第三十三話 吸血鬼は本番に備える
通し練習をしてから、気になった細かい部分の確認、そしてもう一度通し練習。本番前最後の練習は一時間強で終わった。
先に楽器の片づけを終えてから、花紅月のメンバーは疲れ切ったサラリーマンのようにグダっとカウンターに腰かける。
「さすがに今日は疲れたぁ~」
「こればっかりは桃花に同感」
「私も疲れた。口いてー」
「妾は足が筋肉痛になりそうじゃ」
「ちょっとみんな、今日はちゃんと早く寝てよ?お酒飲んで夜更かしで体調不良とか、さすがに怒るからね?」
「それ一番しそうなの、瑠深なんだけど……」
各々が疲労を訴えながらも、その表情は明るい。納得のいく練習ができたのだろう。
そんな彼女たちの演奏を聴きながらコーヒーの試作を行っていた僕も、自分の味に納得ができるほどの手ごたえを感じていた。
「……よしっ」
彼女たちがわいわいと繰り広げる雑談をBGMにしながら、カウンターの裏側でコーヒーを淹れる準備を始める。疲れたと言いながらも彼女たちの口は回り続けて、僕が作業に入っていることを気にも留めていない。僕の目の前にいるn=5によると、女性はお喋りが好きというのは本当らしい。おかげで、逆に集中できるというものだ。
まずは二杯分のコーヒーを淹れる。今までククルに振舞うために準備をしてきたけれど、もともと先輩方にも振舞うつもりでもいた。だから、二杯を同時に淹れる方法もマスターから教えてもらっていたのだ。
方法といってもやることは単純で、交互にお湯を注ぐだけ。しかし、これがまた難しい。ゆっくり注いでお湯が溜まっている間に、もう一つにも同じことをする。あまり悠長にしているとお湯が出切ってしまって、味が変わってしまう。プロは何杯も平然とこなして同じ味を提供し続けるのだから、本当にすごい。これが自分のためだけに淹れるものだったら、一つのドリッパーに大量の豆を入れて、大量のお湯で一度に抽出してしまうところだ。
抽出を終えてドリッパーを外すと、香りと共に湯気が立ち上った。丁寧に一杯ずつ淹れたものに比べたら多少は味にばらつきが出ているかもしれないけれど、色と香りの時点では及第点。味も問題ないはずだ。
爽やかな香りに気が付いたのか、女性陣が顔をあげる。僕がマスターに目配せをすると、マスターは僕の淹れたコーヒーを冬崎先輩と春風先輩の前にコトリと置いた。
「お疲れの皆さんにこちらを」
「いいんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
「いただきます!」
雑談に夢中だったからか、本当に僕が淹れたことに気づいてなさそうだ。
二人がカップを握り、口に運ぶ。彼女たちよりも先に、僕の喉がゴクリと鳴った。
「……おいしい。いつもよりも優しい味」
「そうだね。――ふぅ。落ち着くなぁ」
ホッと胸をなでおろした。
不安と安堵が顔に出てしまっていたのか、マスターが僕の肩に手を置いて軽く頷く。マスターの優しい表情が先輩方の反応はお世辞じゃないと教えてくれて、僕にもう一度ミルを握る勇気をくれた。
「そのコーヒー、実はですね――」
マスターの言葉を小耳に、もう一度二杯分のコーヒーを淹れる。次は、斎夏先輩と秋峰先輩の分だ。
先ほどと同じ要領で、焦らず、丁寧に、それでいて素早く――手先の不器用さに苦しめられた実験とは違って、今はスムーズに手が動く。これが努力の結果だとしたら、これほど嬉しいことはない。
そして、もう二杯のコーヒーが出来上がった。フゥと一息ついて顔をあげると、いつの間にか僕は視線の的になっていた。
「まさか、こんな特技があったとは」
「う、裏切りだ……」
どうやらこのコーヒーを淹れたのは僕だと気づいたらしい。
