妾がかわいいのは当然じゃろ!」
僕の渾身の本音もサラッと流されて、ククルは腕を組みながらプイッと顔を背ける。僕からしたら「ククル・フェルネスタ、吸血鬼じゃ!」と名乗る方がよっぽど恥ずかしいと思うのだけれど、きっとククルは吸血鬼だから価値観が違うのだろう。そういうことにしておこう。
***
アイスも食べ終えて一息ついた後、ククルは「ところで――」と話を切り出した。
「おぬし、このあと暇か?」
「……いや、水曜と土曜にバイト入れてるから」
バイトは夜から入っているから、嘘ではない。「このあと」という意味では嘘になるかもしれないけれど、今からククルに付き合えるだけの気力はなかった。
これ以上ククルと一緒にいたら、僕の“充実したキャンパスライフ作戦”を実行するという決意が揺らぎかねない。とりあえず、一度心の中を整理したいのだ。時間を置けば、僕の気持ちと折り合いをつけたうえで彼女と距離を取る方法だって思いつくかもしれない。
「そうか。じゃ、明日は木曜じゃから空いとるわけじゃ」
「あっ」
――僕のアホ!余計な情報を出すんじゃない!
「ま、まぁ、ヘルプとかが入らなければ……」
「さすがに昼から入るわけではなかろう?」
「それは、……うん、多分」
――諦めるなよ僕!もっと頑張れよ!
「なら決まりじゃ。紅、明日の十一時に学食の前に集合じゃ。おぬしに紹介したいお店があっての。ついでに飯も食べるから、お腹は空かせておくのじゃぞ」
「えっ、ちょ……」
「……嫌、じゃったかの」
――そんな目で見られたら断れないだろ!
「だ、大丈夫。十一時ね、分かった」
「よかった!ありがと、紅!」
口八丁な人が羨ましい。相手を傷つけずにひらりとかわすことができる会話術というのは、鍛えて手に入るものなのだろうか。仮に手に入ったとして、口下手でボキャ貧な僕が習得するころには、寿命が尽きていそうだ。
それにしても、ククルに対する僕の気持ちと、作戦を成功させたい僕の気持ち――今日だけで解決策が見つかるといいのだけれど。
「……はぁ」
「なんじゃ、……やっぱり嫌じゃったか?」
「違うよ……バイトが億劫なだけ」
「それは……妾にはどうしようもできぬな。明日を楽しみに頑張るとよい」
「そうさせてもらうよ」
半ば強制的に交わされた明日の約束。今思えば、人生初の女性との外出でもある。そうなると、僕の気持ちと作戦の折り合いのほかにも、考えることがたくさんあるのは言うまでもない。
――今日のバイトは一段と身が入らなさそうだ。




