第三十九話 吸血鬼はあしらいたい
着替えを終えたククルの許可を得て、あらためて居室に入る。なぜか五十川教授も研究室には戻らず、僕についてきた。教授はまっすぐにひじ掛けのついた椅子へ向かい、ドサっと座り込むなり足を組む。僕はククルに案内されるがままに、キャスター付きの椅子に座った。
あらためて部屋を見渡す。家具、家電、環境、あらゆる面から生活感にあふれている。なんなら、僕の家よりも快適に過ごせるかもしれない。布団さえあれば、暮らすこともできそうだ。
「紅、なに飲みたい?」
ククルの声を背中に受けて振り返ると、ククルは棚からマグカップを取り出していた。
僕が選んだ二着の内、ククルが今日の分として選んだのは膝上丈のワンピースの方だった。
ククルにしては短めの丈の服。ただでさえ素足は見慣れていないというのに、中腰で持ち上がる裾から太ももの裏側が見えて、思わず視線を落とした。
その先がドロワーズだと分かっていても、僕には刺激が強すぎる。
「紅?」
あらためて声をかけたククルは立ち上がっていて、凛としながらもかわいらしい雰囲気を僕に向けていた。
「ご、ごめん。じゃあ、コーヒーで」
「おぬしのような味は出せぬぞ?」
「インスタントで出されちゃったら僕の立つ瀬がないよ」
「それもそうじゃ」
「手伝おうか?」
「いい、座っておれ。今日のおぬしは客人じゃ」
冷蔵庫から水を取り出して、ケトルで沸かす。その間に、慣れた手つきで二つのマグカップにドリッパーを取り付ける。三つ目のマグカップを抱えて歩き出したかと思えば、研究室への扉を開けて向こうへ行ってしまう。扉の向こうからは、ジャーという水を流す音。そして、戻ってきたククルは、手に抱えた三つ目のマグカップを五十川教授の前にドンと置いた。
「意地悪はよくないなぁ」
「おぬしが先に意地悪したんじゃろが」
「なんて冷たい。冷たくて泣いちゃいそうだ」
「ちょうどよかったの。それはお湯じゃ。妾の優しさに感謝するとよい」
プイッと背を向けて、ククルはコーヒーを淹れる作業に戻る。五十川教授は顔色一つ変えず、そのお湯を口に運んだ。
仲が悪いわけでもなく、良いというわけでもない。なんというか、不思議な関係の二人だ。
「なんでおぬしがここにおるのじゃ。『今日一日不在にする』と言っとったではないか」
僕の前にコトリ、僕の隣にコトリとコーヒーを置いたククルは、僕の隣の椅子を引きながら五十川教授に不満をぶつける。
「そんなにも不満かい?」
「不満じゃ」
「どうして?」
「どうしてって、せっかく……」
そこまで話して、ククルは僕をチラリと見てから、口を閉じた。
彼女の反応で、なにを言おうとしていたのかはなんとなく分かった。ククルは新しい服を見せるとき、必ず僕に感想を求める。その感想を正直に話すのがククルとの約束で、ククルもそれを楽しみにしている。今日もそれを期待していたはずなのに、その流れが五十川教授の登場によって遮られてしまった。
教授が居ようと居まいと関係なく僕がククルに感想を伝えられればよいのだけれど、僕の気持ち的にそうはいかない。僕だって、恥ずかしいことを口にしている自覚はあるのだ。なにより、今の僕は心の準備に時間がかかる。
「私だってククルに会いたくて早く帰ってきたというのに。ひどいと思わないかい、伊藤くん?」
急に話を振られる。予想していなかったパスに、ビクッと体が震えた。「まともに相手せんでよい」と横からククル。
とはいっても、名指しで振られて相槌一つつかないのもどうかと思って、僕は当たり障りなく話を振り返した。
「ククルに会いたい、ってどういうことですか?」
「言葉通りの意味だよ。私はククルのことが好きなんだ」
「おぬしが妾に向けとるのは好意じゃなくて、好奇心じゃろ」
「アハハ!そうとも言うかもしれないね!」
高らかに笑う五十川教授と、ため息をつくククル。こんなにも心底呆れているククルを見るのは初めてだ。新しいククルの一面が見られて、こんな状況でも少し嬉しかった。
「ところで、伊藤くん」
あらためて、五十川教授が僕の名前を呼ぶ。次は何の話を振られるのかと身構える僕の前で、彼女は指を顎に当てた。そう、推理をする探偵のポーズだ。
さきほど部屋の外で同じポーズを見たときは、背筋が震えあがるような不気味な圧力を僕に向けてきた。ということは――
「キミはククルの――」
案の定、ククルの話題。そして、ゾクッと感じる悪寒。たぶん、このあと彼女にとって重要な何かを僕に問い、僕の答えによっては、僕は何かをされる。
「裸を見たことがあるかい?」
「は、はだっ、は!?」
いきなり何を言い出すんだ、この人は!?
