第三十話 彼は吸血鬼を想う
明日から賽岐祭、そして明後日には花紅月の本番の演奏を控えた金曜日。今日は賽岐祭準備のため全日休講となっていて、実行委員会でもなければ大学に用事はない。つまり、今日は僕もククルも練習に時間を割けるということだ。
花紅月の先輩方はサークルでの演奏が明日明後日と続くこともあり、そちらの練習に行っている。ククルは一人残されたわけなのだけれど、だからといって手を抜くような人ではないことを知っている。だとすれば、彼女が向かう先は喫茶ピアノフォルテだ。
僕もククルの好きな味のコーヒーを淹れられる希望が見えているから、今すぐにでも試したい。できることなら、今日にでもククルにコーヒーを淹れてあげたい。
僕たちは、明後日の演奏を成功させるという目標は一緒で、目的こそ違えど喫茶ピアノフォルテで練習したいのは同じだ。
僕がククルに今日の予定を聞こうとスマホを手に取ると、僕がボタンを押すよりも先に画面が点灯した。なんというタイミングだろうか、画面にはククルからのメッセージが表示されていた。
「……え?」
彼女のメッセージを開いた瞬間、僕は思わず声が出てしまった。
『今日ピアノフォルテは休業だって』
想定外の言葉に頭が混乱した。
今日は練習できる日のはずだった。マスターたちも僕たちが練習したいことを知っていたはずで、そのうえで休業になった。
もしかして、マスターたちの体調不良?それとも、迷惑をかけすぎてしまった?
後者についてはそう思われてもおかしくない自覚があるだけに、冷や汗が浮かび始める。
『休業の理由とか聞いてる?』
『なんか用事があるらしい』
ひとまず、迷惑をかけすぎてしまったわけではないらしい。
――これがリップサービスでなければ。
『ククルはどうするの?』
『一人で練習。紅は明日どこ見て回るかでも考えといて』
しれっと一緒に回る気でいることに悪い気はしないけれど、ククルが一人練習しているなか旅行前のように計画を立てるだけの一日にする気は起きない。
『わかった。練習頑張ってね』
『ありがと』
一言だけの感謝とスタンプに既読をつけてから、立ち上がる。
いつもの場所が使えないからといって、なにもできないわけではない。賽岐祭を見て回る予定を立てるだけなら一時間もかからないし、自由に使える時間はたくさんある。
「……よし」
喫茶ピアノフォルテほどよい器材ではないけれど、家にも一式揃ってはいる。家で淹れた経験だって、決して無駄にはならないはずだ。実際、水曜日にはマスターから練習した成果を褒められているのだから。
ただ、残念ながら家には豆がない。正確に言えば、ククルが好きなモカがない。
今の僕はモカをおいしく淹れられる方法を模索していて、あと一歩のところまで来ている。豆さえあれば、家でも目指している味に近づける可能性を感じている。
「こんなことなら、マスターに使ってるモカの詳細を聞いておくんだったな」
リュックを背負い、スマホをポケットに入れて、自転車の鍵を手に取る。
向かう先は、様々な喫茶店や焙煎屋が入っているショッピングモール。
モカが欲しいことと、脳に刻み込んだあの味をお店の人に説明できれば、目標に近い味を出せる豆が手に入る――はずだ。
***
普段は滅多に来ないショッピングモール。前に来たのは、スマホの周辺機器を見に来たとき――いや、服を買いに来たときだっただろうか。記憶が曖昧なくらいには、久しく訪れていない。
ひとまず喫茶店を目指して、うろ覚えの脳内地図を頼りに歩く。ありがたいことにお店の配置は変わっておらず、喫茶店には無事にたどり着けた。――のだけれど、これまた想定外なことが起きた。お店の前に見慣れた人影があるのだ。
「あれ、紅じゃん」
「ほんとだ、伊藤くん」
そそくさと退散する暇もなく、その人影に見つかってしまう。
二人は僕のもとまで歩いてくると、「よっ」と手をあげて挨拶をした。
「シュンくんに、日下部さん……お店はよかったの……?」
「看板に書いてあった新メニューみてただけだから問題なし。それより、紅は?」
「ちょっと野暮用……というか、買い物に」
「あれ、ククルちゃんは?一緒じゃないの?」
「ククルは練習……えっと、賽岐祭の二日目のステージで演奏するから、その練習で」
「そうなの!?見に行かなきゃじゃん……」
どうやらこの二人には、僕とククルが二人セットだと思われているようだ。僕からしたら、シュンくんと日下部さんも二人セットなのだけれど。
なにはともあれ、今はこの“ショッピングモールで友達と出くわす”という初めて経験したシチュエーションを乗り切らなければいけない。