「すみません。自慢をしたくて、つい話してしまいました」
固まる僕に代わってコーヒーを二人に渡しながら、マスターは嬉しそうにそう話す。ククルの分を淹れるまでは緊張しないように言わない約束だったのだけれど、マスターにこんな表情をされては僕からはなにも言えない。
逆に考えよう。マスターが自慢したくなるほど、僕のコーヒーはおいしいのだ。
「……よし」
次こそが大本命、ククルの分だ。
少し緊張しているけれど、今回は一杯だけ。大丈夫。僕はこの時のために準備をしてきたのだから。
豆を挽いたあと、コンコンと器を叩いて粗さと香りを確認する。ドリップの準備ができたら、全体を蒸らしてから最初だけしっとりと抽出して、あとは少しずつゆっくりと淹れていく。モカの爽やかさを失わないように、丁寧に、丁寧に――
「……できた」
蒸らしからきっちり三分。色も香りも僕が目指していたそのものだ。
カップの持ち手をククルの左手に向けて、コトリと置く。バイトでは「お客様の右手に持ち手を向けるように」と教えられたけれど、それはあえて外した。ククルは左利きだからだ。
ククルはなにも言わずに受け取り、左手でカップを口に運ぶ。
――ドクン、ドクン。緊張から生まれた、大きな音が全身を震わせる。
ククルの好きな味を出すために、ククルのための一杯を作るために、僕はコーヒーという世界に踏み出した。それを振舞えば、彼女をリラックスさせられると信じて。
「……!おぬし、これ……」
カップを手元に戻したククルが、目を見開いて僕を見つめる。
「ど、どう……?」
固まってしまった彼女に声をかけると、もう一度口をつけて、ゆっくりと香りを味わう。そして、嬉しそうに、懐かしそうに、顔をほころばせた。
「……おいしい。……大好きな味じゃ、本当に」
「……よかったぁ」
ククルの緩んだ表情と言葉に、僕は膝から崩れ落ちそうになった。必死に脚を支える僕の向かいで、ククルは穏やかな緩み切った表情で、一口ずつ丁寧に味わっていく。
ククルを満足させる自信がなかったせいでなかなか振舞えず、本番の前日である今日までもつれ込んでしまった。その最後の最後で、ククルはこんなにも満足してくれた。
「お疲れ様です、紅くん。よかったですね」
「……はい。ありがとうございます、マスター」
ククルの反応を嬉しく思っているのは僕だけではなかった。隣にいるマスターも、まるで我が子を見るような優しい眼差しをククルへと送っている。なぜかその視線がたまに僕へ向けられているような気もするけれど――
いずれにせよ、今日の目的は果たせた。ククルをリラックスさせるという目標は達成できたのだ。
「あ、知ってる?伊藤くんてスイッチが入るとすごいかっこいいんだよ。『かしこまりました。少々お待ちください』って!」
「え、なにそれ。私にもやってほしい」
僕がカウンターの内側から席へ戻ると、絶妙な声真似を披露する春風先輩によって雑談が再開された。彼女たちの手元にあるコーヒーを僕が淹れたこともあってか、話題の種は僕のようだ。
練習終わりの疲労感あふれる姿はどこへやら、みんながみんなすっかり楽しそうだった。ククルだけではなく花紅月のみんなをこんな雰囲気にできたと思うと、胸が熱くなる。
「練習のときの伊藤くんもかっこよかったよ。思ってもなかなか口にできないよ、あんなこと」
「愛の発破だったねぇ」
「あいっ……違いますから!」
「おっ、そうじゃ。プロポーズの返事じゃが――」
「だから違うって!」
悪乗りするククルのせいで、顔まで熱くなる。それでも、楽しくて、嬉しくて、自然と笑顔になってしまう。
今の僕には明日の不安はまったくなくて――それはきっと、みんなも同じだった。
