第二十九話 吸血鬼は仕上げる
大学祭を週末に控えた水曜日。僕の頭は苦手な物理や英語のことではなく、ククルたちのことでいっぱいになっていた。
それもそのはず、花紅月が本番前に合わせられるのは、実質今日が最後だからだ。
金曜日は賽岐祭に向けて全日休講だから練習の時間はあるけれど、先輩方はサークルの練習があってククルと合わせることはできない。賽岐祭一日目の土曜日も休業日のマスターに無理をいって喫茶ピアノフォルテで練習させてもらう予定だけれど、先輩方はサークルの模擬店やステージでの演奏があって、全員で練習できるのは二時間もない。
僕はステージに上がる演者ではない。しかし、ククルに発破をかけた当人であり、バンド名の名付け親でもある。ククルの練習をずっと近くで見てきたこともあって、この先どうなるのか気が気ではなかった。
「んじゃ、ピアノフォルテに行くとするかの」
二限を終えた僕たちは、その足で喫茶ピアノフォルテへと向かう。
僕が緊張する一方で、ククルはひょうひょうとしていた。僕もこの心の強さを見習いたいものだ。
***
喫茶ピアノフォルテに着いた僕たちは、なにはともあれお昼ご飯を食べることにした。先輩たちはまだ来てはいないようで、ご飯を食べる時間は十分にある。腹が減ってはなんとやらというやつだ。
僕たちが注文を終えると、外からエンジンの音が聞こえてきた。しばらくして、入店してきたのは先輩たち――なのだけれど、一人足りない。
「マスター、おじゃまします。ククルちゃんと伊藤くんも、こんにちは。今はお昼?」
「うむ、注文待ちじゃ。……桃花せんぱいはおらぬのか?」
「ちょっとゼミが長引いてるみたいで。あそこの研究室、厳しいからね」
「先輩方は大変じゃの」
「選んだのは自分だからね、文句は言えないよ。私たちも一緒にお昼、いい?」
「当然じゃ。紅、つめるのじゃ」
「わかったから押さないで……」
研究とサークル、そして自分たちのバンド――「選んだのは自分たち」とはいうけれど、すべてをやり切るのは大変だ。逆に言えば、やりたいことをすべてやるから楽しいのかもしれない。
僕も三年になったら、先輩方のように忙しくも充実した毎日を送るのだろうか。彼女たちの“音楽”のように打ち込めるものが見つかれば、きっと僕もそうなれるだろう。幸いなことに、その一つになりそうなものは今僕の目の前にある。この出会いをくれて、打ち込む理由をくれたククルには感謝をしないといけない。
「ごちそうさまでした~」
「やっぱ飽きないな、このお店のご飯」
「喫茶店とは思えないボリュームもあるしね」
「そ、それじゃ、僕はお皿を片しますね」
「え?伊藤くんが?」
「なーんかこやつ、先週からマスターたちの手伝いをしておるらしいのじゃ。理由は教えてくれぬがの」
「なるほど。気になるけど……これは聞かない方がいいやつかな?」
「そうしていただけると……」
空になった食器をまとめて、店の奥へ運ぶ。これはマスターから任された仕事ではなく、僕から願い出た仕事だ。
マスターから提示された条件を考えれば、マスターから指示されたことだけを行えばよい。ただ、その受け身の姿勢ではよくない気がしたのだ。
――それに、この女子グループから抜け出す理由にも使える。
いくら僕が花紅月のためになることがしたいといっても、先輩方といるとどうしても肩身が狭く感じてしまう。ククルよりも先輩方と交流が少なく、気まずい空気を作ってしまう僕が都合よく抜け出すのに、“お店の手伝い”という理由はちょうどよい口実だった。
彼女たちの輪の中に入らずとも、僕は僕のやり方でククルたちのためになることをする。それこそが、マスターから教わっているコーヒーなのだ。
「ありがとうございます、紅くん」
「いえ、これぐらい……今日もよろしくお願いします」
「えぇ、もちろん。――お節介かもしれませんが、皆さんに紅くんの目的をお話してもよいのでは?“コーヒーで皆が一息付ける時間を作りたい”。間違いなく喜ばれると思いますよ」
「なんでしょう……少し照れくさいのと、自分たちのためと思ってほしくないのと……あとは、サプライズの方が喜ぶかな……なんて」
「なるほど……それはそうかもしれません。なかなかロマンチストですね」
「そう、でしょうか?自分ではよくわからないですけど……」
「そうだと思いますよ。とても、素敵です」
食器を下げながら、マスターはフッと笑う。なぜかは分からないけれど、マスターに認めてもらえたことがうれしくて、僕は小さく「ありがとうございます」と返した。
食器を片付け終えて、テーブルに残してきた女子たちが立ち上がり始めたとき、店の外からバタバタと騒々しい音が聞こえてきた。それは一度店の前で止まり、しばらくして、入り口からカランカランと軽い音が鳴る。
