第三十七話 吸血鬼は会いたい
賽岐祭三日目の最終日。ベッドから起き上がって時計を見ると、お昼をとっくに過ぎていた。いつもの僕ならありえない時間の起床だけれど、昨日のことを思えば仕方のないことだと自分に甘くなってしまう。
花紅月の本番の演奏に、みんなで盛り上がった打ち上げ。そして、誤魔化しきれなくなったククルへの気持ち――僕の中では一大事件だったのだ。
それでも、所詮は僕個人の問題。全員に夜は訪れるし、平等に朝日は昇る。お昼を過ぎて起床したとしても僕の生活は変わらないし、起きた後のルーティンも変わらない。顔を洗って、テレビをつけて、ご飯を用意する。
ご飯をテーブルに並べる頃には、差し込む光が傾き始めていた。もうそろそろ賽岐祭最後のステージ企画に入る頃だろうか。急いで食べてまで見に行く理由もないし、たまには一日家でゆっくりするのも悪くない。
ご飯を食べ終えて食器を片付けていると、スマホがブブブと音を鳴らした。画面には、シュンくんからの『生きてるかー?』というメッセージ。
「……どういうこと?」
急いで手を拭いて、メッセージをさかのぼる。どうやら、僕がぐっすりと寝ている間にみんなでやり取りをしていたようだ。
『今日みんなでまわらん?』
『いいよ』
『賛成』
『じゃあステージの前集合な』
『あれ、紅は?』
『おーい』
『たぶん、寝てると思う。昨日いろいろあったから』
『なるほど』
『起きたら連絡くれよー』
「……まじか」
やってしまった。これはやってしまった。
今から行ったところで、ほとんどの模擬店は片付けの準備に入るところだろうし、最後のステージ企画はエンディング的なもので、音楽ライブのように盛り上がるものではない。せっかくできた友達と大学祭をまわるチャンスを、自ら捨ててしまっていた。「誘われると思っていなかった」といえばそれまでだけれど、せめて、せめてあと数時間早く起きられていれば。
『本当にごめん。さっき起きて、今気づきました』
『しゃあない!来年は一緒にまわるからなー』
『今みんなで週末ご飯いかないかって話してるんだけど、伊藤くんはどう?』
『僕もいいんですか?』
『なにを今さら』
『変なこと言ってないで来い』
僕の謝罪はするりと流されて、さっそく次回の話へと移っていく。気持ちを引きずって敬語になっている僕のメッセージだけが、ひときわ浮いて見えた。
みんな、僕が誘いに乗れなかったことを気にしていないのだろうか。それとも、これが“友達”の距離感なのだろうか。いかんせん友達の母数も少なければ経験もないから、これが普通なのかが分からない。
――いや、きっとこれが普通なのだろう。誘いたいときに誘って、遊べるときに遊んで、話せるときに話す。それができないからといって、距離をとったり、いじめたりすることはない。これが普通の友達で、普通の人なら十年前には気づいていることなのだ。
『じゃあ、ぜひ。おねがいします』
『了解。金曜日、開けておいてね』
僕は今、人生で一番充実している。ククルのおかげで、シュンくんと日下部さんのおかげで、先輩たちのおかげで、“充実したキャンパスライフ”を送れている。
金曜日、シュンくんたちとたくさん話をしよう。そして、次は僕から二人を誘おう。もっと二人と仲良くなりたいから。
一段落したメッセージを眺めながら、スマホの画面を落とす。食器の片づけを終えて椅子に深く腰掛けると、スマホが再びブブブと音を鳴らした。
なにか伝え忘れたことでもあったのだろうか。メッセージを確認すると、今度はククルからのようだ。内容は――
『家に行ってもいい?』
わざわざグループチャットではなく、個人チャットで送られてきたメッセージ。僕の足りない脳では、それが意味することは一つしか思い浮かばなかった。
『一人で?』
『一人で』
まさか、本当にそういうことだとは。
今日はゆっくり過ごすだけだし、いつもどおり家は片付いている。ジュースやお菓子の用意はないけれど、家に来てもらう分には問題ない。
問題があるとすれば、それは僕の気持ちだけだ。
「……」
指が震える。たった三文字『いいよ』と打つだけなのに、心臓がドクンドクンと跳ね上がる。
前にククルが来たときと、状況が違う。でも、ククルはそれを知らない。だから、仕方がない。断ると不自然だから、受け入れるだけ。――よし。
『いいよ』
まったく、この三文字に何分かかったのか分かったものじゃない。傍から見たら滑稽だっただろう。
息を吐きながら椅子にもたれかかると、聞いたこともないギシッという音が鳴った。
***
――ピンポーン。