「二人は、その……何用で?」
「まぁ、暇だから?香の足兼荷物持ちってところかな」
「私の我儘みたいに言わないでよ。シュンが暇って連絡してきたんでしょ」
「な、なるほど……」
こうやって何気ないことで連絡を取り合って、自然と遊びに行ってしまうような間柄を友達というのだろう。そう考えると、僕とククルも立派な友達といえるかもしれない。
「紅はなに買いに来たん?」
「いちおう、コーヒー豆を」
「伊藤くんってコーヒー淹れれるんだ。いいじゃん、かっこいいし、楽しそう」
「ま、まぁ、最近始めたばっかりなんだけどね……」
ドリップだけならともかく、豆を挽くところからコーヒーを淹れる人はそう多くないだろう。ましてや、大学生なら尚更だ。僕も数週間前まで本当に手を出すとは思っていなかったし、こんなに本気になるとも思っていなかった。
そういえば、僕はこの二人のコーヒーの好みを知らない。ククルとまったく一緒ということはないだろうし、それぞれに好きな味をふるまえるようになったら、とても楽しそうだ。
たかがコーヒー、されどコーヒー。奥が深い世界だ。
「そうだ!もし紅がよければなんだけど……ついてっていい?」
「別に僕はいいけど……日下部さんはいいの?買い物に来たんじゃ……」
「大丈夫。もうほとんど用事は終わってるから」
「どうやら、お気に召した服がないらしい」
「急に誘われて、無理やり目的作ったらこの言い様。ひどくない?」
「ま、まぁ、たしかに……服はイメージ膨らませてから慎重に買うべきだと思う」
「そっちの味方すんの?!」
シュンくんの迫真のツッコミに、僕と日下部さんはフフッと笑う。
日下部さんは僕と趣味が近いうえに、価値観も近そうだ。今となっては、彼女の冷たい圧に対して近寄りがたいとは感じない。
ククルしかり、シュンくんや日下部さんしかり、思い切って趣味を共有してよかったと、心からそう思う。
「じゃ、じゃあ、付き合ってもらおうかな。いくつかお店回りたいんだけど……」
「オッケー。問題なし」
「私も。せっかくだし、私もドリップのコーヒーでも買おっかな。ちょうど荷物持ちもいるし」
「おい」
僕は目の前の喫茶店を後回しにして、焙煎屋へと足を向ける。せっかく挽いたものを買うのであれば、既に挽いてあるものより焙煎屋で挽いてもらった方がよいと思ったからだ。
僕は今ククルのためにコーヒーを淹れているけれど、コーヒーを淹れること自体を楽しいと思っているし、味わうことも楽しいと思っている。その一部分だけでも二人に伝わったら嬉しい。
もしかしたら、マスターも同じ気持ちだったのかもしれない。そう思うと、少しだけ頬が緩んだ。
コーヒー豆を買えるお店はいくつかある。チェーン店の喫茶店でも買えるし、コーヒーだけではなく輸入食品も取り扱う小売店でも買えるし、もちろん焙煎屋でも買える。
焙煎屋に向かう途中でいくつかのお店も見てみたけれど、欲しい味が決まっている今の僕には焙煎屋で買うのが一番だろうという結論になった。他のお店で「爽やかな酸味とすっきりとした甘さを味わえるモカはありますか?」なんて聞いたら、店員さんを困らせてしまう。
豆のことは豆の専門家へ訊くに限る。餅は餅屋だ。
脳内地図に頼ることを諦めて店内地図をもとに進んでいくと、嗅ぎなれた爽やかで渋い落ち着く香りが漂ってきた。焙煎屋でコーヒーを買うのは初めてだから店の前でまごついてしまったけれど、店員さんは僕の要望を聞き届けてくれて、試飲までさせてくれた。その味はマスターが淹れてくれたものとほぼ同じで、ククルに飲ませたい味そのものだった。
そして、僕は試飲をさせてくれた豆――モカシダモのミディアムローストを購入した。この舌で味わって購入したのだから、この豆がおいしいのは疑いようがない。それを僕が引き出せるかは、今日の練習次第だ。
そんな僕の隣で、日下部さんは違う豆を挽いてもらっていた。どうやら、コクや苦みを感じられる味の方が好きらしい。まったく、コーヒーは奥が深い。
「そういえば紅。飯、食ってきたの?」
「え?そういえば……食べてない。衝動的にここへ来ちゃったから」
「どんだけコーヒー飲みたかったんだよ。……まぁいいや、オレたちも食ってないから、一緒にどう?」
いつものように「コーヒーの風味が」なんて断る理由が頭をよぎったけれど、それは頭の外へ追いやった。
挽いた後ならともかく、僕は豆の状態で購入しているし、密封もしてもらっている。それに、今では二人のことを知らない間柄でもない。
