第三十八話 吸血鬼は選びたい
賽岐祭が終わり、構内の様子はすっかりいつもの大学へと戻った。先日の盛り上がりが嘘かのように、静寂に包まれた部屋で講義が進んでいく。いつもどおりの生活に戻っただけなのに物足りなく感じてしまうのは、それだけ賽岐祭のために過ごした半月が充実していたからなのだろう。
――木曜日。毎週のこととは思えない疲労感を覚えながら実験を終えた僕の肩を、誰かがトントンと叩いた。
「よっ!そっちも終わったか?」
「うん。ククル“様”のおかげでね」
「尻に敷かれてそうな言い方」
「そんなことない……いや、そうなのかも?どうなんだろ」
「おいおい……ま、どっちでもいいけど、明日忘れんなよ」
僕を呼んだのは、同じく実験を終えたシュンくんだった。とくに用事があるわけではなさそうで、片付けの片手間にちょっとした雑談が始まる。
「そういえば、どこ行くかは決めてるの?」
「いや?明日の気分で決めようぜ。でかい店予約するわけでもないし」
「なら私は肉がいいな。もしくはラーメンと餃子とごはん」
「奇遇じゃな、妾もじゃ」
ご飯の話になった途端、女性陣が会話に割り込んできた。彼女たちはすでに片付けを終えていて、「お前ら待ちだ」と言わんばかりの余裕を見せている。
「……お前らのどこにそんだけの量が入るんだよ」
「デリカシーなさすぎ。私だけじゃなくてククルちゃんも含めたから、さらにマイナス」
「……すんません」
尻に敷かれてそうな謝罪を口にしながら、シュンくんはリュックを担ぎ上げる。人のことを言えなさそうなところを見ると、シュンくんたちの力関係は僕たちと似ているのかもしれない。
「それじゃ、また明日な。オレたち、今日サークルに顔出すから」
「うん、また明日」
先に実験室を後にする二人を見送りながら、僕もリュックを背負う。
さて、これからどうしようか。先週までならククルの練習に付き合っていたところだけれど、目下演奏する予定もなければ音楽系のサークルに入っているわけでもないから、喫茶ピアノフォルテに行ってまで練習はしないだろう。シュンくんたちと違って僕自身に用事があるわけでもないので、時間を持て余してしまっている。
いったい今までどうやって過ごしていたのか、不思議なことにそれが思い出せない。僕の大学生活の八割はそうやって過ごしていたはずなのに。
「紅?」
時間のつぶし方を考える僕の名前をククルが呼ぶ。白衣の下から実験のときにしか見られない一般的な服装が見えた瞬間、僕の胸はドクンと高鳴った。
今までもその服装もかわいいと思っていたはずなのに、その感じ方がどこか違う。深く突き刺さるような、それでいて込み上げてくるような感じ。その理由は、先週までの僕との違いを考えればすぐに分かった。
今の僕は、服も容姿も中身も全部ひっくるめて、ククル・フェルネスタという存在が好きで、かわいいと思っている。自分の気持ちに気づかないようにするために、「僕の好きな服が似合う人」だからかわいいと思いこんでいた先週までとは違うのだ。
「……?妾の顔になにかついておるかの?」
「……いや、なんでもない」
「ふーん。へんなの」
不思議そうに首をかしげるそのしぐさに耐えられなくて、思わず自分の目を覆った。
この気持ちに気づかないふりをしていた頃の自分を演じようと決めたばかりなのに、こんなことで動揺してしまっていてはこの先が思いやられる。自分で思っている以上に、僕はククルのことが大好きなのかもしれない。
「そんなことより、このあと時間あるかの?」
「持て余してるよ。使い方が分からないくらい」
「ならよかったのじゃ。少し付き合ってくれぬか?」
「付き合うって……なにに?」
「服じゃよ、服。明日来ていく服をおぬしに選んでほしいのじゃ」
