第三十二話 吸血鬼は最後の練習をする
ククルに半ば無理やりついてくる形で、僕たちは二人で喫茶ピアノフォルテへとやってきた。土曜日は定休日なのだけれど、店内には明かりが灯っている。
ククルが「CLOSE」と書かれた札がかかった扉に手をかけると、いつもどおり扉はするりと開いて、カランカランと軽快な音が鳴った。
「おや。ククルちゃん、伊藤くん、いらっしゃいませ。早かったですね」
「あらかた回りつくしたからの。休みのところわざわざありがと、マスター」
「いえいえ。皆さんの努力を見届けたいと思っておりましたから。……冬崎さんたちは一緒ではないのですか?」
「先輩たちはサークルでやっておるジャズ喫茶が終わってから来る予定じゃ。そこまで時間はかからぬはずじゃが」
「そういうことでしたか。皆さん、お腹いっぱいでやってきそうですね」
「マスターの料理は別腹じゃろ」
ククルの言葉にマスターは苦笑いをする。「料理を別腹」と言えるのはククルぐらいだろうと僕も思う。
ククルはすぐに練習に入るかと思いきや、ルーティンのようにカウンター席へ腰かける。僕も彼女に続いて、隣に座った。もしかして、本当に料理を頼むつもりなのだろうか。
「聞いてほしいのじゃ、マスター。こやつ、せっかく妾が付き合わんでよいと言っておるのに、無理やりついてくるのじゃ。人の親切心を無下にするなんてひどいと思わぬか?……あ、ブレンドコーヒーひとつ」
「ククルが『僕がいる方がやる気が出る』って言ったんでしょ。それに、みんなが頑張ってるなか一人だけ帰るのも申し訳ないし、僕にだって目的があるんだから。……僕もブレンド一つ、お願いします」
僕たちの会話にニコニコとしながら、マスターは「承知いたしました」と返事をしてコーヒーを淹れる準備を始める。
よくよく考えたら、休業日だというのに場所だけではなくコーヒーまで淹れてもらうのは、さすがに図々しすぎないか。僕に至っては、このあとさらに器材まで貸してもらうつもりでいる。最後の最後まで迷惑をかけてしまうマスターには頭が上がらない。その分、今日はしっかりと「目的」を果たさなければ。
広いキャンパス内を歩き回った足を労わりがてら、僕たちはコーヒーをいただいた。ジャズ喫茶で飲んだコーヒーより香りも深みもコクもあって、本物のコーヒーの味に舌が上書きされていく。
一口飲めば、ホッと一息が漏れる。しばらくしてもう一口、そしてホッと一息。一杯だけでここまで気分が落ち着くのだから、本物のコーヒーはすごい。たかがコーヒー、されどコーヒーたる所以がここにギュッと詰まっていると言ってもよい。
ククルもカップを片手にすっかり緩み切っていた。今の僕のコーヒーなら彼女をリラックスさせられると自信を持っていたはずなのに、マスターのコーヒーを飲んだら少しだけ自信が無くなってしまった。
――逆に考えよう。あらためて、本物の味をインプットすることができたのだ。おいしく淹れるためのレシピは研究してきたのだから、あとは本物になるようにすり合わせるだけでよい。――よし、自信がわいてきた。
「マスター!おじゃまします!」
コーヒーに映る自分の顔が、ビクリと反応する。振り向くと、そこには勢いよく扉を開ける春風先輩と、その後ろに楽器を抱える先輩方がいた。
「いらっしゃいませ、皆さん。ジャズ喫茶はどうでしたか?」
「マスターのアドバイスのおかげでばっちりでした!今年は盛況ですよ!」
「それはよかったです。皆さんもなにか飲まれますか?」
「でも、今日は休業日――」
そこまで口にして、春風先輩の視線が僕たちの手元に移る。申し訳なさそうな表情から一転、元気よく「はい、お願いします!」と返事をした。
――うん、普通は一度断るべきだよな。普通はそういう反応をすべきだ。
ククルにつられて図々しいと思いながら普通に注文していた自分が、少し恥ずかしかった。
***
「さて、最後の練習を始めますか!」
先輩方もコーヒーを飲み終えて、いよいよ本番前最後の練習が始まった。
「最後」というからには、どことなく張り詰めた空気になると思っていたのだけれど、思っていたより全員が楽しそうに演奏をしている。先輩方はお昼に演奏をしてきているから、既に温まっているのかもしれない。ククルもそんな先輩方を引き立たせるリズムを刻み続け、安定した音楽を奏でていた。
