第四十五話 吸血鬼は知らない苦悩
居室の電気が消えて、バタンと扉が閉まる音が響いた。ククルが帰ったのだろう。
いつもはどんなに機嫌が悪くても一言「帰る」と伝えに来る彼女が、今日は声をかけずに帰ってしまった。よっぽど今日の話が堪えたとみえる。そして、それほどまでに、彼女にとって伊藤紅という存在が特別なのだとも。
「あれで気がないは無理があるよねぇ、まったく」
ククルに伝えた別支部で起きた襲撃の話。
やつらは『次元門事件』の残党。機関の話によると、あの事件以降見つけることができた芽は潰してきたけれど、それでも潰しきれなかった生き残りが結束したのだという。
おそらく、彼らを取りまとめる指導者が誕生したのだろう。そうでもないと、あの未知の力に飢えた連中がまとまるはずがない。
前例がある以上、今後うちが狙われる可能性もあるし、一般人に手を出す作戦に踏み切る可能性もある。ただ、これは可能性の話だ。本当に起きるかは分からないし、向こう数週間で起きるようなことでもない。
連中からすると、私たちと彼らしか知らない未知の力の存在を広めたくはないはずだ。
情報が広まるということは、それだけライバルが増えるということ。
アングラに生きている連中が今から組織として力を持つことは難しいから、そのリスクを孕む一般人を巻き込む作戦は簡単には実行できない。するにしても、入念な準備の時間が必要のはずだ。
それに、連中がまとまったからといって、現時点で私たちと全面戦争をできるほどの戦力があるわけではないのは、先の襲撃で把握した。
今すぐどうこうしなければいけない問題ではないのだ。だから、ククルには結論を急いでほしくはなかったのだけれど――
「絆されてるのは私の方かもねぇ」
ククルの担当を任されて数年。軽口を言い合えるほど距離が縮まった彼女のことを妹のように思ってしまうときがある。
特務機関に所属する者としてあるまじき感情だ。幸い彼女は研究対象だから、彼女に優しさを注ぐ分には問題ないのが救いだろうか。その優しさが伝わっているかは置いておくとして。
スマートフォンをスワイプして、電話帳から「來瑠美」という名前をタップする。彼女と電話をするのは久しぶりだけれど、これも私なりの『優しさ』というやつだ。
『もしもし~?』
「やぁ、クルミ。相変わらず間の抜けた声だねぇ」
『久しぶりに電話してきたと思ったら嫌味?切ってもいいかしら?』
「いやぁごめんごめん。キミに伝えておきたいことがあるんだよ、付き合ってくれ」
『はぁ……で、なにかしら?』
「キミの娘が今帰ったよ」
『あら、ありがとう。他には?』
「他の支部で起きた襲撃の話、聞いてるかい?」
『えぇ、一応。旦那が『こっちから攻めればいい』って言いだして大変だったわよ、もう』
「アハハ!頼もしいねぇ!そういう作戦が出たときはぜひお願いするよ」
『それで、その話がどうかしたの?』
「キミの娘に伝えた。そうしたら、後ろ向きに覚悟が決まってしまったみたいでねぇ」
『……そう。なんとなく、そうなる気はしていたわ』
電話から響く声のトーンが落ちた。特に驚く様子もなく冷静でありながら、不安と心配が入り混じった、親にしかできない声色だ。
「あの子に仲の良い友人がいるのは知っているかい?」
『えぇ、名前までは教えてくれなかったけれど。男の子と聞いたときは驚いたわ』
「彼女はその彼と距離を取るつもりらしい。襲撃にも、私たちにも巻き込みたくないんだってさ」
『あの子にできると思えないけれど……』
「それには私も同感だねぇ。ただ、それでもやるみたいだよ。おかげで表情が曇りっぱなしさ」
『……なるほど、そういうことね。ありがとう、レイ』
「どういたしまして」
きっとククルが家に着くころには、暖かいご飯が食卓に並んでいることだろう。羨ましいったらありゃしない。
「キミの旦那に勝手に動かれると困るから、しっかり手綱を握っといてくれよ」
『人の旦那を猛獣みたいに言わないでちょうだい?たしかにちょっと血の気は多いけど、親バカなだけなんだから』
「だから余計に怖いのさ」
ククルのメンタルケアと親バカのけん制をお願いして、電話を切る。クルミのあの様子なら、ククルも今日のところは大丈夫だろう。
次は自分のことを考えなければ。
「私はただの研究者だってのに、まったく」
気晴らしに甘栗を食べようとしたのに、ポケットの中は空。そういえば、さっきククルにあげたものが最後だった。