「マスター、おじゃまします!みんな、お待たせ!」
音の正体は、重そうなカバンを抱えた春風先輩だった。
「おつかれ、桃花ちゃん。ご飯は食べた?」
「食べてない!ゼミ終わって直接来たから……もう!パソコン重い!」
「私たちはもう食べたから、先に練習してるね。ゆっくり食べて」
「う~、ごめんみんな~!ありがと~!」
春風先輩はカウンター席に座り、荷物をドサっと椅子に置く。カバンの口からは、パソコンのほかに分厚いテキストや紙の束が顔をのぞかせていた。先輩の研究室のゼミの大変さがうかがえる。
「あれ、伊藤くん。なんでそっち側に?」
「ちょっとお手伝いを……」
「なんでまた?」
今さっき「サプライズ」なんて話をマスターとしたばかりに、視線が泳いでしまう。
そんな僕を見て、マスターはすぐに助け舟を出してくれた。
「私がお願いしたのですよ。彼は他の喫茶店でバイトをしていますし、即戦力として申し分ありません。私もできるなら、お昼の営業中はのんびりとしたいですからね」
「あら、そうなんですね。それじゃあせっかくなので、店員さん、注文いいですか?」
春風先輩はマスターではなく僕へと視線を向ける。のんびりしたいというマスターの気持ちを汲んだのだろう。
注文を取ることは教えてもらっていないから、このお店がどのようなシステムでやっているかは分からない。分からないけれど、前から注文を取ってくれていたナナさんは、特に特別なことはせずに、ただ注文を書き留めていただけのように思う。
僕はポケットからメモ帳を取り出した。本当はマスターから教えてもらうことを書き留めるために用意したものだけれど、まさか書き出しが注文になるとは。
「……お待たせいたしました、お伺いします」
「デミオムライスの大盛りと、ブレンドコーヒーを一つください」
「デミオムライスの大盛りと、ブレンドコーヒーがお一つずつ……以上でよろしかったですか?」
「はい、お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
春風先輩が僕を店員として扱ってくれたから、僕も落ち着いて対応することができた。
僕が「このあとどうすればよいか」とマスターへ視線で訪ねると、なぜか呆気に取られていたマスターはハッとして、すぐに「奥にいるナナに伝えてください」と指示をくれた。
「マスター、もしかしてなんですけど……スイッチが入った伊藤くんって、めちゃくちゃかっこいいのでは……?」
「えぇ、今、私もそう思いました」
カウンターから聞こえてきたとてつもない過大評価は聞こえないふりをして、僕はナナさんのもとへと向かった。
***
お昼ご飯を終えた春風先輩が合流して、ステージでは一曲を通しての練習が繰り返される。花紅月を結成してからたった数回しか合わせ練習をしていないはずなのに、初日に比べて安定感と迫力が段違いだった。ククルも本調子を取り戻したのかノリに乗っていて、そのノリも元からバンドの一部だったのではと勘違いしてしまうほどにまったく浮いていない。本当にククルは人と音楽を演奏したことが無かったのかと疑いたくなるほどだ。
僕はククルが練習するところをずっと見てきた。そんな彼女に負けないように、マスターから教わったことを体に染み込ませてもきた。僕はなんとしてでも彼女たちの――ククルの緊張をほぐせる香りと味を提供できるようにならないといけない。
「ドリップは……えぇ、とても上手です。家で練習されましたか?」
「安物ですけど、一式そろえられたので……」
「それはまた……紅くんには教えがいがありますね。この淹れ方ができれば、大抵の豆でおいしいコーヒーができるでしょう。あとはククルちゃんの好みですが――」
マスターはククルへ目を向ける。彼女の集中力はすさまじく、僕たちが視線を送ったところで気づく様子はまったくない。
まさかククルも、マスターと僕がククルの好みについて真剣に話しているなんて思いもしないだろう。
「ククルちゃんはここのブレンドを飲んで『母さまのコーヒーを思い出せて好き』と話していたと、前にお伝えしましたね。ですから、ここのブレンドをおいしく淹れられれば問題ないだろうと」
「はい、覚えています」
この話は、先週マスターから聞いている。そのあと、マスターはコーヒーをおいしく淹れるための基礎知識を教えてくれて、ブレンドを実際に淹れる実践までさせてくれた。
「私もその話をして思い出したのですが……実は彼女のお母様のコーヒーを私も飲んだことがあるのです」
どうやら、ククルのお母さんもコーヒーを淹れる趣味があるらしい。
ククルは家族ぐるみの付き合いでこの喫茶店に昔から通っていると話していたけれど、もしかしたら理由はそれだけではないのかもしれない。
