第四十一話 吸血鬼は約束させたい
「めずらしくおぬしから連絡してきたかと思えば……」
「ご、ごめん……こんなこと頼めるの、ククルしかいなくて……」
「……ふ、ふんっ」
月曜日の三限終わり。僕たちは今、喫茶ピアノフォルテにいる。なぜこんな微妙な時間に来ているのかというと、ククルに勉強を教えてもらうためだ。
先週、シュンくんと日下部さんとククルの四人でご飯を食べにいった。そこでシュンくんたちの嬉しい報告を聞いて、幸せな気持ちになったまではよかったものの、最後の日下部さんの一言で現実に引き戻されてしまった。
『――来週物理の小テストあったよね。大丈夫そう?』
僕は物理が苦手だ。授業中に練習問題が解き終わらないほど、それはもう苦手だ。苦手過ぎて、ここでククルに教えてもらったこともあったほどだ。そのときに「できればテストのときも」とお願いをしたら、ククルがため息交じりに了承してくれたことを思い出して、今回恥を忍んでククルに連絡をしたのだ。
シュンくんたちはあのあと僕たちに過去問の写真を送ってくれた。小テストとはいえ、試験は試験。レポートなどがない代わりに試験の結果は単位に直結するから、僕とククルの人脈では得られない過去問をもらえるのはありがたかった。
とはいうものの、土日を挟んでなお、その過去問には手をつけられていない。テキストの練習問題すら解き終わっていないからだ。
「……おぬし、物理と実験だけはほんとヘタレじゃな」
「……返す言葉もない」
お願いして教えてもらう立場である今の僕は、ククル大先生に歯向かうことはできない。それでも、現在進行形で情けない姿を晒しているというのに、心のどこかで見栄を張りたい気持ちがある。好きな人の前では格好つけたいという男心は、どうやら僕にもあるらしい。今更すぎるけれど、これ以上ヘタレと思われたくはない。
「あ、違う。前のページに書いてあったじゃろ」
「え、あ、本当だ」
「……もう」
湯気が立ち上るコーヒーを、ククルは静かに啜る。このままいくと、僕はアイスコーヒーを飲むことになりそうだ。
***
「よし。紅、休憩じゃ」
「え、もう?」
「『もう?』?既に一時間もやっておるぞ」
ククルは立ち上がって大きな伸びをした。スマホに目をやると、ククルの言うとおり、きっちり一時間が経過して十六時を回っていた。
喫茶ピアノフォルテを自由に使えるのは十七時までという約束だ。あと一時間しかないなら、休憩している余裕はない――と思うけれど、それを口に出すことは憚られた。
「不満そうじゃな」
「なにも言ってないよ」
「顔に出ておる」
僕に指をさしながら眉をしかめるククル。彼女はなんでもお見通しらしい。
「知っておるか、紅。人間の集中力は数十分しか持たぬのじゃ」
「らしいね」
「なら、短期集中を繰り返した方が、効率が良いと思わぬか?少なくとも妾はそうやって勉強をしておる」
ククルはなにをやってもそつなくこなすから、きっと地頭が良い。もし彼女がそれだけでやってきた人なら、僕は今の言葉を「天才の言うことだ」と一蹴したかもしれない。
でも、ククルがそういう人ではないことを僕は知っている。賽岐祭のために何回も何回も重ねていた練習がその証明だ。努力の方法も、努力の重要性も知っていて、それを泥臭く続けることができる人なのだ。
きっと、勉強もそうやって繰り返してきたのだろう。彼女の頭が良いのは、すぐに身につくからではない。すぐに身につくように努力をしているからだ。
「……一理ある。僕もそうした方がいいのかな」
「少なくとも、一夜漬けよりは賢い選択じゃ」
「ごもっともで」
僕も席を立って体を伸ばした。バキバキと関節が鳴る。座りっぱなしの状態が身体に与える影響を考えても、たしかに適度な休憩は必要だ。
ホットにもアイスにもなれなかったコーヒーに口をつける。おいしいけれど、おいしさの頂点は逃していた。これからはもう少し休憩を挟もう。
「……懐かしいの。まだひと月しか経っておらぬのに」