「ふ、服?どこで?どうやって?」
「覚えておらぬか?『知り合いの先生』の研究室に『何着か置かせてもらっておる』のじゃ」
ククルの言葉をヒントに記憶の糸を辿る。そういえば、ククルと初めて学生実験を行った日にそんなことを言っていた。たしかそのあと、ククルは僕に車の鍵を渡すなり、『着替えている間に車のエアコンをつけてこい』なんて無茶なお願いをしてきた。それはできないと断った僕は、彼女の着替えを一階で待つことにしたのだ。
「……あれ?その先生って、僕に会わせたくないんじゃなかったっけ」
「今日はおらぬ。じゃから、妾の秘密基地にご招待じゃ。貸し切りじゃぞ?」
僕の返事を聞く前に、ククルはスタスタと歩き出す。いつもはククルと別れるエレベーターまでやってくると、その扉はこの階にやってきた先輩と思しき人によって都合よく開かれた。ククルはそれに駆け込んでから僕を手招きして、僕も急いで乗り込んだ。
三十秒にも満たない二人だけの密室空間。後ろ隣りから、そっとククルを盗み見る。青みがかった銀髪に、丁寧に編み込まれた髪とお団子。これだけ近いと、つむじやおくれ毛もはっきり見えて、それがまたかわいらしい。
――この時間が続いてほしいと願うのは、変態すぎるだろうか。
***
「ここじゃ」
ククルが案内してくれたのは、最上階の最奥にある研究室。扉にはホワイトボードが掛けられていて、「五十川」と書かれたプレートが「不在」と書かれた枠の中に貼り付けられている。
「ご、じゅう……?」
「“いそがわ”。ここは学生ゼロ人の研究室、五十川研じゃ」
「ゼロ人……って、そんなことある?」
「まぁ、なんというか……いろいろと特殊じゃからな。とくに人柄が」
「……ほんとに大丈夫?」
「悪いやつではないことだけは確かじゃの」
ククルは最奥の扉を指さしながら「あっちが研究室」、置くから二番目にある扉を指さしながら「こっちが居室」と簡単に説明する。そして、いつの間にか取り出していた鍵を居室の鍵穴に差し込んで、まるで自分の家かのように扉をあけ放った。
「妾の秘密基地へようこそ、紅。ここを使っておるのは妾だけじゃ、存分にくつろぐとよい」
両手を広げるククルに招かれた僕は、目の前に広がる光景に目を疑った。
入り口には簡易的なげた箱が用意され、部屋一面には清潔なカーペットが敷かれている。中央には大きなテーブルと、皿に盛られた茶菓子。部屋の隅に鎮座している冷蔵庫とオーブンレンジが印象的で、その隣には食器類を片付けるための大きな棚。棚の上には、電気ケトル、炊飯器、そしてなんとコーヒーメーカーからホットプレートまで。部屋の奥を見ると、五、六着ほどのかわいらしい服が掛けられたラックと姿見があって、ぱっと見はアイドルの楽屋のようだ。研究室とつながる扉やパソコン、プリンターの類のおかげで、かろうじて居室としての体裁を保っているけれど、大学の中にあるとは到底思えない内装をしていた。
「一応補足しておくと、この居室は特別じゃからの。妾しか使っておらぬから自由がきいて、だからこその“秘密基地”なのじゃ」
口元に指をあてながら、「内緒じゃぞ?」と一言。
僕とククルしか知らない秘密基地。たとえ相手がシュンくんや冬崎先輩たちだとしても、僕がこの秘密を漏らすことはないだろう。
「――さて、この中にあるやつから着ていこうと思うのじゃが、紅はどれがいいかの?」
ククルは一着ずつ取り出して、自分の身体にあてがう。フリルを多くあしらったもの、丈が長いもの、背中が開いたドレスのようなもの――どれもこれも似合うから、すべてに見惚れてしまう。この中から一着して選べないなんて、生殺しもいいところだ。
「ど、れ、が、いいかの?」
悩んだ末に言葉が出ない僕に痺れを切らして、ククルは顔をズイッと近づける。
