第十五話 吸血鬼は送り出す
月曜日の一限ほど辛いものはない。
単位を一年の間に取りきるためとはいえ、月曜日の一限から講義を取った過去の自分に腹立たしさを覚えながら、僕は空いている席を探した。
この講義は全学部共通の教養科目、いわゆる全共の講義で、同じ学科の人が集まっているわけではない。友達と一緒に取っている人もいるけれど、大半は一人で取っているから、お互いが関わりあおうともしない。友達を作ると意気込んでおきながら恥ずかしい限りだけれど、口下手の僕としてはこの環境はありがたかった。
教室の後ろの方に空いている席を見つけて、そこに座る。荷物を置いた瞬間にドッと睡魔が襲ってきて、意識が落ちる前に頬をつねった。
別に昨日今日と寝ていないわけではない。それなのにここまで体が重いのは、憂鬱の代名詞ともいえる月曜日の朝一番であるからに違いない。長い夏休みを終えて初めての月曜日、というのもあるだろう。
いずれにせよ、この単位のために受講した興味のない講義を乗り切るためには、この気怠さを何かで上書きしなければ。
「≪ガガッ≫静かにー。始めますよー」
どこかの学部の教授がマイクを付けて話し始める。僕はそれに合わせて、講義用のルーズリーフと、一冊のノートを取り出した。
先週の金曜日、僕はククルとある約束をした。それは、“今週の日曜日に僕の家でククルと遊ぶ”というものだ。
彼女のキラキラとした目に負けて交わした約束なのだけれど、なんと僕は人生で一度も友人を部屋に招き入れたことがない。つまり、これが初めての友達と家で遊ぶ約束なのだ。しかも、あろうことか、その約束の相手は女性ときている。
僕はこの二日間の休日で、買わなければならないもの、片付けなければならないもの、心構えなどを、洗いざらい書き出した。それが、今手元にあるこのノートというわけだ。僕はこのノートに書かれた内容を今週末までに済ませて、準備をしなければならない。
講義が始まると、教授はかつかつとテンポよく黒板に文字を刻みながら、淡々と説明を始める。僕はレポートに使えそうな内容だけを書き留めながら、隙を見てノートに目を落とした。
買い物は――飲み物などもあるから金曜日に済ませよう。片付けや掃除は、随時進めていかないと。とくに水回りは丁寧にやったほうがよさそうだ。匂いだけではなく見た目の不快感もあるし、面倒な掃除をサボる男と思われたくはない。
ただ準備をするだけなのに、こうやって書きだしたり計画を立てたりしなければ安心できないのは、僕の悪い癖なのかもしれない。心配性すぎる僕は“ぶらり旅”なんてものはできないのだろうと、自分で思う。
――きっとククルは僕と違って、心の赴くままにぶらり旅を楽しめてしまうのだろうな。
「今日はこれで終わります。お疲れさまでした」
気が付くと、講義は終わっていた。途中からほとんど記憶がないけれど、消されずに残っている黒板を見る限り、そこまで重要なことは話していないのだと思う。
「二限……は無いし、三限までは暇、かぁ。どうしようかな」
本当は二限にスポーツを取りたかったのだけれど、前期と同様に抽選落ちしてしまった。一年のうちに単位を取りたかった僕は、三限にスポーツ枠の単位が取れる座学を入れることにした。こちらは講義を取ることができたので単位の心配はなくなったのだけれど、代わりに月曜日の日程が一限と三限という通いづらいものになってしまっている。
「家に帰るにも微妙、ご飯にも早い。うーん」
ここで悩んでいても仕方がない。僕は暇つぶしがてら遠回りをしながら、学食近くにある室内の談話スペースまで向かうことにした。
***
大学のキャンパス内にある並木道。ここ一週間ほどでぐっと気温が下がってきたからか、葉っぱも色づき始めてきた。もう少しすれば、ここも銀杏の香りで満たされるのだろう。
柄にもなく季節の移り変わりに感傷的になっていると、肩にツンと突くような感触があった。さっそく銀杏でも降ってきたのだろうか。
特に気にも留めずに足を進めようとすると、鋭い衝撃が踵に走った。
「痛っ!いっった!」