インターホンが鳴ると同時に、身体がビクッと震えあがった。別に驚いたからではない。この音を鳴らしたのが吸血鬼だと分かっているから、そうなってしまったのだ。
ドアの前で、深呼吸をする。冷静に、落ち着いて、いつものように。
「いらっしゃい……ククル」
「おはよう。ねぼすけくん」
意地悪な笑顔を浮かべてチクリと刺さる言葉を放ったククルは、まるで見知った場所のように僕の家にあがりこんだ。いつものように袖と裾でフリルを、胸元でリボンを揺らしているけれど、前回家に来たときと違って荷物は多くない。
「これは差し入れじゃ。模擬店で売ってたたこ焼き」
「……生温かい」
「大学に来ておったらアツアツで食べれたのにのう」
「ご、ごめんって」
受け取ったたこ焼きを片手に、とりあえずククルを部屋の奥へ通す。今日のククルは座椅子を選んで、体育座りのような恰好でくつろぎ始めた。
ククルはまったく気にしていないけれど、膝下丈とはいえ、その恰好は目のやり場に困る。クッションを渡したら足で挟んでくれたので、“見える”心配はなくなった。一息ついたのも束の間、あらためて見たら、それはそれで――
「どうしたのじゃ?」
「な、なんでもない!な、何か飲む?」
火照る顔を誤魔化すために、たこ焼きを口に詰め込んで、お茶しか入っていない冷蔵庫を開けた。
落ち着こう。落ち着いて、いつもどおりの僕になろう。
「……紅の淹れたコーヒーが飲みたい」
想定外の言葉が返ってきて、思わず振り返った。まさか、ククルから求められるなんて。
「……できる?」
「……できるよ。この間のより風味は劣ると思うけど」
「かまわぬ」
「時間かかるから、ゲームやってていいよ」
「わかった」
まぁ、精神を落ち着けるにはちょうどいいかもしれない。喫茶ピアノフォルテとは環境も器材も違うけれど、僕は家でコーヒーを淹れる練習もしてきたし、ククルのための一杯を作る研究もしてきた。出来の良さでは前作ったものに負けるにしても、勝手の良さでならこちらに軍配が上がる。
金曜日、ククルのための一杯を作ったときのことを思い出しながら準備を進める。まさかあの日、ククルも僕のためにあの曲を用意してくれていたなんて。今日の一杯は、そのお礼ということにしよう。
――それはそれとして、だ。
「……あの、ククル?」
「なんじゃ?」
器材の準備を終えて豆を挽こうというところで、僕はずっと気になっていたことを投げかける。
「なんでずっとこっち見てるの」
「んー?なんとなく」
「ゲームは?」
「やるぞ。コーヒーができてからの」
手に顎を乗せながら、優しい笑みで僕をみつめるククル。話をするでもなく、嫌がらせでもなく、ただひたすらに僕をみつめる。
彼女の視線を常に感じていては、精神を落ち着けるどころの話ではない。
「き、緊張するから……」
「かまわぬ」
「僕がかまうよ。失敗するかもしれないし……」
「かまわぬ」
「く、ククル……」
「諦めるのじゃ」
こうなったらもうどうしようもない。思わず漏れたハァというため息とともに、ミルのハンドルを握った。
よく考えたら、これはこれでいつもどおりかもしれない。
「お待たせ。誰かさんのせいで風味が落ちてるかもしれないけど」
「その誰かさんはそれも含めて楽しんでくれるから、安心するとよい」
以前、ククルにインスタントコーヒーを振舞ったマグカップを差し出す。もちろん、中身はまったくの別物だ。もし、ククルが「前来たときと一緒」なんて感想を言おうものなら、僕は自分の腕に自信が無くなってしまう。
「……おいしい」
小さな両手で抱えながらコーヒーを啜ると、ポツリと呟いた。ありがたいことに、心配は杞憂に終わった。
「我ながらおいしい。……でも、一昨日の方がやっぱりおいしかったな」
「妾はこれも好きじゃがの。やわらかくて、あったかい」
もう一口飲んでから、「うん、おいしい」と一言。こんなにも喜んでくれるなら、ククルのために用意をしてよかったというものだ。
「そういえば、マスターから『花紅月で演奏しないか』と誘われたのじゃ。ピアノフォルテで」
「そうなんだ。よかったね」
「まさか、妾も一緒とはの」
「それだけ花紅月の演奏がよかったってことでしょ。誰だってあの演奏を聴いたらそう思うよ」
「桃花せんぱいなんか、『みんなで花紅月、だからね!』なんて恥ずかしいことを言っとったわ」
「嬉しかった?」
「……まぁの」
明るかった日差しはいつの間にか沈み、窓の外には夜が広がり始める。ククルと出会った頃はまだまだ残暑を感じていたのに、今ではすっかり冬の装いだ。
カーテンを閉めるために立ち上がると、足元を冷たい空気がスーッと通り抜けた。僕一人だったら厚着をして我慢をするところだけれど、今はククルもいる。
