第三話 吸血鬼はついてゆく
スピーカーから流れた渋い男性の声の正体は、有機化学を専門とする研究室の教授だった。彼は教壇に立ち、オリエンテーション用のスライドをプロジェクターで映しながら、淡々と説明を始める。
説明された内容を簡単にまとめると、二つのグループは学籍番号順で分け、学生実験は木曜日と金曜日の午後から行い、実験によっては座学を行うものもあれば、すぐに実験に取り掛かるものもあるとのこと。
学籍番号順でグループを分けるということは、五十音順で分けることと同義だ。僕は「伊藤」だからAグループだとして、隣で頬杖をついているククルさんはどのグループになるのだろうか。「ククル」だから、同じAグループ?もし彼女が外国人だとしたら、「フェルネスタ」の方が優先されてBグループというのもありえない話ではない。
というか、そもそも「ククル・フェルネスタ」なんて名前を、前期の専門科目の出席確認のときに聞いた覚えがない。人の名前なんていちいち注意深く聞いていないといえばそれまでだけれど――まさか、偽名?さすがにそれはないか。
「こっちばっか見とらんで真面目に話を聞かんか」
「あっ、すいません」
いつの間にか彼女の方に視線を向けていた僕は、小声でたしなめられて急いで顔を前へ向けた。
――どうしてこんなにククルさんのことが気になってしまうのだろう。
彼女は大学にクラロリで来るような浮いた人で、変わった話し方をしていて、自分を吸血鬼と宣言するような、いわば“おかしな人”だ。彼女と関われば、間違いなく僕も今まで以上に浮いてしまう。そうすれば、“充実したキャンパスライフ作戦”はより失敗に近づくし、楽しい大学生活からも遠のくだろう。
そうだと分かっているのに、僕は彼女のことが気になって仕方がない。
僕が大好きなロリィタを身にまとっているからだろうか。
僕と同じはぐれ者だからだろうか。
いつもは口下手な僕が話すことができた相手だからだろうか。
理由はいくつも浮かぶけれど、どれもしっくりとこない。
「……ふぅ」
周りに聞こえない程度に息をつく。
今はとりあえず、頭を空っぽにしてオリエンテーションに集中しよう。
***
「――今週の金曜日からグループに分かれて講義を行いますので、遅れないようにしてください。それでは終わります。お疲れさまでした」
教授はあいさつをしながらパソコンを閉じて、そそくさとマイクを片付けると、自分の本分はここではないと言わんばかりにスタスタと講堂を後にする。それに続くように学生たちもちらほらと立ち上がり、「ご飯食べに行こう」だとか「サークル棟寄っていく?」だとか、和気あいあいとしながら退出していった。
水曜日は大学全体としてサークル活動の時間にあてているのか、全学部共通科目の講義は開講されていない。当然僕はサークルにも入っていないから、つまるところ、暇だ。
グーと音を鳴らすお腹をさすりながら時間を確認すると、まだ十二時を回っていなかった。今からなら学食に行ってもそこまで混んでいないかもしれない。仮に混んでいたとして、日中の時間を持て余す僕に影響はない。
立ち上がろうと机に手を突いた瞬間、僕の手首は冷やりとした小さな手に握りこまれた。
「待て。おぬし、話があるのじゃろ?どこにゆくのじゃ」
口から心臓が飛び出そうになった。生まれてこのかた、家族以外の女性に触れられた経験など片手の指の数ほどもない。もちろん僕から触れたことなど一度もない。
「あ、いや……ご、ご飯を食べに行こうかと……学食に」
動揺した口から出たのは、心臓ではなく普通の受け答え。常識的な反応ができた自分を褒めたたえていると、想像もしていなかった言葉が僕に返ってきた。
「ほう。なら、妾も一緒に行くとするかの」
「え、え!?くるんですか?い、いっしょに!?」
「悪いかの?」
――僕が、家族以外の女性と一緒に食事を?
――友達とご飯を食べたことすらない、僕が?
こんなことが現実にありえるのだろうか。急にいろいろと起こり過ぎではないだろうか。
軽く頬をつねってみても、ただ痛いだけ。どうやらこれは本当に現実の出来事らしい。
「夢にしようとしても無駄じゃぞ。妾はおぬしについてゆく。おぬしが妾に話そうとしたことを聞くまではの」
ククルさんは不敵に笑い、僕を見上げる。
「あ、でも、あの……」
彼女からは距離を取るべきと理性は告げているのに、脈は速くなるし言葉も出てこない。はやく、はやく断らないと――
――ギュルルル……。
「い……いきましょう……」
容赦なく鳴く腹の虫と断りづらい雰囲気に負けて、僕は首を縦に振ってしまった。
いや、まだ大丈夫。僕の“充実したキャンパスライフ作戦”はこれだけで終わりはしないはずだ。ククルさんだって「話そうとしたことを聞くまでは」ついていくと言っているのだから、今日一日を乗り切ることができれば問題はない。学生実験の時に実行さえできれば、問題はないはずなのだ。
「んじゃ、さっさと向かうぞ、紅。早くゆかんと混んでしまう」
「こ、こうって、ぇあ、そ、そう……すね」
怒涛の展開のせいで、距離の詰め方がえげつないことに困惑する暇すらない。
最近の女性はみんなこんな感じなのだろうか。残念ながら、僕にはそれを判断できるほどの知識と経験はない。
「とりあえず、さっさとそこから出てほしいの。おぬしが出んと妾も出られんのじゃ」
わき腹を小突かれた僕は、急いで通路に出る。
「……はぁ」
間違いなくこれまでの人生で最も疲れる昼食になると、僕の予感がそう告げていた。