代わりの甘味として、デスクに余らせていたチョコを口に放り込む。気晴らしにはならなかったけれど、思考の海に潜るには十分な糖分だ。
私が今やらなければならないのは、起こりうる襲撃の予想と対策だ。
もし襲撃が起きたとき、私たちの負け筋があるとすれば、やはり一般人が絡んだ場合だろう。正直、それ以外はどうとでもなる。
連中が一般人に手を出すことにリスクを抱えている以上、実行するにしても人選は慎重に行うはずだ。
例えば、同学年の上之郷谷俊と日下部香。
彼らは、ククルにとって伊藤紅と同様に友人と呼べる存在だ。その一方で、サークルに所属していたり、交際をしていたりすることもあって、彼らは彼ら自身の時間を大切にしている。伊藤紅ほどの付き合いもなければ、ククルの秘密に近づいてもいないのが現状だ。二十四時間監視をつけるほどではないだろう。
二つ上の学年の春風桃花、斎夏萩、秋峰心葉、冬崎瑠深の四人もククルと交流がある。
彼女らは賽岐祭をきっかけにククルとバンドを組み、ククルをかわいがってくれている。学年が離れている彼女たちとククルが顔を合わせる機会はバンドで演奏するときぐらいなもので、彼女たちの研究が本格的に始まってからというもの、それも薄くなってきている。顔を合わせるにしても場所は喫茶ピアノフォルテだから、マスターとナナの目が光っている限り、問題ないだろう。
となると、真っ先に候補に挙がるのは――
「まぁ、伊藤くんだろうねぇ」
連中が次に襲撃する対象をククルとした場合、必ず伊藤紅という存在が同時に目に入る。
彼は先輩たちと違って、喫茶ピアノフォルテ以外に大学構内、外食、移動時間までもククルと同じ時間を共有し、なんなら自宅にまであげている。彼が私たちの弱点だと気づくのに、さほど時間はかからないだろう。
ククルは今から伊藤紅と距離をとることで、彼を巻き込まないようにしようと考えている。本当に距離を取れるのなら有効だろうが、残念ながらそれは難しいと思う。
まず、クルミの言うとおり、ククル自身の気持ちの問題がある。それが大きな理由の一つであることに違いはないけれど、私が思うに、それだけではない。
伊藤紅の方が、ククル以上にそれを良しとしない。
彼はククルのことをよく考えている。自分のことよりも、ククルがどう思うかを真っ先に考えている。
自分の恋情に蓋をしてまでそう考える彼のことだ。ククルが距離を取り始めたとき、彼女のその行動の真意を確かめようとするだろう。それが不本意なら、それをなんとかできないかとも考え始めるはず。
ククルが距離を取ろうとするほど、伊藤紅は距離を詰める。だから、ククルの作戦は失敗する。
ククルは勝手に辛い思いをして、伊藤紅は覚悟を決めてククルの秘密に踏み込んでくる。それなら、最初から伊藤紅を私たちに引き込んだ方が早いと思うのだけれど、ククルは「やめろ」と言った。
彼女の怒りを買うことは、今後の研究にも影響が出るし、私としても気持ちのいいものではない。
「しばらくは監視、あとは有事に動ける部隊の配備、か」
ククルの作戦が失敗する以上、連中が一般人を巻き込む作戦を企てた時点で、少なからず伊藤紅は私たちの関係者になる。遅かれ早かれ関係者になる彼に私たちから接触できないというのなら、彼が私たちに会いに来ることを待つしかない。彼の意志で私たちに加われば、ククルもそれ以上追及することはできないはずだ。
ククルには何度も辛い思いをさせてしまうけれど、彼女の失敗する作戦を利用させてもらう。現状、それが最も被害の少ない方法だから。
「むしろ、これを機に仲が深まるかもしれないしねぇ」
伊藤紅がククルの秘密を知れば、ククルが彼から距離を取る理由はなくなるし、彼への想いを隠す必要もなくなる。彼女の想いを知れば、彼も自分の想いを隠さなくて済む。はれて相思相愛というわけだ。
彼は一般人でいられなくなるけれど、「ククルのためなら」と受け入れるだろう。彼のひたむきな誠実さを、私は評価している。
「襲撃が先か、彼が秘密を知るのが先か」
もちろん、後者の方がハッピーエンドだ。
「期待しているよ、伊藤紅くん」
頭の中で方針が決まった。とはいえ、残念ながらそれだけでは私の仕事は終わらない。
甘栗の代わりにチョコをもう一つ口に投げ込む。物足りない気持ちは拭えないけれど、思い描いたハッピーエンドを形にできるなら、これぐらいは妥協できる。
それはそれとして、今日の帰りに甘栗は買いだめておこう。明日からまた忙しくなりそうだし。
まったく、私はただの研究者だってのに。