「ぜ、ぜんぶ……」
近づいた彼女の顔を直視できない僕は、目を逸らしながら正直にそう答えた。
呆れるようにため息をついたククルは、「そうじゃのう」と軽く唸ってから、僕の目の前に指を二本立てて見せる。
「二着じゃ」
「……二着?」
「今日と明日で二着。全部は着てやれぬから、それで我慢するのじゃ」
「え?でも今日は……」
「今から、き、着替えてやると言っておるのじゃ!はやく選ばぬか!」
「は、はい!」
急かされるがままに、僕は「これとこれ」と指をさした。一つは、いつものククルを思わせる落ち着いた色合いとデザインで、膝下丈のギャザースカートの裾にあるフリルと胸元のリボンが特徴的なもの。もう一つは、ククルにしては珍しい短めの膝上丈で、腰からフワッと広がるスカート部分が上品なワンピースだ。
僕が選んだ服を横によけたククルは、僕を無理やり立ち上がらせるなり背中をグイグイと押し始める。
「え、え?」
「着替えると言っておるじゃろ!」
「あ、ご、ごめん!」
僕は急いで部屋の外へ駆け出た。決してククルの着替えに同席しようとしたわけではない。ただ察しが悪かっただけだ。僕は変態ではない。変態ではないのだ。
バタッと音を立てて閉まった扉の向こうで、かすかに物音が聞こえ始める。鍵をかける音まで聞こえなかったのは、ククルが僕を信用しているからなのだろう。嬉しいと思いつつも、それはそれで不用心すぎるとも思う。僕だって男なのだ。ククルには自分が魅力のある女性だと自覚して、危機感を持ってほしい。まぁ、僕がそれを伝えたところで、ククルは「人の子が吠えよる」と一蹴するとは思うけれど。
そういえば、前にも似たようなことがあった。ククルが僕の家に来て、僕にお気に入りの服を見せてくれたあの日だ。あのときよりも扉は厚ければ、音も聞こえないし、彼女の影が見えるわけでもない。それなのに、今の僕は緊張混じりのドキドキが止まらない。
あのときと何が違うのか。まずは、僕がククルのことを好きだと自覚していること。これは間違いなく、この高鳴りに関係している。他に上げられるとすれば――環境だろうか。他人がいる大学という環境で、ノブを捻れば簡単に開く扉一枚先で、僕の好きな人が、僕のために僕の好きな服に着替えてくれる。一言で言い表すなら――背徳感。
到底友人に抱くとは思えない気持ちがこみあげてきそうで、思いっきり頭を振った。瞑想だ。瞑想をしよう。僕は変態ではない。
心を無にするためにしばらく目を閉じていると、エレベーターの方から足音が迫ってくることに気づいた。
薄く目を開いて、目線だけを向ける。そこにいたのは、一人の白衣の女性。どうやら、まっすぐこの研究室へと向かってきているようだ。
さっき、ククルは「学生ゼロ人の研究室」と言っていた。とするならば、あの白衣の女性は――
「おや、うちの研究室になにかようかい?」
白衣の女性が僕に問いかける。この口ぶりをみるに、僕の考えは当たっているようだ。
「あ、いえ、僕というより、友達が……」
「友達……?」
彼女は「友達」という言葉に首を捻ったあと、わざとらしく手のひらに拳を叩きながら相槌を打った。
「あぁ、なるほど!キミが噂の伊藤紅くんか!」
「噂……?僕のことを知ってるんですか?」
「もちろんだとも!……あぁ、名乗るのがおくれたね。私は五十川麗悠。一応、この研究室の教授さ」
自己紹介をしながら、ホワイトボードの「五十川」プレートを「不在」から「在室」へと移動させる。その手をそのまま僕の前に差し出すので、僕はそれに応えて手を握った。
僕と同じぐらいの身長でありながら、僕よりも細く小さな手。歳は――かなり若く見える。それこそ二十代、院生のような風貌だ。その歳にして教授だなんて、ノンフィクションでありえるのだろうか。
