第二十話 吸血鬼は頭が良い
僕は水曜日が嫌いだ。
よく言われる“一週間の真ん中で半分も平日が残っている”という感覚も嫌だけれど、それは大学生の身分からしたらそこまでの話ではない。嫌いな理由はもっと個人的なものだ。
一つは、バイトが入っているから。
バイト先の喫茶店の雰囲気は好きだし、人にも恵まれているから、そこまで働くことが辛いわけではない。ただ、“お金のためにバイトをしないといけない”という気持ちがすごく嫌だ。
次に、一限に物理の講義があるから。
まず、僕は物理が苦手だ。とっかかりこそ身の回りの現象に関連していて数学よりも分かりやすいと思ったものだけれど、いざ踏み込んでいくと何が何やらさっぱり分からない。そして僕たちの学科では、化学や生物学は突き詰めると数学や物理と密接にかかわるということで、専門の講義が用意されている。つまり、単位を落とすことはできない。そのプレッシャーがまたまた苦しい。
最後に、二限に英語の講義があるから。
英語は得意なわけではないけれど、物理ほど苦手というわけでもない。ただ、この英語も専門の講義が用意されていて、出てくる単語も化学の専門用語ばかりで理解が難しい。講義で用意される英文は実際の論文から引用されていて、英語で行う化学の講義のようにもなっている。実際の論文は英語ばかりなことを考えると実践的な内容ではあるのだけれど、それゆえに単純に難しいのだ。
これらが別日に割り当てられていたら、こんなに嫌な気分になることはなかっただろう。なぜこれらの講義を同じ日にしてくれたのか。なぜバイトを水曜日に入れてしまったのか。前者についてはともかく、後者については完全に自業自得だから、鬱憤の晴らしようもない。
いずれにせよ、そんな水曜日は毎週やってくるわけで、今日も今日とて僕は重い足を講堂に向けるのだ。
***
訳の分からない物理の講義が終わった。板書をするだけ、理解をするだけで精いっぱいで、練習問題をすべて解くことができていない。きっとこういうときに頭のよい友達がいたら、頼りになるのだろうなと思う。
お互い得意な分野を教えあって、知識を高めていく。それこそ僕が目指した“充実したキャンパスライフ”なのだけれど、残念ながら僕の隣に座っているのは無口なリュックだ。彼は僕が話しかけたところで、うんともすんとも言ってくれない。
練習問題はひとまず後回しにして、彼を背負って立ち上がる。気が重いけれど、次の英語という名の化学の講義に向かわなくては。
二限の英語は一限の物理と違って、学生実験のように二グループに分けて行うことになっている。分け方も学生実験と同じで、学籍番号順だ。
僕たちのグループが講義を行う教室に入ると、既に席は埋まりかけていた。隣の席を開けながら座れるのは――どうやら前の方しかない。できれば一限の物理の練習問題を見直したいから、先生の目が届く前の方は避けたいのだけれど、これでは難しそうだ。
背に腹は代えられないとトボトボと歩きだすと、僕の手首は急に冷やりとした小さな手に掴まれた。
既視感を覚えながら振り向くと、やはりというべきか、控えめにあしらわれたフリルとリボンが特徴的な吸血鬼が僕を見上げていた。
「お困りじゃろ?」
「そう見える?」
ククルに手を引っ張られて、無理やり席に引き込まれる。勢いのあまりククルにぶつかりそうになるものの、ククルは両手の力だけで僕の体を支えて見せる。
彼女の透き通る真っ赤な瞳が眼前に迫って、僕はすぐに飛びのいた。
「来るのが遅いのではないか?」
「い、一限のあと、ちょっと出遅れた」
ドクドクという大きな音が聞こえないように、平静を装って返事をする。
僕の冷や汗に気づいているのか、気づいていないのか、彼女は意味深に「ふーん」と呟いた。
「まっ、妾に感謝するとよい」
「……ありがとう。正直、助かったよ。やりたいこと、あったから」
「やりたいこと?」
僕の言葉を復唱しながら首をかしげるククルに、僕は一限のときに使ったルーズリーフを取り出して、練習問題に指をさす。
僕の秘密をいろいろと知っているククルだ、勉強ができるなんてペラペラな嘘をついても仕方がない。
「解けんかったのか」
「実は物理が苦手で……間に合わなかった」
「なるほどの。それで『出遅れた』わけじゃ」
「お恥ずかしい限りで」
僕がポリポリと頬をかいていると、ククルは自分のトートバッグからルーズリーフを取り出した。そこには今朝の講義の内容が、誰の目から見ても綺麗と感じるほど丁寧にまとめられていた。
「えっ、まとめ方めっちゃ綺麗……」
「見るとこはそこじゃないじゃろ」
「いやでも、これは目に留まるよ。実験のときも思ったけど、ククルって字も綺麗だし、まとめるのも上手だよね」
「褒めても何もでぬぞ。ちょっと妾が嬉しいだけじゃ」
「ちょっと嬉しいんだ」
「そんなことより、わからんとこはこれを見るとよい。丸写しは意味がないからの」