***
マスターにお礼を告げて解散した帰り道、外はすっかり真っ暗になっていた。
未だに田んぼや畑、果樹園が広がるこの辺りに街灯は少なく、天然のプラネタリウムが空に広がっている。賽岐祭での唯一の心残りは、ものの数時間で解決できてしまったようだ。
「そういえばマスターたち、明日も店を閉めて見に来てくれるみたいだよ」
「ありがたい話じゃ。お礼に足しげく通わんといかぬの」
「いつもどおりだね」
「あっはは!その通りじゃ」
いつもどおりのククルが、いつもどおり楽しそうに笑う。こんなにも彼女の「あっはは!」に安心する日が来るとは思わなかった。
「……さっきは深く聞けなかったんだけど」
「なんじゃ?」
「僕のコーヒー、どうだった?」
僕は、つい気になってククルに尋ねた。
ククルが答えてくれた「大好きな味」というのがお世辞ではないことは僕にも分かる。ただ、――強欲にも、僕はそれ以上のことが聞きたかった。もっとククルのことが知りたかった。
「……懐かしい味じゃった。母さまを思い出す味じゃ」
「お母さん、今は淹れないの?」
「ここ数年は淹れているところを見ておらぬ。最近母さまは忙しいようじゃから、楽しむ余裕がないのじゃろ。……電話にはすぐでるけど」
「それは……少し残念だね」
「子どもじゃあるまいし、忙しいとわかっていてわがままも言えぬ。じゃから、嬉しかったのじゃ。ありがと、紅」
努力した甲斐があった。勉強した甲斐があった。新しい世界に踏み出してよかった。
今までの僕の行動が、ククルの言葉一つで報われていく。
「まさか、コーヒーを淹れれるようになるためにピアノフォルテに通っておったとはの」
「ククルが『コーヒーの勉強を始めたらマスターも喜ぶ』って言ってたし、ククルの好みを知ってそうな人をマスターしか知らなかったから……引き受けてくれたマスターには頭が上がらないよ。随分と迷惑もかけちゃったし」
「なにを言っておる。あんなに嬉しそうなマスターは久しぶりに見たぞ?マスターも本望じゃろう」
「そうだと嬉しいね。……お礼に、今まで以上に通わないといけないかな」
「……おぬしの懐事情が心配になるの」
ジトッとした目で見つめられる。別に僕は浪費家ではないから、心配されるようなことはない。
心配性な母からの仕送りは、家賃と光熱費を足してもまだ余裕がある。食費は無意識に見切り品を買って自炊しているからそこまでかからないし、スマホ代はあまり使わないから格安だ。節約が趣味なわけではないけれど、気づけばバイトをするだけでお金が溜まっていく生活になっている。
それに、大学生になってから一度もロリィタを買っていない。これが僕の中では大きくて、その分のお金がククルとの付き合いに回っているだけなのだ。
「そういえば、ククルは僕が淹れたコーヒーは苦いかもって言ってたけど……」「全然そんなことなかったの。あまあまじゃ」
「あまあま……?たしかに甘さもあるけど、そこまでではなくない?」
「いんや。――ほんと、あまあまじゃったよ」
ぽつりと言葉を重ねたククルは、この話題は終了と言わんばかりに、すぐに話を切り替える。
「まっ、なにはともあれ、明日じゃな。明日がうまくいけば今日みたいに笑って終われるし、うまくいかなければ落ち込んで終わる」
「ククルの自信はいかほど?」
「もちろん、自信満々じゃ。紅、前に妾が宣言したこと、覚えておるじゃろうな?」
「もちろん。僕はいつだって、ククルの本気を受け取る“覚悟”はできてる」
「それでよい!まったく――明日が楽しみじゃ!」
今、世界で一番綺麗な紅い月が僕の隣で輝いている。そんな彼女は、明日ステージの上で、もう一段と輝きを増すのだろう。
――本当に、今から明日が楽しみで仕方がない。