「妾を無視するとはいい度胸じゃな」
衝撃の正体は、いつの間にか僕の後ろにいた吸血鬼の蹴りだった。
痛みに耐え切れずピョンピョンと片足で歩く僕に、彼女は声を出して笑う。人を蹴りつけておいてこの笑顔とは、まさに鬼の所業だ。
「おぬし、なんでこんなところにおるのじゃ?二限は?」
「二限は休み。今日は一限と三限だけだから」
「変な取り方しとるのう」
「抽選落ちのせいだよ。……ククルは?」
「妾は一限で終わりじゃ。あとは帰るだけじゃな」
僕がぎこちない二足歩行を始めると、ククルは「すまぬすまぬ」と少しだけ申し訳なさそうに謝った。「肩を貸そうかの?」という申し出もあったけれど、それは丁重にお断りをした。彼女のせいでこうなったとはいえ、自分よりもはるかに身長の低い女性の肩を借りるなんて、僕には恥ずかしくてできそうにない。
「んで、どこに向かっておるのじゃ?」
「談話スペースで暇をつぶそうかと。帰ってもよかったんだけど、多分絶対サボる」
「んじゃ、妾もご一緒しようかの。どうせ暇じゃ」
「……来たところで暇だよ?」
「一人より二人の方がマシじゃろ。お互いにの」
ククルのニカッとした笑いに、呆れ混じりのため息が漏れた。
こうなったら僕が何を言っても絶対についてくるのだと、今の僕なら分かる。
「そうじゃ、紅。生協に寄っていかぬか?」
「いいけど、何か買いたいものあるの?」
「いんや、暇つぶしにアイスでも買おうかと思っての」
「お昼ごはん前なのに?」
「アイスは別腹じゃ」
僕からすれば、暇をつぶせればなんでもよい。ククルの提案に乗っかって、まずは学食の真上にある生協へ向かうことにした。
大学内にある生協。言ってしまえば、ほとんどコンビニのようなものだ。ただ、本やデジタル機器などについてはコンビニよりも充実している。僕はそれらにお世話になったことはないのだけれど、どうやら本は予約して取り置きができるらしく、これについてはいつかお世話になる日が来るかもしれない。
「紅、いっそ弁当も買ってったらどうじゃ?今なら選び放題じゃ」
「ちょっと早い……けど、弁当ならいつでも食べれるか」
「うむ。学食も混む前に行こうと思っておるなら、たいして時間は変わらぬと思うしの」
「たまにはいいかもね、弁当」
生協に来て弁当を買ったことは一度もないけれど、お昼時に弁当周りが混雑していることは知っている。
僕は「一番人気!」と手書きポップが飾られている唐揚げ弁当を手に取る。せっかくだから、混雑の中心にある弁当とやらを食べてみようじゃないか。
「おぬしがそれにするなら、妾はこれにしようかの」
ククルが手に取ったのは、彼女にしては珍しく、焼き魚とたくさんの野菜で彩られたヘルシーに見える弁当。
「足りるの?」
「失礼な奴じゃな。乙女には多少足りなくても我慢しなければいけない時があるのじゃ」
「ふーん。アイスは買うの?」
「買う」
「我慢できてないじゃん」
「別腹じゃと言っておろうが」
ククルの身長は低めとはいえ、それにしても細っこく見える。彼女が着る服を思うと体重や体型に気を使うのは分かるけれど、今の彼女には必要はないと僕は思う。ただ、それを口にするのはデリカシーがないような気がして、僕は笑顔で誤魔化した。
お弁当とアイスを買った僕たちは、学食と屋根続きの建物にある談話スペースまでやってきた。
僕と同じく暇つぶしなのだろうか、そこには談話にふけるグループや、パソコンとにらめっこをする人、すでにお弁当を広げている人などが、ちらほらといた。
賑わっているわけでもなければ、人がまったくいないわけでもない。適度にガヤガヤとした環境が、逆に心地よい。
「これは先にアイスを食べねばいかんのう」
「でしょうね」
お弁当とは不思議なもので、見ていると早い時間だというのにお腹が空いてきてしまう。あとで食べるからと生協に用意された電子レンジは使わなかったのだけれど、これなら軽く温めた方がよかったかもしれない。
冷え切ったお弁当はいったん後回しにして、僕もアイスの袋を開ける。今回僕が選んだのは、チョコでコーティングされたバニラアイスバーだ。