「ありがとう、ククル」
せっかくククルが見せてくれたのだ、講義が始まる前にできるところまでやってしまおう。
彼女のルーズリーフを見ながら、問題を解くヒントのメモを取る。分かりやすくまとめられているから、メモを取るべき場所も分かりやすい。もしかしたら、板書のセンスは勉強の効率に関わるのかもしれない。
ククルの迷惑にならないようにササッとメモを済ませようとする僕の隣で、彼女はおもむろにボソッと呟いた。
「できないことをできると嘯く者より、よっぽどかっこよいと妾は思うがの」
「うん?」
「なんでもないのじゃ」
メモを取る片手間に聞き流していたせいで、彼女の言葉は何に対して発されたものなのか分からなかった。
ただ、褒めてくれたことだけは分かる。
――ちょっと嬉しかった。
英語の講義が始まり、今日の論文に頻出する単語と文法、内容の概要の説明を受けたあと、実際に論文を読む時間に入っていく。
どうやらククルは英語にも精通しているようで、サッと読んではだいたいの内容を把握したのか、すぐにペンを置いて僕の手元を覗き込んだ。
前に思ったとおり、ククルは多才で手先も器用で、やっぱり頭も良いらしい。運動神経抜群だと分かるのも、時間の問題だろう。
そんな優秀な彼女の視線に集中力を奪われながら、僕も翻訳を進めていく。英語は苦手ではないし、手元には電子辞書もあるから、時間をかければこの程度なら僕でもなんとかなる。
翻訳を済ませたあと、配布されたプリントの下に隠していたルーズリーフを取り出す。余った時間は、憎きこいつともう一度にらめっこだ。
「……ククル」
「なんじゃ?」
「物は相談なんですが」
「言ってみよ」
にらめっこをした結果、僕はあることに気づいた。
「物理、教えてもらってもいいですか?」
「アイスで手を打ってやろう」
「ククル先生~~~」
――ヒントを見たところで、僕はすぐに理解できそうにない。
「あのー……できればもう一つ、相談なんですが」
「今度はなんじゃ」
そして、この程度も理解できないということは、今後さらに大きな問題が降りかかるということだ。
ならば、恥を忍んででも、今ここで先手を打つしかない。
「テストが近づいたら……」
ククルは「はぁ」とため息をついて、やれやれと首を振る。
「世話が焼けるやつじゃの」
「ありがとう!アイスはいつでも任せて!」
僕の感謝にまんざらでもなさそうにしながら、彼女は僕の頬にデコピンをする。そして「うるさい」と呟いては、頬を染めながら僕を睨んだ。
***
英語の講義も終わり、僕の予定は残すところバイトだけとなった。
バイトは夜からだから、時間は空いている。昼の間にやることがあるとすれば、結局英語の講義の隙間時間では解ききれなかった物理の練習問題の復習ぐらいだ。
ククルに約束をとりつけたからには教えてもらいたいところだけど、「バイトまでの時間だけ付き合って」というのは、少しおこがましいお願いにも思える。
「紅、今日のバイトはいつからじゃ?」
もう一度メモを取ったヒントだけで解いてみるか、別日にククルと約束を取り付けるかで悩む僕に、彼女は予定を聞いてきた。
「夜からだけど……」
「なら、久しぶりにピアノフォルテに行かぬか?あそこなら飯も食いつつ、おぬしに物理も教えてやれるじゃろ?」
ククルから提案してくれるというなら、願ってもない話だ。
懸念があるとするなら――
「迷惑じゃないかな、マスターたちに」
「マスターたちはおぬしに会いたがっておったぞ?喜びこそすれ、嫌がることはないじゃろ」
「それは……嬉しいけど、前みたいにお店に居座るのは気が引けるな~って思ったり」
「あそこのメインの営業時間は夜じゃから、大丈夫じゃと思うがの。ピアノ、あったじゃろ?あれを使うのが夜じゃ」
「そうなんだ。……まぁ、そこまでいうなら」
「んじゃ、決まり~。まっ、怒られたらそのときはそのときじゃ」
「不安になること言わないでよ……」
ピアノフォルテに行くのは二週間ぶりぐらいだ。つまり、ククルと出会ってから二週間ぐらいということになる。
あのときは名前を呼ぶことすら恥ずかしかったのに、たった二週間で家に遊びに来るような間柄になるとは思わなかった。最初は“充実したキャンパスライフ作戦”のために距離を取るはずだったのに、今ではむしろ縮まっているというのもおかしな話だ。まったく、自分の意志の弱さには呆れてしまう。
そういえば、前にナナさんから「紅くんからククルちゃんを誘ったら」と言われたけれど――さすがに今回は「僕から」とは言えないだろう。残念ながら、ナナさんとの約束はまだ果たせそうにない。
「なにをボケっとしておる。行くぞ、紅」
「ごめん、考え事。よろしく、ククル」
先を歩くククルを駆け足で追いかける。
なぜだろうか、今回は勉強をするために行くだけだというのに、僕の心は少しだけ躍っていた。