立ち上がったついでに電気カーペットをつけて、押し入れからブランケットを引っ張り出した。押し入れの独特な匂いがほのかに香るけれど、身体が冷えるよりはマシだろう。差し出したブランケットをククルは素直に受け取って、膝にかけてからクッションを抱えなおした。
「これこたつじゃろ?こたつ布団は出さぬのか?」
「一人だと用意するのが億劫でね」
「手伝おうかの?」
「別にいいよ。いずれは耐え切れなくて出すから」
「さっさと出した方がよいと思うがの。朝方なんて気温一桁じゃぞ?」
「布団にくるまってるから大丈夫だよ。それに、朝からこたつに入ったら絶対大学行きたくなくなる」
「最近は夜も寒くなってきたじゃろ。早めに出した方がよいと思うがの~」
ククルはチラチラと僕に視線を送る。こんなにも露骨な反応をされたら、いくら察しの悪い僕でもククルが言わんとすることは分かってしまう。
「……なんか嫌な予感がするし、出すのやめようかな」
「ダメ。出すのじゃ」
「家にこたつ無いの?」
「残念ながらの。抗えない魔力があるのじゃろ?ぜひとも味わってみたいものじゃ」
「やっぱり……」
また僕の家に来る気満々で、居座る気満々の発言。こたつに入ったら最後、動かそうとしても梃子でも動かないククルの様子が目に浮かぶ。
こたつでぬくぬくとするククルは、きっと――いや、絶対にかわいいと思うけれど、それ故に僕が精神を保てるのかが心配だ。
「……まぁ、ククルに言わなきゃいいだけの話か」
「卑怯者!絶対報告するのじゃ」
「そう言われても、出さない可能性も十分あるしなぁ」
「……おぬしがその気なら、アポなしで突撃を――」
「勘弁して……」
「なら、ちゃんと報告することじゃ」
「えぇ……」
僕の反応に頬を膨らませたククルは、おもむろに僕の手に手を重ねる。小さくひんやりとした手に包み込まれた瞬間、ドキッと心臓が飛び跳ねた。動揺する僕の心境など知る由もないククルは、ニコっと僕に笑いかけてから――
「い゛っ!」
「あっはは!」
僕の手の甲には、小さな爪の痕。
たぶん、これからも僕は彼女に負け続けるのだろう。
***
ゲームをやるという話はどこへやら、話をしていただけであっという間に時間が過ぎさっていた。
そういえば、ククルと二人で腰を据えて話したのは久しぶりだ。一緒にいることこそ多かったけれど、こうやって二人で話すことには懐かしさも覚える。
――といっても、ククルと出会ってたった一か月しか経っていない。僕が相対性理論を体感する日が来るなんて、思いもしなかった。
「あーあ、帰るの面倒くさいのう。このまま泊ってもよいかの?」
「……一応聞くけど、本気じゃないよね?」
「一応、冗談じゃ」
「……はぁ」
帰る準備を始めながらも、オウム返しのように「一応」と枕詞をつけるから、僕の心がまたざわついてしまった。
ククルのことだ、それは僕をからかうために用意した言葉であって、その先にそれ以上の意味はない。勘違いをしてはいけないのだ。
「暗いから気を付けて」
「うむ。急に来て悪かったの」
「もとは僕が寝坊したせいだし……楽しかったから、別にいいよ」
「よかった。妾もじゃ」
ニッと笑ってみせたあと、ククルはドアに手をかける。外は正真正銘夜のとばりが下りていて、肌寒い空気のせいか、虫の声すら聞こえない。
「んじゃ、また大学で。明日は寝坊するでないぞ?」
「大丈夫、だと思う。また大学で」
軽く手をあげながら「おやすみ」と一言を残して、彼女は夜に消えていった。
冷たい空気が部屋に入り込んできて、ブルッと肩が震える。ドアを閉めて部屋に戻ると、少し部屋が広く感じた。
座椅子をしまい、温もりが残ったクッションを無心で戻し、二人分のマグカップを洗う。いつもは面倒な食器の片付けも、なぜか悪い気はしない。
「……好き……か」
僕はククルのことが好きだ。初めての経験だけれど、これは間違いなく恋だということは分かる。でも、僕がその先を望んでいるのかは、自分でも分からない。仮に望んだとして、その結果が手に入るかも分からないし、彼女を幸せにできるかも分からない。正直、今の僕にその自信はない。
「……ふぅ」
僕は今の関係を気に入っている。僕の気持ちのせいでこれが壊れるぐらいなら、僕は今のままでいたい。そのために、今僕ができることは一つしかない。
ククルがこの気持ちに気づかないように、この気持ちに気づかないふりをしていた頃の自分を演じよう。
「……こたつ布団、用意するか」
少なくとも、僕が僕に自信を持てる、その日までは。