ククルが呟いた。視線の先にあるのは、ステージに鎮座しているグランドピアノ。
「あのとき、おぬしが『本気の演奏を聴いてみたい』と言わなかったら……きっと今の妾はなかったじゃろうな」
しみじみと、感慨深げに、遠い昔のことのように思いを馳せる。
思えば、あれがククルにお願いした初めての僕の我儘かもしれない。あの一言から僕の気持ちがここまで育ったのだと思うと、僕も人のことを言えない気持ちになった。
「紅、妾の演奏のどんなところが好き?」
好きであることが当然かのように、僕に尋ねる。そこにからかうような意図はまったくなく、純粋な興味からの質問だった。
「えっと、言葉にするのは難しいんだけど……」
好きでなければ「本気の演奏を聴いてみたい」なんて口にするわけがないし、本気の演奏を聴いて涙を流すわけもない。
「……技術的なことは分からないから置いといて。なんだろう、全力なところ、というか……一番良いものを届けようとしてくれるところ、というか……」
ミスをミスと気づかせない技法。そもそもミスをしないように重ねる練習。僕のために本番直前にセトリの曲を差し替えて、それを本番で成功させるメンタル。
全部本気じゃないとできないことだ。本気で、全力で取り組んでいるから、取り組んでいることが分かるから、僕はククルの演奏が好きで、心を打たれた。
これを一言で表すなら――
「……気持ちがこもっているところ、かな」
「あっはは!妾はおぬしのその真面目で正直なところが好きじゃ」
しっとりと、嬉しそうに笑う。そして「ありがと。嬉しい」と一言。
『想いは言葉にしないと伝わらない』とはよく言ったものだ。ククルは音楽で気持ちを伝えられるけれど、あらためて言葉で気持ちを伝えられると、なんというか、感じ方が違う。付き動かされるような感じではなく、こう、じわじわと胸が温かくなるような。
残念ながら、僕はククルのように音楽で気持ちを伝えることはできない。僕が使える手段は言葉だけだ。
ククルが好きだと言ってくれた「真面目で正直な」言葉を、これからもククルには届けたいもの――だけれど、『正直』、か。ククルの前でこの気持ちに正直になれる日は来るのだろうか。
「おぬしにまた褒めてもらいたいし、ピアノを練習するのもありじゃな」
「ドラムは?」
「もちろん続ける。じゃが、先輩方は本格的に研究が始まってしまったし、定演もあるからの。定演が終われば次は就活じゃ。次、賽岐祭みたいに気合を入れてみんなで練習できるのは、来年の夏ぐらいになりそうかの」
「そうなんだ……」
「軽くセッションぐらいはする予定じゃ。ここで演奏させてもらえることにもなったしの。そのときはおぬしも呼んでやる」
「楽しみにしてる。たぶん、ククルが思っている以上に、僕はククルのファンだから」
「あっはは!あいかわらず嬉しいことばかり言ってくれるの!」
今度は元気よく笑う。笑うだけでも、ククルにはいろんな表情がある。ククルに限っては、言葉や音楽よりもよっぽどこっちの方が想いは伝わりそうだ。
「盛り上がっているところ、失礼します」
カウンターから声をかけられた。マスターだ。
もしかして、今までの会話をすべて聞かれていたのだろうか。マスターに対しては今更ではあるけれど、それでもククル以外に正直な気持ちを聞かれるのは恥ずかしい。
顔が熱い。次からは、ククルにねだられても周りに人がいないかを確認してから口に出そう。
「お節介だとは思うのですが――」
マスターは申し訳なさそうに眉を下げながら、口を開く。
その言葉一つで、僕の密かな決意と熱はサーッと引いていってしまった。
「――お二人とも、勉強はよろしかったので?」
「あっ」
まずい。まだ小テストの範囲すべてをさらえてすらいない。今から手を付けたとして、集中し始める頃にはタイムリミットである十七時を回ってしまいそうだ。
『短期集中を繰り返す』ってククルは言ったけれど――実はククルにもできていないのでは?それとも、僕のオンオフのスイッチが緩いだけ?