「これは真面目な問いだよ、伊藤くん。どうなんだい?」
「な、ないない!ないです!あるわけないじゃないですか!」
「背中は?」
「ないですって!!」
「……ふむ」
僕の全力の否定を聞いて、五十川教授は探偵のポーズを解いてくれた。いったい僕の何が彼女のポーズを解かせたのかは分からない。急にこんなことを聞かれたら、誰だって同じことを言うはずだ。
というか、これは僕に対しても、ククルに対してもセクハラではないだろうか。学務に連絡すれば、逮捕まで行く案件なのではないだろうか。
僕はおそるおそるククルを見る。いくらククルが五十川教授と知り合いといっても、目の前でこんなことを言われたら黙ってはいなさそうなものだけれど――
「妾が見せるわけないじゃろ」
「でも、さっきみたいなこともあるし、伊藤くんに直接聞いた方が早いかと思ってね。彼、わかりやすいし」
「さっきはおぬしのせいじゃろ……」
「あれで釣られるかも判断材料の一つだよ」
「……度が過ぎるようなら妾も黙っておらぬからの、レイ教授」
「おぉ、こわいこわい」
思っていた以上に落ち着いている。茶化して笑う五十川教授に飽きれ混じりのため息をつくものの、それだけだ。今の質問は、ククルには予想できる範囲だったらしい。
「紅、こやつの言葉は真に受けぬ方がよい。こやつは人の気持ちなど二の次じゃ」
「なんて失礼な。私にだって人を大切に思う気持ちはある。ほら、差し入れ」
不服の意を唱えた五十川教授は、白衣の下のポケットをごそごそと漁りだす。そして、ククルに差し出したのは、むき甘栗。――むき甘栗?なぜ?
「本当は栗きんとんを買っていたのだけどね。ほら、私って栗が好きだろう?我慢できなくてね」
「おぬしの栗事情なんてどうでもよいわ」
「そんなことを言っていいのかな?手ぶらで帰るのはククルに悪いと思って、その辺の薬局でこれを買ってきたというのに。あげないよ?」
「いらぬ。おぬしのポケットから出てきたものなら余計にいらぬ」
いつも僕を振り回しているあのククルが、ずっと後手に回っている。楽しそうに笑って僕をからかうククルが、今は呆れ混じりのツッコミしかしていない。
「あ、そうだ。伊藤くん、このむき甘栗をあげるから、うちの研究室に来ないかい?」
「け、結構です……」
――なるほど。僕と会わせたくないわけだ。
「さて、そろそろ晩飯を買いに行こうかな」
五十川教授はむき甘栗を口に放り込み、容器をゴミ箱に投げ捨てながら立ち上がった。
いつの間にかブラインドカーテンの隙間には闇が広がっていて、廊下の電気も消えている。大学の中とは思えないほど居心地がいいから、時間がたっていることに気づかなかった。
ククルが立ち上がってカーテンを完全に閉める。反対側のカーテンは僕が閉めることにした。
「おぬしの大好きな見切り品が売り切れる前にさっさと行った方がよいぞ。ほら」
「少しは寂しがってくれてもいいんじゃないかい?」
「本気でそう思うなら、寂しがってくれるような存在になれるように努力すべきじゃな」
「うーん、辛辣。実にククルらしい」
ククルのチクチクに「アハハ」と笑いで返す五十川教授。彼女は白衣を着たまま、外に出る支度を始める。支度といっても、小さな鞄を肩にかけただけだ。
「それじゃあ、おじゃま虫は退散するけど……くれぐれもみだらな行為はしないように」
「せ、せぬわ!ばか!」
ククルに背中を押されながら、五十川教授は僕に「じゃあね」と手を振る。ククルが教授を追い出すと、廊下に光が灯り、しばらくコツコツという足音が響いた。
足音が消えて、廊下は再び闇に沈む。今聞こえるのは、家電の駆動音だけ。おそらく、この階には僕たちしかいない。
「はぁぁぁぁ」
沈黙を破ったのは、ククルの大きなため息だった。彼女はそのまま溶けるように机に突っ伏して、顔だけを僕に向けた。
「なんか、おつかれさま」
「おぬしに会わせたくない理由、わかったじゃろ?」
「痛いほどね。なんというか、かなり、その、特殊な人、だった」
「素直に変人と言っても、誰も怒らぬ」
疲れ切った表情をしながら、唇を尖らせる。それでも、どこかまんざらでもなさそうなのは、なんやかんや五十川教授のことを信頼しているからなのだろう。
「ねぇ、紅」
突っ伏したまま僕の名前を呼ぶ。訴えかけるような目線を僕に送ってきた。
「……まだ感想、聞いてない」
