第四十二話 吸血鬼はへんたいじゃない
二限が終わったあと、僕とククルは学食へ駆け込んだ。存在感を放つククルの姿は相変わらず席取りに一役買っていて、待ち時間は注文の待機列だけだった。
そのあと、ククルは僕に車の鍵を預けるなり「着替えてくる」と言い残して、五十川研の居室へ行ってしまった。車の鍵を受け取ったからといって、勝手に入るのもどうかと思うし、ましてやエンジンをかけるなんて僕にはできない。僕が車の横で待っていると、以前僕が「他の人に見せたくない」と口を滑らせた服に着替えてきたククルがやってきた。
「まったく、紅らしいというか」
「自分でもそう思う」
鍵を返して、肩でため息をついたククルと共に車に乗り込む。そうして僕たちは約束通り、僕の家までやってきたのだった。
***
「ごめん、少し待ってて」
「あいあい」
玄関にククルを待たせて、一人我が家に入る。昨日帰宅したあとに掃除はしたから、特段汚いところはないし、散らかってもいない。それでも、念のための確認だ。
「お待たせ」
「おじゃましまーす」
ククルを我が家に招き入れるのは三回目だ。こんなにも頻繁に訪れることになるなんて、誰が想像しただろうか。――いや、むしろそれが普通の大学生なのかもしれない。
『下宿の友達の家がたまり場になる』。
自分には縁がないと思っていたけれど、よく聞く話ではある。たぶん、僕は楽しい大学生活を着々と歩めている。それもこれも、ここにいる小さな吸血鬼のおかげだ。
「どうしたのじゃ?」
「……なんでも。座椅子、使って。服焦がさないようにね」
「大丈夫じゃ。おぬしが独占したがってた短めのやつ選んできたからの」
「い、言い方!」
「あっはは!」
僕がこたつの電源を入れると、ククルは嬉々としてこたつにもぐりこんだ。そして「冷たい」と一言。そりゃそうだ、電源を入れたばかりなのだから。
一人台所に戻って、二人分のマグカップを用意する。ククルのために買ったこのマグカップも、まさかこんなに活躍するなんて。
「ククルはなに飲む?」
「あったかいのならなんでも」
「ちょっとまってね――」
お湯を沸かしながら、棚を開く。ホットで飲めそうなのは、インスタントコーヒーに紅茶、緑茶ぐらいだ。インスタントでなくともコーヒー豆を挽いて淹れることはできるけれど、今から勉強を始めて少なからず冷めることを思うと、個人的には飲むにしても勉強の後が良い。
「紅茶でいい?」
「よいぞ~」
こたつの中が温まってきたのか、ククルから気の抜けた返事が返ってきた。その表情はすっかり緩み切っていて、それはもうふにゃふにゃだ。
まったく、この調子で本当に勉強ができるのだろうか。僕は教えてもらう立場なのだけれど。
「なにをニヤついとるのじゃ」
「いや、だらしない顔してるなって」
「乙女にかける言葉ではないの」
そう言いながらも、表情を戻そうとはしない。すっかりこたつの魔力にやられてしまっている。「ごめん」と軽く謝る僕の声も、彼女に届いているのかどうか。
そんなやり取りをしている間に、電気ケトルから「カチッ」という音が鳴った。さっそくお湯をマグカップに少量注いで、それを捨てたあとに、もう一度注ぐ。ゆっくりと紅茶のティーバッグをくぐらせて、少し蒸らしたあと、すぐに上げる。一度出したティーバッグはもう一つのマグカップに入れて、雑にお湯を注いだ。
「お待たせ」
「ありがと」
鮮やかで綺麗なオレンジ色と靄がかった薄い黄色から湯気が立ち昇る。それらをこぼさないように、筆記用具を机に広げて、僕もこたつに足を突っ込んだ。
僕がこたつの魔力にやられないようにすれば、明日のテストはなんとかなるはずだ。
「それじゃ、ククル先生。よろしくお願いします」
「そういえばそういう話だったの」
「……お願いしますね?」
一抹の不安を抱えながら、僕はシャーペンを手に取った。
***
「これぐらいでよいじゃろ」
「ふぅ」と息を吐きながら腕を伸ばすと、身体のあちこちからポキポキと音が鳴った。シャーペンを置いて外を見ると、十七時台だというのにすっかり真っ暗だ。こうも日の入りが日に日に早くなっているのを体感すると、年の瀬が近づいてきたと思ってしまう。少し気が早いかもしれないけれど、これもまた相対性理論というやつだ。毎日が充実している証明に他ならない。
