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第39話:楽園とノイズ

 かつてそこは、陽光さえも届かない鉄錆と腐敗の迷宮だった。

「旧スラム第14区」。世界で最も見捨てられたその場所は今、悠人の手によって、あらゆる苦痛から解放された「エデン・セクター」へと再誕を遂げている。


 白磁を思わせる有機的な建築物が立ち並び、街路樹の葉一枚にいたるまで、マナAIによって最適な生命活動が管理されている。行き交う住民たちの表情には、かつての飢えや怯えの影など微塵もない。


「……本当に、静かですね」


 視察の列を歩きながら、綾音が隣の悠人にそっと語りかけた。

 彼女の瞳には、平和への安堵と、それゆえの得も言われぬ空虚さが同居していた。


「ええ。ですが、これは死の静寂ではない。人類が数千年の間、血を流して求めてきた『安息』そのものです。綾音さん、人はようやく、ただ生きるという喜びのために時間を使えるようになった」


 悠人は微笑み、広場のベンチで穏やかに談笑する老人たちに目を向けた。

 そこに洗脳や強制はない。彼らはかつての地獄を知っているからこそ、今享受している清潔な水、確実な食糧、そして約束された明日を、自らの意志で熱狂的に肯定していた。悠人は彼らにとって、原罪という名の苦難を終わらせた神に等しかった。


 だが、その完璧な調和の中に、たった一点、マナAIの計算を跳ね除ける「黒いノイズ」が紛れ込んでいた。


「お前が……お前さえいなければ……!」


 突如、群衆の端から一人の男が飛び出した。

 痩せこけた体躯、煤けたコート。周囲の幸福な住民たちとは明らかに異質な、どす黒い憎悪を瞳に宿した男だ。その手には、工場の廃材を研いで作ったと思しき、無骨な鉄パイプの刃が握られていた。


「……っ、悠人!」


 背後で綾音が鋭く息を呑み、彼の名を呼ぶ。

 それと同時に、周囲の住民たちからも悲鳴に似た叫びが上がった。

「悠人様!」「危ない!」


「下がっていて、綾音さん」


 悠人は背後の彼女を片手で制し、自分に殺到する男を真っ向から見見据えた。

 警備ドローンのレーザーサイトが男の眉間を捉え、無機質な警告音を鳴らす。だが、悠人はマナ端末を操作し、ドローンの攻撃シーケンスを凍結させた。


 男の突き出した刃が、悠人の右肩を浅く切り裂く。

 純白のスーツに、鮮烈な赤が滲んだ。


「……っ」

 息を呑む綾音の視線の先で、悠人は一歩も引かなかった。それどころか、血を流しながら、男の至近距離まで静かに歩み寄ったのだ。


「……離せ! 殺してやる、この偽善者が!」

 取り押さえようとする警備兵の手を振り払い、狂乱する男の目を見て、悠人は穏やかに問いかけた。


「君の痛みは、私のデータにある。……だが、私の口から謝罪を述べるのは、君に対する無作法だろう。だから、君の言葉で聞かせてほしい」


 悠人の声には、怒りも、憐れみもなかった。あるのは、ただ圧倒的なまでの誠実さと、救済者としての義務感だけだ。


「君は、私にどうしてほしいんだ?」


 男の動きが止まった。

 殺そうとした相手が、自分を「排除すべき害悪」としてではなく、一人の「隣人」として扱い、その要望を聞こうとしている。そのあまりに巨大な包容力が、男の拠り所であった憎悪を、足元から崩していく。


「俺の……俺の店を……返せよ……。親父から受け継いで、俺が死ぬ気で守ってきた、あの汚ねえ場所を……。お前の『最適化』で、あれはただの無駄な建物として壊されたんだ……!」


 男は崩れ落ち、嗚咽した。

 周囲の住民たちは、理解不能なものを見るかのように、冷ややかな、あるいは困惑した視線を男に送っている。この楽園で、そんな古びた価値観のために神を傷つけるなど、狂気の沙汰でしかない。


 だが、悠人は男の肩に手を置いた。


「……分かった。君の『誇り』を無視していた私の不徳だ。君の店を、君が愛したその感触のまま、この場所に復元しよう。君の人生は、決して無駄なものではなかったと、私に証明させてほしい」


 その言葉に、男はただ呆然と涙を流すことしかできなかった。


 悠人は立ち上がり、傷ついた肩を気遣うように寄り添う綾音を見た。


「……綾音さん。世界はまだ、私の手から零れ落ちているようです。ですが、私は決して彼らを突き放さない。それが、この世界を背負うと決めた私の、唯一の贖罪ですから」


 夕刻の「エデン」は、何事もなかったかのように再び美しい静寂に包めていく。

 だが、遠く離れた地下のモニター室で、トマス・エリスはその光景を歪んだ笑みを浮かべて見つめていた。


「優しいな、悠人。だが、その優しさこそが、君の楽園を地獄に変える猛毒になる」


 トマスの手元の端末で、いくつかの暗号化された通信が、音もなく明滅を始めた。

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