ククルにも「仲良くなりたいなら交流しろ」とありがたい言葉をいただいていることだし、二人の誘いに乗ることにした。
「じゃあ、サ店に行きますか。タイムリーだし、伊藤くんもコーヒー飲みたいらしいから」
「今どきそんな言葉使うやついねぇよ。……紅もそれでいい?」
「うん、いいよ」
「決定。さっきのサ店に戻ろう」
「喫茶店、な」
二人に連れられて、二人と出会った喫茶店までもどる。店内に入ると、コーヒーの香りよりも食欲をそそる香りが鼻をくすぐった。このお店の代表メニューである、サンドイッチの香りだろう。
僕たちは各々好きなものを頼んで席へ座る。平日の昼間なこともあって、人でごった返しているわけでもなく、大声で騒ぐ人がいるわけでもない。外に比べてゆったりとした時間が流れていて、とても気持ちがよい。
「シュン、足りるの?」
「足らすの。ここで馬鹿みたいに食ったら恥ずかしいだろ」
相変わらず仲のよい二人が食べ始めたのを見て、僕も手を付ける。
僕が頼んだのは、ハムと野菜が挟まれたシンプルなサンドイッチと、ホットコーヒー。しょっぱい味付けのサンドイッチとコーヒーの苦みの相性がよく、お互いをより引き立てているように感じる。これはモカだけでは出せない味だ。
「そういえば、伊藤くん。買ったコーヒー豆、探してたやつであってる?妥協してない?」
「ちゃんとあってる……はずだけど、どうして?」
「私たちを待たせないようにって気を遣ってたら申し訳ないから」
「ぜ、全然!しっかり試飲までさせてもらって選んだし!」
「オレ、あんま詳しくないんだけど……なんでその豆選んだん?うまいの?」
「うまい……はうまいと思うけど、それよりククルが――」
「ククルちゃん?」
日下部さんがククルの名前に食い気味に反応する。
本人の前では冷静な姿でいるのに、いないところではこのがっつきよう。どちらが本当の姿かは言うまでもない。
「――ククルが好きなコーヒーは多分モカだから、淹れてあげたくて」
僕がククルのためにコーヒーを淹れようとしていることは、ククル本人には秘密にしている。秘密が漏れないように二人にも隠してもよかったけれど、この二人が勝手に話すとも思えないし、大丈夫だろう。
「ククルが賽岐祭のステージで演奏するって話……覚えてる?」
「さっき言ってたやつか。ククルさんって楽器もできるんだな」
「できるし、しかも上手。……なんだけど、ククルにもいろいろあるから、もしかしたら内心焦ったり緊張してたりしてるかもって……いつも通りの顔で練習はしてるんだけどね」
「それで、好きなコーヒーを……?」
「そう。コーヒーが好きそうなことは知ってたし、僕が淹れたのを飲んでみたいとも言ってたし、僕もコーヒーには興味があったから、その流れで」
二人は一度顔を見合わせる。
「ククルちゃんは伊藤くんが準備してること知ってるの?」
「え?……いや、秘密。その方がサプライズ感あっていいかなって」
「なるほど、これは……」
二人そろって目を伏せて頷く。悟ったように、確信するように。
「も、もしかして、秘密にしておくのってまずかった……?」
僕は急に怖くなって、二人に尋ねた。彼女のためとはいえ、友達に隠し事をするのはよくなかっただろうか。残念ながら、今の僕はそのあたりの感性にまだまだ疎い。
「いや、全然問題ない。全然、問題ない。むしろいい」
「まぁ、なんというか、ククルさんは絶対喜ぶと思う。間違いないね」
言葉を選ぶ素振りをするから肝を冷やしたけれど、あらためて力強く言い切ってくれたから、きっと大丈夫――のはずだ。
「それなら、私もそのモカにすればよかったなぁ」
「紅に淹れてもらえばいいんじゃね?」
「ダメ。最初は絶対にククルちゃん。淹れてもらうにしても、絶対ククルちゃんのあと。ククルちゃんがいるとき」
「まぁ、たしかに。それもそうだな」
「ま、まぁ、僕のつたないコーヒーでよければいつでも……」
二人で完結した話に、僕は一言申し添える。淹れてもらいたいと思われるのは悪い気はしないし、二人にだったら僕も振舞いたい。ククルのために磨いた腕だけれど、それで二人も喜ばせることができるのなら、それはとても嬉しいことだから。
だとしても、まずはククルだ。彼女のために磨いた腕なのだから、彼女を満足させなければ意味がない。
豆も購入した。知識も身に着けた。前よりもうまく淹れられるビジョンも持っている。あとは今日試しに淹れてみて、その成果を明日発揮するだけだ。
「よかったら、二人もククルの演奏を見に来てね。ククルの本気は……想像以上だから」
すべてはククルのために――僕は僕ができることをやろう。