「メモの持ち込みはできるし、この調子ならひどい結果にはならぬじゃろ。テンパってド忘れしたら話は別じゃが」
「怖いこと言わないでよ……」
今日の勉強は、ククルがタイムキーパーをしてくれたおかげで計画的に進めることができた。
まずは一通り問題を解く、間違えたところを見なおす、休憩。もう一度解きなおす、間違えた問題をまとめる、休憩。過去問を解く、見直す、休憩。過去問を解く、まとめる、休憩。
僕が練習問題を解いている間にククルが過去問の回答と傾向をまとめてくれていたから、僕が過去問に入ったあともスムーズに勉強を進めることができた。ククル様様だ。
「あとは過去問を一通り眺めてから寝れば完璧じゃな。徹夜して勉強しようなどと考えるでないぞ?」
「ククルが言うなら、そうする。すごく不安だけど」
「ほんと、おぬしは自分に自信がなさすぎるのが問題じゃな」
「こればっかりは僕の性格が悪いかな」
こたつから足を引き抜いて、カーテンを閉める。こたつの魔力に負ける前に体を動かせてよかった。
「そうだ。コーヒー、飲む?」
「嬉しいけど……疲れておらぬか?」
「大丈夫。お礼もしなきゃだし」
「このうえないお礼じゃ。受け取ろうかの」
立ち上がったついでに、コーヒーを淹れる準備を始める。どうせ飲むなら勉強を終えてからと思っていたし、そもそもコーヒーを淹れること自体ククルのために始めたことだ。ククルがいるときに振舞わずして、いつ振舞うというのか。
「紅、わがままを言ってよいかの?」
台所で準備を進める僕に、ククルがこたつに入ったまま僕に声をかけた。
「なに?」
「その……妾もやってみたい」
ククルの視線が手元にあることに気づいて、指をさす。
「……これを?」
「うむ」
「別にいいけど……」
ククルがコーヒーを好きなのは知っていたけれど、淹れる方にも興味があるのだろうか。
僕が了承すると、ククルは花を咲かせたようにパーッと表情を明るくした。
「おぬしが淹れるところを見るのも好きじゃが、なにやっとるのかも気になっての。一回さわってみたかったのじゃ!」
「そうだったんだ。知らなかった」
「初めて言ったからの」
「それなら」と、僕は器具や豆、マグカップをこたつまで持っていく。ククルに机を片付けてもらって、それらを並べた。
――もしかして、今までもこっちでやった方が良かったのでは?台所よりも作業がしやすいイメージしかわかない。どうしてわざわざ狭い空間でやっていたのだろう。
「じゃあさっそく、豆を挽くところからやろう」
「了解じゃ。よろしくの、紅先生」
「やめてよ……」
「仕返しじゃ」
悪戯に笑いながら、ククルは僕からミルを受け取った。
ククルはミルにコーヒー豆を入れて、小さな白い手でハンドルを握る。同じミルのはずなのに、僕が持ったときよりも大きく見える。それだけ僕とククルには体格差があるというのに、彼女は抵抗なんてまったく感じさせずにスルスルとハンドルを回し始めた。音はゴリゴリと響いているから、空回りしているわけではない。ククルを前にすると、自分の筋肉にすら自信がなくなってくる。
豆の大きさを揃えたあとは、僕のアドバイス通りにドリッパーにお湯を注いで、爽やかで渋い香りを部屋中に広がらせた。
コーヒーを淹れ終わると、ククルは一杯目のコーヒーを僕の前に置いた。色も香りも、僕が淹れたものと遜色ないコーヒーだ。なんでもそつなくこなすのだから、やっぱりククルはすごい。
「ど、どうじゃろう……?」
「……あったかくて、おいしい」
「お湯で出しとるからの」
「そういう意味じゃないって……」
「ジョークじゃ」
僕の率直な感想に軽口を返したククルは、自分で淹れたコーヒーを口に運んだ。
気になっていたという豆からのドリップ。初めての経験に満足そうな表情を浮かべるかと思いきや、彼女の表情は真顔だった。
「……うむ。おいしいけど、紅には敵わんの」
「レシピ通りとはいえ、初見で同じ味を出されたら僕も喫茶店も立つ瀬がないよ。……でも、本当においしい。豆が新しかったら僕よりおいしいかも」
「それは持ち上げすぎじゃ」
ククルはやっと表情を崩して笑う。そして、「妾は紅が淹れたコーヒーが一番じゃな」と一言。その何気ない一言が、僕の体温を急上昇させた。