僕にコーヒーを勧めてくれたのはククルだ。お母さんが淹れたコーヒーを飲んで育ってきたというのなら、彼女自身が喫茶店やコーヒーに強い関心があってもおかしくはない。それこそ、常連になるほどに。
「詳細な味までは覚えていませんが、爽やかな酸味とすっきりとした甘さが印象に残っています。今思えば、ここのブレンドの主役と同じ豆を使っていたのでしょうね」
マスター曰く、そんなククルが飲みなれた味は喫茶ピアノフォルテのブレンドの主役と同じ豆の味とのことだ。
たしかに、ここのブレンドはすっきりとした後味が印象的で、舌に残る渋さのようなものはあまり感じられない。その印象的な味が主役の豆だとすれば、なんとなく種類は絞られてくる。
手軽にお店で購入出来るもので、酸味と甘さがすっきりとしている豆――さすがに特定できるほど知識も経験もないから自信はないけれど、思いついたものはある。
「もしかして……モカ、ですか?」
マスターは目を丸くして僕を見る。この様子だと、どうやら当たりのようだ。
コーヒーの味以外の情報からも推測したとはいえ、まさか当てられるとは――僕の舌も捨てたものではない。
「……ご名答。おそらく、ククルちゃんはモカが好きなのでしょう。彼女を喜ばせるのであれば、モカの風味を際立たせるくらいがちょうどよいかもしれません。私が彼女のお母様に直接使っている豆を伺えたらよかったのですが」
「い、いえ、十分すぎるくらいです!ありがとうございます!」
僕のお礼に、マスターはニコっと笑って返事をする。
最初こそ寡黙なイメージがあったマスターだけれど、話してみると案外表情豊かで、隣にいると落ち着けるような安心感がある。
そんなマスターが僕の無理なお願いを聞いてくれたことが嬉しくて、だからこそ絶対にククルを満足させてやろうという決意が固くなった。
「伊藤くんはモカの風味と聞いて、味をはっきりとイメージできますか?」
「はっきりとは……そもそも純粋なモカを飲んだことが……うん、あまりないかもしれません」
「では、私が淹れたものを飲んでみてください。その味を目指してみましょう」
「は、はい!お願いします」
マスターは慣れた手つきで準備をはじめ、豆を挽き、淹れ始める。メインに扱う豆だからだろうか、行動一つ一つに一切の迷いがなく、これが最もおいしい淹れ方なのだという自信を感じ取れた。
そのコーヒーの味はブレンドとは違い、甘い香りと主張し過ぎない酸味が共存して際立っていた。これが本物のモカ――ククルが好きな味。
間違いなく、今の僕では自宅でこの味を出すことはできない。同じ種類かつ同じ煎り具合のモカをそう簡単に準備はできないし、淹れる環境も違っていれば、そもそもの腕も足りていない。
でも、この場所でなら、マスターの協力があれば、僕がこの味をククルに出すことができるかもしれない。――いや、出さなければいけない。
本物のモカの味を脳に刻み込んで、ミルを握る。
すべては、ククルが音楽を楽しめるように。
***
結局、今日もククルたちにコーヒーを出すことはできなかった。何度か淹れてみたものの、マスターの味には近づけられなかったからだ。
おそらく、挽き具合と抽出時間のかみ合わせがよくなかった。あと数回ほど挑戦すれば目標の味に近づけそうな手ごたえはあったのだけれど、無情にもタイムリミットは訪れてしまった。
帰り際、たくさん備品を使ってしまった分のお代を支払おうとすると、マスターは「バイト代から引いておきます」と受け取ってくれなかった。バイト代以上のことをしてもらっているから申し訳ない限りなのだけれど、ありがたくお言葉に甘えさせてもらった。この恩は、僕のコーヒーで引き出したククルの笑顔で返そう。
花紅月のみんなにコーヒーをふるまえるチャンスは、あと一回――本番前日の土曜日だけ。
本番前日の練習は気合が入るだろうし、緊張もするだろう。とくにククルは人前で演奏することに慣れていないから、いつもと同じに見えて不安を抱えているかもしれない。正直ククルが怖気づく姿は想像できないけれど、もしそうなっていたのなら――彼女を支えるのは僕の役目だ。
「……はぁ」
「そんなため息をつくと幸せが逃げてゆくぞ?」
「この後にバイトが無ければ幸せは逃げていかなかったんだけど」
「それは妾にはどうすることもできぬの。まっ、おぬしが頑張っとる間に妾も仕上げを頑張るのじゃ。週末を楽しみにしながら乗り切ることじゃな」
「さらっと言ってのけるんだからすごいよ、まったく……ありがとう、ククル」
「当然じゃ」
助手席の窓に映るククルのひょうひょうとした横顔を眺める。窓越しでは、気丈に振る舞っているのか、いつもと変わらないのかは分からない。
――それを確かめるのはいまじゃない。僕がククルの笑顔を引き出せるときだ。
ククルが本番で僕の想像を超える本気を出せるように、僕もククルが知らない僕の本気も見せてやろう。