「まぁ、見とる感じなんとかなるじゃろ。メモの持ち込みもできるし。おぬしは自分に自信がなさすぎるだけじゃ」
「いやいやいや、いやいやいやいや」
それよりも、今は明後日のテストを乗り越える方法を探さないと。ククルはこんなこと言っているけれど、まだ過去問にすら手をつけられていないのだ。今日できないなら、明日やるしかない。
過去問の回答は――やっぱりククルに聞くしかない。明日空いているだろうか。空いていたとして、どこで勉強する?ここだと今日みたいになりかねないし、マスターにまた迷惑をかけてしまいそうだ。
「……明日、空いてる?」
「午後からはの。明日もマンツーマンの授業かや?妾は一向に構わぬが、おぬしは妾の時間を奪う代わりに、なにを約束してくれるのじゃ?」
ニヤニヤと口角をあげる。主導権を握ったときの表情だ。
ククルのことだから、なんやかんや来てくれるはずだ。それでも、お願いする立場である以上、誠意は見せないといけない。一方的に貰ってばかりでいるほど、僕は腐ってはいない。
かくなるうえは――
「……こたつ」
「ぁえ?」
「こたつを、出した」
対ククル用の切り札『こたつ』。
彼女がこたつにただならぬ想いを寄せていることは、先週知ったばかりだ。本当は定期試験だとか、年末年始前後の実験レポートだとか、ク、ククルに会いたくなったとき、とか――そういうときに使う『必殺の切り札』として残しておきたかったのだけれど、こうなってしまっては背に腹は代えられない。
とはいえ、本当に効くかは分からない。彼女の中でこたつがどれほど優先される存在なのかが、正確には分からないからだ。「こたつを出したらすぐに報告しろ」と言うぐらいだから、楽しみにしているのは間違いないのだけれど――
「よし、明日は紅の家で勉強会じゃ」
「……まじか」
「楽しみじゃな~!なに着てこう?なに着てほしい?」
「こたつで燃えたり熱で変な跡がついたりしなければ、なんでも」
「りょーかいじゃ!」
上機嫌になったククルは、ふんふんと鼻歌まで歌い出した。まさかここまでだとは。こんなに喜んでくれる人を相手に隠そうとしていたのは、少し嫌らしすぎたかもしれない。僕の人間性の程度が測られる。
ともあれ、約束を取り付けることには成功した。こたつに夢中になりすぎないかが心配だけれど、所詮こたつはこたつ。ゲームなどの娯楽とは違って、ただの家具であるこたつだけで何時間もつぶれることはないだろう。どちらかといえば、こたつの魔力にやられたククルが夜まで居座ろうとしないかの方が心配だ。
「んじゃ、明日おぬしは歩いてくるのじゃぞ」
「え、なんで?」
「妾が車で行くからじゃ。二限が終わったら駐車場で集合じゃ」
「お昼はどうする?」
「おぬしの家はどうじゃ?」
「家に呼ぶ予定なかったから、冷蔵庫になんにもないかも」
「帰り道にスーパー寄るかや?車じゃから買い物も楽じゃろ」
「申し訳ないからいいよ。学食かどっかで軽く済ませよう」
「む。仕方ないの」
ククルは不服そうに口を尖らせながら、渋々了解した。
僕の家で食べることになったら、前みたいなことが起きないとも限らない。明日はあくまで勉強。勉強以外のことで心を乱されてはいけない。
――とりあえず、帰ったら掃除機をかけよう。