「おぬしはバニラか。妾は全部チョコじゃ」
「ん、それもおいしそうだね」
「一口食べるかや?」
「……いらないし、あげない」
「ケチ」
「ケチで結構」
このまったく気にしていないような口ぶりは、本当に心臓に悪い。僕はいつまで上手に断り続けられるだろうか。――不安だ。
***
外には学食の待機列が見えて、談話スペースにも人が入り始めたころ、僕たちは弁当を食べ終えた。
唐揚げ弁当は冷めていてもおいしくて、さすが一番人気の弁当なだけあると感心した。ククルはといえば、案の定物足りなかったようで、弁当を食べ終えたばかりだというのに「お腹空いた」と言葉を漏らしていた。
「おぬし、三限はどこでやるのじゃ?」
「全共棟。チャリ取りに行くのも面倒だし、歩いていこうかな」
「んじゃ、妾もついていこうかの。食後の運動じゃ」
「足りないんじゃなかったの?」
「足りんくても食後は食後じゃ」
ククルに「もういくかや?」と聞かれて時間を確認すると、三限が始まるまでまだ二十分もあった。
教室まではここから歩いて五分もすればつくけれど、賑わってきたこの場所は心地よい環境とは言えないし、ククルをこれ以上付き合わせるわけにもいかない。
僕は「行こうかな」と返事をして、袋にまとめたゴミを近くのゴミ箱へ投げ込んだ。
建物の外に出ると、あいかわらず太陽の日差しが降り注いでいた。とはいえ、それなりに暑くはあるものの、先週よりは鋭さを感じない。
そんな秋に近づいた日差しの中でも、ククルは日傘をさしてフリルを揺らす。
吸血鬼だからとか、日焼け対策だとか、いろいろ理由はあるとは思うけれど、純粋に“似合う”から日傘はさしていてほしいと、僕は思う。
「そういえば紅、本当に手伝わなくてもよいのか?」
「なんの話?」
「週末の話じゃ。しっかり準備してくれとるじゃろうし、買い出しぐらい手伝うぞ?妾には車もあるしの」
「いや、いいよ。いい加減僕も部屋を片付けなきゃって思ってたし、そのついでだから」
「そうか、ならいいのじゃが」
「というか、なんで僕が準備してるって分かったの?」
「逆に、わざわざ“あの作戦”を考えるぐらい心配性で臆病でクソ真面目なおぬしが、なんで準備をしないと思うのじゃ?」
「……ごもっともで」
「当たり前じゃろ」と言わんばかりにケロッと答えるククルに、僕は頭を抱えた。
もう少しオブラートに包んで欲しかったけれど、まったくもってその通りだからなにも反論ができない。この数日で僕がククルのことを分かってきたように、彼女も僕のことを分かっていると思うと、いよいよ彼女には隠し事ができなさそうだ。
そんな僕のことを知り尽くしつつあるククルは、急にクルッと振り返るなり、日傘から顔をのぞかせて僕を覗き込んだ。
「週末、楽しみじゃな!」
「……うん、そうだね」
屈託のない笑顔。花を咲かせたような笑顔。どういう表現をすればよいか分からないけれど、僕の中にはただただ「かわいい」という言葉だけが浮かんでいた。
長話をしながらゆっくりと歩いてきたからか、全共棟まで十分弱もかかっていた。はからずとも、ちょうどよい時間になったようだ。
「んじゃ、妾は帰るとするかの。三限、寝るでないぞ?」
「運転するククルもね。暇つぶし、助かったよ。ありがとう」
「あいあい」
ククルにお礼も告げたし、教室に向かうために彼女に背を向ける。
そんな僕の肩に、ツンと突くような感触があった。さすがの僕でもこれの正体は分かる。こんな場所に銀杏が落ちてくるわけもないのだから。
「なに、ククル――」
もう一度振り返ろうとする僕の頬に、なにかが突き刺さった。
――指だ。白くて細くてひんやりとした指。
僕の後ろで、腕を伸ばして肩に手を乗せた小さな吸血鬼が、僕を見上げていた。
「ひっかかった」
日傘の影から、悪戯っぽく笑う。
「いってらっしゃい」
「えっ……い、いってきます……?」
僕の言葉を聞き届けてから、彼女は振り返って歩き出す。
手をヒラヒラと振って立ち去る彼女の姿を、僕はただ茫然と見送ることしかできなかった。