「少し緊張していますね、ククルちゃん」
「え?」
僕が感じたことは正確ではないと訂正すべく、マスターが呟く。
「それぞれの我を上手に混ざり合わせているのが魅力のバンドなのに、ククルちゃんが我を引っ込めてしまっているせいで逆に違和感になっています。昨日はもっと我を出していたはずですが……」
「……昨日?」
「……失礼。一昨日……いえ、水曜日ですね」
コホンと咳払いをするマスターの隣で、水曜日の演奏を思い出す。
たしかに、あのときのククルはノリに乗っていて、先輩方を引き立たせるような演奏という印象はなかった。
そう思うと、たしかに今日の演奏はいつもどおりではない。表情こそ笑顔だけれど、身体の動きは小さいし、先輩方へ常に気を遣うように視線を細かく動かしている。一人だけ世界に入り込めていないような、そんな感じがする。
「ククル……」
僕が間違っていた。「ククルのことだから」なんてずっと思っていたけれど、ククルだって一人の女子大生だ。今まで人を避けていた彼女が、初めて他人と一緒に演奏をして、その初披露の場が大勢の人に囲まれたステージの上なんて、何も思わないはずがない。
練習のあと、彼女の気持ちをほぐすためにとコーヒーを用意してきた。しかし、練習がうまくいかなくては、ほぐせる気持ちもほぐせない。成功する本番をイメージできなくては、心からリラックスなんてできるわけがないのだ。
そして、いつもどおりではない一曲の通しが終わった。全員が楽しそうに演奏をしていたはずなのに、全員が笑顔のはずなのに、いつもの雑談がぎこちなく聞こえる。
「く、ククル!」
気づいたら、僕は声を張り上げていた。聞きなれない僕の大声に驚いたのか、ステージにいる全員がビクリと肩を震わせる。
「え、えぇと……」
言葉に詰まる。衝動的に声をかけてしまったから、その先にかける言葉を用意していなかった。先輩方の視線も突き刺さって、どんどん顔が熱くなっていくのが自分でも分かる。
一方のククルは、黙って僕を見つめている。いつの間にか笑顔は消えて、かける言葉によっては殺されてしまいそうな、吸血鬼らしい鋭い視線を僕に向ける。そんな反応を返してくるということは、きっと今の演奏に自分で思うところがあったのだろう。
今から気の利いた言葉を考えたところで、彼女には意味のない言葉でしかない。僕が伝えるべきことは、僕の心のままの言葉だ。
僕がククルの本気の演奏が聴きたいという言葉から始まったククルのバンド。その言葉は本心だし、人を避けていたククルに人との演奏を楽しんでほしいという思いも本当だ。そしてなによりも――
「……僕はククルが気持ちよさそうに演奏してるところが好き。笑ってるところが見たい!だから……楽しんで!」
僕の言葉を聞き届けたククルは、軽く目を伏せた。
僕の言葉がポジティブに聞こえたのか、ネガティブに聞こえたのか、まったく分からない。「余計なお節介」だとか「おぬしの気持ちなどどうでもよい」だとか思われていても仕方がない言葉だったと、口にしてから思う。
さっそく後悔し始める僕の耳に届いたのは、「ぷっ。ふふ。あっはは!」という笑い声だった。先ほどまでの鋭い視線はどこへやら、僕と二人でいるときのようなとびきりの笑顔で、腹を抱えて声を漏らす。
「な、なんじゃそれは?みんなの前で堂々とプロポーズかや?恥ずかしいではないか!あっはは!」
「プ、プロ……っ!ち、違う!全然違う!」
「冗談はさておき、おぬしの励まし、しかと受け取った!『覚悟をしておけ』と言ったのは妾じゃ、気合を入れなおそうかの!」
ククルはペチンと両頬を叩く。その様子に、先輩方も安心したように頬を緩めた。
「さっそく気を取り直して、次の曲行くよ!思い思いに楽しもう!」
冬崎先輩の号令に合わせて、あらためて全員が楽器を構える。まだ曲は始まっていないのに、既に前の曲よりも楽しそうだ。
「ワン、ツー、ワンツースリーフォー!」
「……やっぱりククルには笑顔が似合うよ」
僕の呟きは、狙い通り一音目によってかき消される。楽しげな最後の練習の再開を見届けてから、僕はミルを握りしめた。