「そ、そうだ。お菓子、食べる?」
とっさに話題を変えて、こたつから足を引き抜く。たぶん、ククルは僕の体温に気づいていない。
「今からかの?夕飯が食べられなくなるのではないか?」
「僕はそうかもだけど、ククルはそうじゃないでしょ?」
「おおよそ乙女にかける言葉とは思えぬな」
それはそうだと自嘲気味の笑いが漏れた。今日はそんなことばっかりだ。
「ククルにしか言えないね、こんなこと」
「よそでは気を付けることじゃな」
棚を開けて、しまっていたお菓子を取り出した。このお菓子はこの辺りの地域にしか売っていないローカルなスナック菓子で、僕のお気に入りだ。
ピンク色で、中心がヘモグロビンのように凹んでいる丸い形状。凹んだ部分には酸素よろしく甘じょっぱい粉が溜まっていて、それがまたおいしい。小さいときはよく舌に凹んだ部分を乗っけて食べたものだ。
「おっ、懐かしいの~」
どうやらククルも小さいときに食べたことがあったようだ。
懐かしむのもほどほどに、ひょいっとつまみあげて、そのまま口へ放り込む。
「へぇへぇ、ひて?」
ククルに呼ばれるがまま、彼女を見る。
「……はしたない。気持ちは分かるけど」
ククルは舌を出して、そのうえに乗っけたピンクのお菓子を僕に見せつけていた。
恥じらいはないのだろうか。まぁ、今更か。
「なんじゃ、大人ぶりよって」
舌を引っ込めてシャクっと音を鳴らしたククルは、不満げに僕を見る。
「大人でしょ。成人してるんだから」
「あーやだやだ、子供の気持ちを忘れた大人」
ククルはそこまで口にしてからハッとして、ニヤリと口角をあげた。
――嫌な予感。
次の瞬間、僕の土踏まずにチョンとなにかが触れた。そしてツーっと線が走って――
――ガン!
「い゛っ!」
反射的に膝が曲がる。大きな音と共に、机が揺れた。
「あっはは!なんじゃおぬし、足の裏が弱点なのかの?あっはは!」
ククルが楽しそうに声をあげる。僕が膝をさする様子を見て、ついにはお腹を抱えて笑いはじめた。
――いいだろう。そっちがその気なら、僕だって子供になってやる。
ククルに気づかれないように、ゆっくりと脚を伸ばす。当然、僕の方が脚は長い。それを活かして、こたつのなかを制圧していく。一割、三割、――六割。
ここまで制圧すれば、ククルの座り方から彼女の足の場所はなんとなく特定できる。
「ククル?」
「な、なんじゃ?」
未だに声を上ずらせている。これからその上ずりが、悲鳴に似た笑いに変わるとも知らずに。
「あんなことしたってことは、もちろんやられる覚悟もできてるんだよね?」
「あっはは、ん、ぁえ?」
――さぁ。いつもはやられてばかりな僕の、貴重な反撃の時間だ。
まずは、やられたことの仕返しから。彼女の小さな土踏まずに、ちょんと指先で触れて、爪を立てないようにしながら、踵に向けてツーとなぞる。それだけでは終わらせない。ビクリと震えた足を追いかけて、土踏まずに大きな丸をゆっくりと優しく描く、追い打ちだ。
「っ……んっ……っ!」
――え?
僕が動揺している間に、ククルはバッと手で口を塞ぎながら、こたつから足を引き抜いた。見たこともないほどに耳を真っ赤に染めながら、過去一番にジトッとした視線を僕に向ける。
ドクンドクンと、心臓が跳ねた。
まさかあんなにも、い、色っぽい声を出されるとは思っていなかったら、油断していた。
表情には出さないように、平常心、平常心で――
「……なんだ、ククルも弱点じゃん」
ククルはなにか言いたげに僕をにらみながら、手で口を塞いだままフー、フーと息をする。
しばらくして手を下ろしたククルは、紅い月もびっくりするほど頬を染めながら、僕に言い放った。
「……へんたい」
――弁明の余地もない。女性の足の裏を責めるなんて、あらためて考えるととんでもないことだ。
それでも、それなら、僕だってククルに言ってやりたい。
「ぼ、僕が変態なら……先にやったククルも変態、だね」
「わ、妾は、へ、へんたいじゃ……な、ない、もん」
ククルは僕から顔をそらして、真っ赤に染まった耳を僕に向ける。珍しくククルに僕のカウンターが決まった瞬間だった。
――あぁ、これが勉強合間の休憩中じゃなくてよかった。もしそうだったら、僕は間違いなく勉強に集中できなかっただろう。




