第二十八話 吸血鬼は練習する
僕は火曜日が嫌いではない。
まだ一週間の前半で憂鬱になるけれど、月曜日の一限ほどではない。二限にある第二外国語の講義が難しく好きではないけれど、水曜日の物理や英語ほどではない。そして、火曜日にはバイトは入っていないし、前期に講義を詰め込んだ甲斐あって、後期の火曜日は午前中だけ出席すればよい。木曜日や金曜日には実験があることを思うと、週の中で一番マシな曜日な気さえしている。
そんな火曜日を乗り切って迎えたお昼。学食で食べるか、家に帰るかを考えている僕の手元で、スマホが震えた。画面をつけると、あいかわらず話し口調と一致しない簡素な文が、吸血鬼から送られてきていた。
『今日の昼から暇?』
なにをするとか、どこに行くとか、そのあとの情報について一切の記載はない。
出会ったばかりの頃だったら『バイトのヘルプが――』と理由をつけて断っていたかもしれないけれど、今となってはククルと時間をつぶすことを楽しみに思う自分がいる。僕はすぐに『暇』と一文字だけのメッセージを送った。
『車で待ってる』
まぁ、細かいことは直接聞けばよいだろう。昼から用事が一つもない僕には、それぐらいの余裕がある。好きではない講義が終わり軽くなった足で、さっそくいつもの駐車場へ向かった。
数週間前の残暑はどこへやら、涼しくなった日差しのもとで、お世話になっている車を探す。車はいつもの場所に停まっていて、それの中でスマホをいじる吸血鬼を見つけた。反対側に回り込んで窓をコンコンと鳴らすと、ドアから鍵が開く音が鳴った。
「早かったの」
「待たせるのは悪いと思って。どっか行くの?」
「ピアノフォルテに行こうと思っての。昼飯は食べたかや?」
「いや、まだ。どこでなに食べようか迷ってたところ」
「妾も食べておらぬ。おぬしの希望があれば他でも――」
「ピアノフォルテにしよう」
「――了解じゃ」
ククルの口から「ピアノフォルテ」と出た瞬間に、彼女の目的がお昼ご飯だけではないことはすぐに分かった。彼女の時間を使わせるわけにはいかないし、ピアノフォルテには僕が味わっていないたくさんのメニューが残っているから、ご飯処としても断る理由がない。
僕の返事を聞いて、ククルはすぐに車を発進させる。人間の慣れとはすごいもので、クラロリ吸血鬼の同期の車に乗せてもらうというシチュエーションも、今や日常に思える。シチュエーションに慣れてきたからこそ、“乗せてもらっている”ことに感謝は忘れないようにしたい。
「なんじゃ、運転中にマジマジ見られても反応できぬぞ」
「あ、ごめん。今日の服もかわいいなって」
「あっはは!反応できぬと言っておるじゃろ?でも、ありがと!」
僕が感想を伝える約束を果たすと、ククルはご機嫌に鼻歌を歌い出す。
――本当に、かわいい吸血鬼だ。
***
喫茶ピアノフォルテに着いて、マスターとナナさんに出迎えられる。ククルがここを指定するからには先輩たちもいると思っていたのだけれど、ステージには楽器たちがポツンと置かれているだけだった。
どうやら先輩たちは研究とサークル活動で忙しいようで、平日は水曜日ぐらいしかククルと予定が合わないのだそうだ。ククルはサークルのあとに練習しても構わないと言っているそうだけれど、先輩たちの方から『夜までつき合わせるわけにはいかない』と断られているらしい。
ということは、本番まで彼女たちが集まって練習できるのは、今週の水曜日と週末、来週の水曜日と本番前の数回しかない。その数回で完成させなければいけない以上、新しく加入したククルの負担が大きいことはさすがの僕でもわかる。
僕の心のままの言葉に応えるために、ククルは努力をしている。そんなククルに僕がかけるべき言葉は、「ごめん」ではなく「ありがとう」だ。その感謝を伝えるためにも、僕は彼女を支えて、応援しなければいけない。ククルが望むことには、すぐに応えよう。
「おぬしの生ハムサンド、うまそうじゃの」
「いいよ、あげる」
「ありがと、と言いたいがの、おぬしが手を離したらこぼれそうじゃ。やめておこうかの」
「じゃあこのまま食べていいよ、はい」
「ぁえ?こ、紅?ど、どうしたのじゃ?いつもなら――」
「食べにくい?それじゃあ、はい、口開けて」
「わ、わかった!わかったのじゃ!わかったから妾のタイミングで食べさせるのじゃ!」
ククルは頬を赤く染めながら大きく口を開き、僕が差し出した生ハムサンドにかぶりつく。もぐもぐと食べている間、口を隠しながら僕から目を逸らした。
前にここで口をあんぐりと開けて見せつけてきたことを思えば、その恥じらいは今更だと思うのだけれど。