五十川教授の登場によって遮られたいつもの流れを、ククルはねだった。教授がいなければ、僕も伝えるつもりだった。ククルはこれを望むと思っていたから、ちゃんと心の準備は済ませている。
「すごく、かわいい。似合ってる」
僕の感想を聞いたククルの表情から疲れが消えて、ニッと笑顔が広がる。体を起き上がらせると、軽いステップを踏んでクルリと回った。水を得た魚というか、なんというか。
かわいいククルを見られるのは嬉しい。喜ぶククルを見られるのは嬉しい。しかし、目の前でフワッと広がるワンピースを見ていると、不安に思うこともある。
「もし、できればなんだけど……」
「なんじゃ?」
「その服は……あ、あんまり、外では着てほしくないかも」
「ぁえ?どうしてじゃ?」
「なんていうか、その……」
ククルは自分の魅力を分かっていないのか、少し危なっかしいところがある。男の僕としては、彼女の見せる“隙”が心配でしょうがない。たとえ、下にパニエやドロワーズを着ていたとしてもだ。
ただ、それを直接本人に伝えるのは、セクハラじみていて躊躇われる。ククルなら「本当に心配している」のだと汲み取ってくれそうだけれど、前に「危なっかしい」と伝えた時はピンときていなかったから、行動を改めてくれるかは分からない。
「他の人に見せたくない、というか……なんというか……」
いい感じの言葉を探した結果、独占欲丸出しのメンがヘラしている男みたいになってしまった。我ながら少し気持ち悪い。これなら正直に伝えた方がマシだったのではないだろうか。
おそるおそるククルの顔を覗き見ると、少し悩む素振りをしていた。
「……わかった。これは紅といるときだけ着ることにするのじゃ」
「えっ!?」
「『えっ!?』とはなんじゃ!おぬしがそう言ったのじゃろ!」
「そ、そうだけど……」
てっきり否定されるなり、深掘りされるなり、「気持ち悪い」と罵声を浴びせてくるなりを覚悟していたから、あまりにもすんなりと受け入れられたことに驚いてしまった。これにはククルも「へんなの」と一言。まったくその通りだ。
それにしても、「紅といるときだけ着る」か。あらためてククルの口からそんな言葉を聞いてしまうと、独占欲丸出し男の気持ちが分かってしまう。このかわいい彼女の姿を、僕だけが見られるという特別感は何にも代えがたい。
――彼女の“隙”に、僕がやられないようにしなければ。
「あの、紅?」
僕の覚悟なんて知る由もないククルは、さっきとは一転、しおらしく僕の名前を呼ぶ。僕が視線で返事をすると、ククルは切り出しづらそうにしながら、口を開いた。
「さっきはレイ教授のことを変人と言ったがの……周りから見れば、妾も大概変人じゃろ?紅に無理をさせておらぬか、と思っての」
今さらなんてことを言うのだろうか、この吸血鬼は。僕が無理をしていたのは一か月前の話で、今となっては僕が同じことをククルに聞きたいぐらいだ。
「もし無理をして付き合ってくれとるなら、妾は――」
それでもククルは話を続ける。視線を落とした彼女に、僕の表情は見えていない。
「ククル」
彼女の肩に触れる。自分の意志でククルに触れるのは――初めてかもしれない。でも、今はこうするべきだと思った。こうした方が、僕の気持ちが伝わると思った。
「無理なんかじゃないよ。僕がククルと一緒にいたいから、一緒にいる。むしろ、僕がククルに無理させてないか聞きたいぐらい」
「で、でも――」
「僕の言葉が信じられない?」
「……いんや、そうじゃったな。おぬしは素直な感想しか言わぬ」
顔をあげたククルの瞳は、うっすらと輝いていた。こんなククルは、初めてだ。
人を避けていた過去を話してくれたときだって、こんな顔はしなかった。いつも強気で、自分に芯があって、たまに照れて、呆れて――それでも、その紅い瞳を滲ませたことは一度もなかった。
初めて、ククルは僕に弱みを見せてくれた。そのきっかけは、原因は、分からない。僕に分かるわけがないのだ。なぜなら――
『彼女のことをどこまで知っているんだい?』
――僕は、ククルのことを深く知らないのだから。
「落ち着いた?」
「……すまぬ。柄にもないところを見せてしまったのじゃ。……いかんの、いつもは考えぬようにしとるのに」
「悩みがあるならいつでも聞くよ。ククルにはいつも助けられてるし」
「それには及ばぬ。……でも、ありがと」
僕が手を下ろすと、ククルは振り返りながらワンピースをふわりと揺らした。
今日のククルはかわいくて、綺麗で、でもなぜか少しだけ――儚かった。