「キミ、なにか失礼なことを考えていないかい?」
「い、いえ……お若そうなのに教授だなんて、すごいなぁと……」
「まぁ……そうでもあるかな!」
僕のあからさまなお世辞を正面から受け取った教授は、「キミ、いい子だね、気に入った!アハハ!」と言いながら僕の背中をバンバンと叩く。ククルがなぜ僕と会わせたくないと思ったのか、なんとなく分かった気がした。
「ところで、キミ――」
背中を叩く手がピタッと止まり、その腕は教授の胸の前で組み替えられた。
左腕で右ひじを支えながら指を顎に当てる――さながら、推理をする探偵のように。
「彼女のことをどこまで知っているんだい?」
その瞬間、僕の背筋がゾクッと震えあがった。
なぜか。それは、教授を見れば嫌でも分かる。
高らかに笑っていたさっきまでと違って、感情を排した冷徹な声色。口角は上がっているのに目が座っている、ちぐはぐな表情。返答によってはその場で僕を始末しそうな、絶対的に強者な立場からしか放てない圧力。
この人は、たった一言の間に雰囲気を百八十度回転させた。はっきりいって、不気味だ。
「ど……どういう意味、ですか?」
じわりと浮かぶ汗を握りしめながら、質問を返した。
教授が何を知りたいのか、僕にはまったく分からない。質問の意図が分からなければ、答えようがない。
「言葉通りの意味だよ。彼女――ククルとは仲良しなのだろう?ククルのことを、どこまで知っているのかと思ってね」
「どこまで知っているのか」と聞かれても、ククルが話してくれたこと以上のことは知らない。本名が小林來久瑠であることとか、真面目で器用なことだとか、人を避けてきたけれど最近は付き合いが増えていることとか、せいぜいそれぐらいだ。
でも、おそらく、教授が聞きたいのはそういうことではない。そんなことを聞きたいだけなら、こんなにも品定めをするような視線を僕には送らないはずだ。
「……いや、いい。怖がらせて悪かったね」
僕の頭のてっぺんからつま先までを一通り見まわした教授は、そう言いながら探偵のポーズを解いた。声色は穏やかになり、ちぐはぐな表情も笑顔へと戻る。
そのまま居室の扉に手をかけると、「そうそう、これは独り言なのだけど」とわざとらしく呟いた。
「もし彼女に入れ込んだとしても、それ以上は望まない方がいい。今の生活を続けたいならね」
「それは、どういう――」
僕の問いを聞き届ける気もなく、教授が扉を開け放つ。
――まずい!
「ぁえ?」
「やぁ、ククル。お客人を締め出すなんて――」
「な、なんでおぬしがおるのじゃ!」
「……おや。そういうシチュエーションをお楽しみ中だったのか。こりゃ失敬」
「ご、ごめんククル!止められなくて……」
「い、いいから早く閉めるのじゃ!」
「いやいや、お客人を――」
「おぬしの倫理観はどうなっとるのじゃ!」
ドスドスドスという足音と共に、中に入っていった教授が追い出されてきた。
勢いよく扉が閉まるかと思いきや、ククルはひょこっと顔だけを出して僕を見た。
「……みた?」
「み、みてない。まったく」
「……ほんとじゃな?」
「ほ、ほんとにみてない。嘘ならこれからずっと奢ってもいい」
僕の言葉をいぶかしげな視線で受け取りながら、しばらく僕をみつめる。
本当に見ていないのだから、嘘はついていない。「気にならなかったか」と聞かれれば――黙秘権を行使させてもらうけれど。今だって、首から下は着替え途中なのか、それとも――
「……へんたい」
バタンと扉が閉じる。絶望する気持ちと、やけに高揚する気持ちが同時に湧いて、僕の心が混沌に染まっていく。
「嘘はよくないぞ、むっつりくん」
「嘘じゃないって……」
僕は変態ではない。変態なんかではないんだ――