「……お、おいしい」
ククルが小さく感想を呟く。あらためて僕ももう一口かぶりつくと、まったく同じ感想が浮かんだ。
このお店のご飯はどれもおいしいものばかりだ。きっと、こうやって常連になっていくのだろう。
ご飯を食べ終えると、ククルは立ち上がって大きな伸びをした。
「おぬしと駄弁りたいのは山々なのじゃが、妾にはやらねばならぬことがあっての」
ククルはステージに用意されているドラムへと目を向けた。その口ぶりと表情で、今日一人で練習することが行き当たりばったりなものではなく、予定していたことだと分かる。全員で練習できる時間が少ないと分かったときから、予定を組んでいたのだろう。
「わかってるよ。僕のことは気にしなくても大丈夫」
「妾から誘っておいてすまぬの。なんか、おぬしがいた方がやる気が出る気がしたのじゃ」
「僕がいるだけでやる気が出るなら、いつでも呼んで。ククルの演奏、楽しみにしてるんだから」
「あっはは!本当に欲しい言葉をくれるやつじゃ!」
ご満悦に笑ったククルは、「んじゃ、行ってくる」と言葉を残して、ステージに上がった。
広すぎるステージの上で、彼女は一人音を鳴らし始める。音楽に明るくない僕は、ステージ上の彼女にしてあげられることはなにもない。
せめて僕にも誇れるなにかがあれば、彼女の息抜きになれたり、彼女の役に立てたりしたかもしれないけれど、今の僕はやる気を出すための置物以上にはなりえない。
そういえば前に僕の家でククルと遊んだとき、「ククルのように特技があれば自信が持てるのに」と漏らした僕に、彼女はコーヒーという道を提案してくれた。僕はそれに興味があるし、ククルも僕が淹れる姿を想像して楽しみにしてくれていた。
もしかしたら、コーヒーという道は、根をつめる今のククルのためになるかもしれない。
僕はククルの支えになりたい。ククルのためになることがしたい。ククルが喜ぶことがしたい。
せっかくこのお店に来ているのだ。この好機逸するわけにはいかない。
「――あの、マスター」
「どうしましたか?」
「も、もし可能でしたら……コーヒーのおいしい淹れ方、お、教えていただけないでしょうか……」
僕の言葉にマスターは目を丸くする。まさか僕の方から声をかけてくるなんて、ましてや数回言葉を交わしただけの客にこんなことを聞かれるとは思いもしなかっただろう。
でも、僕が今頼れる相手はマスターしかいない。コーヒーに詳しい喫茶店の店長で、ククルのことを小さいころから知っているマスターから教えを乞うことができれば、絶対にククルのための一杯が作れるはずだ。
「できれば、その……ククルの好みの味も」
マスターは一通り僕の要望を聞いた後で目を伏せる。あまり良い感触ではないのはすぐに分かった。
当然の話だ。本営業が夜からとはいえ、今も営業中であることに違いはない。それに、ただの客相手に商売道具の知識を授ける理由も義理もないのだから。
「そうですね……」
返事までの間を作る一言が聞こえた瞬間に、次の一手を考え始める。
情に訴えるか、交換条件を出すか――いろいろな案に思考を巡らせる僕の耳に返ってきたのは、想定していたものよりもずっとポジティブなものだった。
「えぇ、かまいませんよ。ただし、お客様相手にベラベラとお話しすることはできません。お仕事を手伝っていただきながらになりますが、それでも?」
「ぜ、ぜひ!あ、ありがとうございます、マスター!」
「まぁ、お仕事といっても開店休業のようなものですから、大したことはないのですが。ナナ、聞いてたでしょう?紅くんに手伝ってもらいなさい」
マスターが店の奥に声をかけると、「はいはーい」という声と共に、暑そうに腕をまくったナナさんが現れた。力仕事でもしていたのだろうか。
「聞いてたわよ。お言葉に甘えて、手伝ってもらっちゃおっかな」
「よろしくお願いします」
「ちゃっちゃと終わらせて、あの人から色々教えてもらいましょ」
ククルの様子をチラッと確認すると、彼女は完全に一人の世界に入り込んでいた。僕の行動にも気づくことなく、その目はドラムだけに向いている。
――練習を終えたククルに、僕のコーヒーでリラックスしてもらいたい。
その目標を達成するために、僕は店の奥へ向かった。
***
「なんじゃ、店の手伝いをしておったのか。給料は貰ったのかの?」
「貰ってないよ。その代わりにいろいろ教えてもらってた」
「いろいろとは?」
「内緒」
「ケチなやつじゃの」
十七時のタイムリミットを迎えて、僕たちは店をでた。
結局、ククルが練習を終えたあとに僕がコーヒーを淹れることはなかった。マスターから教えてもらってはいたのだけれど、“おいしく”淹れることが思っていた以上に難しかったからだ。
“おいしい”の定義は人それぞれだ。なまじ僕がコーヒーに対して舌が肥えているせいで、そのボーダーが高い可能性はある。一方のククルも、小さいころからマスターのコーヒーを飲んでいるだろうし、ボーダーが高いのは想像できる。そんな中で、自信が持てない味を出すわけにはいかなかった。
仮に今日出したとして、僕が納得していない味でも、彼女が好きではない味でも、ククルは“おいしい”と言ってくれたはずだ。ククルはそういう人だから。
でも、僕はそれに甘えたくはない。心の底から美味しいと言わせたい。僕のために気を遣わせてしまっては、ククルも本当の意味でリラックスはできないだろう。
「ピアノフォルテで練習するとき、また呼んでね」
「なんじゃ、そんなにマスターたちにこき使われるのが楽しかったのかの?」
「こき使われてもないし、使われたくもないよ。……やりたいことができただけ」
「ふーん。まっ、なんでもいいがの。おぬしがおれば妾も集中できてありがたいしの」
「僕も一緒」
ククルがいると僕もやる気が出る。ククルのために始めたことだから、なおさらだ。次の練習のときには、最低限の味を出せるようになりたいものだ。
車にエンジンがかかってブルルルと音が鳴る。今日はバイトもないから家に帰っても時間を持て余すだけだけれど、今日がそうであるのは都合がよい。これだけ時間があれば、マスターから学んだことをまとめておける。実験と同じで、知識が無ければ腕を磨くこともできない。
僕がこの後の予定を考える横で、「あっ」と気の抜けた声が上がった。
「どうしたの?」
「そういえば、おぬしに言わねばならぬことがあったのじゃ」
「なに?」
「先週、冬崎先輩に耳打ちされてデレデレしておったじゃろ」
冬崎先輩の耳打ち――『ククルが僕のいないところで僕のことを楽しそうに話していた』と教えてくれたときのやつだ。
「で、デレデレなんてしてないよ」
「本当かのー?怪しいのー?」
決してデレデレはしていない。たしかに、ちょっと息がかかってビクッとはしたけれど、それはデレデレしていたわけではない。驚いただけだ。
「まっ、それは置いといて」
「置いとくんかい……」
まったく、心臓に悪い。別にやましいことはしていないのにドッと押し寄せる疲れに、思わずため息が漏れる。
ククルは「あっはは!」と一笑いしてから、コホンと咳払いをして話を切り替えた。
「おぬし、先週の妾の演奏を聴いて『想像通りのかっこよさ』と言ったの」
「そう……だったかも」
僕はククルがドラムを叩く姿は絶対にかっこいいと思っていて、実際に叩く姿を初めて見たときに、「かっこよかった」と正直に伝えた。たしか、そのときに「想像通り」と言葉を付け加えていた記憶がある。
「妾はの、少し悔しかったのじゃ。今の妾ではこの程度が限界じゃと気づいての」
僕は深い意味はなく「想像通り」と言葉を付けた。しかし、その言葉のせいで、ククルにとっては「かっこいい」という言葉が誉め言葉になりきらなかったようだ。
「ということで、おぬしに宣言する」
ククルはあらためて僕を見据える。照れても、笑っても、おちゃらけてもいない、真剣な表情で僕を見据える。
「おぬしの想像を超えてやる。妾の本気はこの程度ではない」
力強くそう宣言すると、ククルは身を乗り出して僕に近づいてきた。
目の前に迫る彼女の顔に、僕は思わず目をギュッと閉じて固まる。こんな至近距離にいる彼女を見たら、僕の心臓は耐えられない。今僕が動いたら、いろいろと危ない。
ククルは真剣なのだ。邪念に飲まれてはいけない。
「紅」
真っ暗な視界の中で、僕の耳に息がかかる。少しだけ甘い香りと、僕の物ではない髪の感触。ビクッと震える僕の体に手を置いて、彼女は耳元で呟く。
「覚悟しておくのじゃ」
僕の目の前から気配が消える。ゆっくり目を開くと、ククルは何事もなかったかのように運転席に座りなおしていた。僕が目を開けたことに気づいた彼女は、僕の胸を人差し指でツンと突いて、ニカッと笑う。
なにも考えられなかった。なにかを考えたところで、僕の足りない脳では行きつく答えは一つだけだった。だから、なにも考えないことにした。
放心状態の僕が我に返るころには、見慣れたアパートが目の前に広がっていた。
帰り道、僕は置物でしかなかったはずなのに――なぜだろうか、僕を送り届けたククルはどこか嬉しそうだった。




