OTO・GI
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
七月四日、午前九時。佐賀県鹿島市の「前線カフェ」では、昨日までの重苦しい空気とは一変し、清々しい朝の光が差し込んでいた。赤い布が被せられた床几台の上では、祈里と沙希が、真新しい歌詞カードを手に歌の練習に励んでいた。
「聞こえるよ、不思議な歌声が聞こえる~♪」
祈里が元気いっぱいに声を響かせると、沙希が恥ずかしそうに、けれどもしっかりと後に続く。
「確かに感じる君の、OTO、その歌声~♪」
そこへ、店に顔を出した亀さんが、目を細めて声をかけてきた。
「おはよう。祈里ちゃんに沙希ちゃん、朝から何を歌ってるの?」
「亀さん! 私たち、アイドルになったの!」
祈里が弾けるような笑顔で答えると、亀さんは面食らったように声を上げた。
「えっ! アイドル? 祈里ちゃんたちがかい?」
「私は昨日からアイドルなんだ! この稲荷神社門前商店街のアイドル!」
胸を張る祈里の姿に、亀さんは納得したように頷く。
「確かにアイドルっていえば……アイドルだけどね。祈里ちゃんはいつも元気いっぱいで、この商店街を明るくしてくれるし。沙希ちゃんだって、守ってあげたいっていうお客さんが多いもの」
「違うのよ、亀さん!」祈里は身を乗り出して否定した。
「私が言っているアイドルは、みんなの前で歌ったり踊ったりして、みんなを喜ばせるアイドルのこと!」
「そっちの方のアイドルかあ……」
亀さんは少し驚いた様子で、首を傾げた。
「『私たち』って言ってたけど、祈里ちゃんと沙希ちゃん以外に、誰がアイドル活動をするんだい?」
「私と沙希ちゃん、神那ちゃんに美琴さんの四人だよ!」
「本当にみんなでアイドル活動するんだ!」
亀さんは驚きつつも、どこか期待を寄せるような表情を見せた。
「それはそれで、この商店街の活性化にはなるとは思うけど……。碧海さんは……その、みんながアイドル活動をすることに賛成してるの?」
碧海雫——店を仕切る彼女の反応を案じる亀さんに、沙希がオドオドしながらも答えた。
「は、はい……。碧海店長は喜んでくださいました。元々は、そんなお店にする予定だったからって……。その、社長さんが……」
「今歌っている曲の歌詞も、社長さんが書いたんだって。『OTO・GI』って名前の曲なの」
祈里が付け加えると、亀さんは「ハハハ」と苦笑いを漏らした。
「緒妻さんがね……。まあ、それなら分かるよ。そんなこと、あの人ならいつも考えていそうだもの」
「そ、そうなんですか?」
沙希が不思議そうに尋ねる。
「見た目は綺麗な奥さんなんだけどね。中・身・は・変・わ・っ・て・る・というか、面白い人というか……。そうそう、ああ見えても佐賀県内の商工会議所なんかから、俺のお店みたいな店舗の悩み相談を受ける『派遣の専門家』もしてるんだよね」
「その……『派遣の専門家』って何ですか?」
沙希の問いに、亀さんは少し考え込みながら、わかりやすく説明を始めた。
「俺はせんべい屋だけど、世の中には色んな商売をしてる人がいるだろう? 職種は様々だけど、ずっと続けていると行き詰まる時がくるんだ。売り上げが上がらないとか、新しい販売ルートが見つからないとかね。佐賀は農業が盛んだけど、農家さんが自分の作った作物で新しい食品を作っても、売り方が分からなくて困ることもある。そんな悩みに対して、緒妻さんは一人で大体のことを解決しちゃうことで有名なんだよ」
沙希が「どういうことですか?」と小首をかしげる。
「例えば、有明海苔の漁師さんが、採った海苔を商品にして売りたいと考える。普通なら、まず商品の内容を専門家に相談して、次にパッケージを考えるデザイナーを探して、さらに販売してくれるお店を探す専門家に頼む。宣伝のためにSNSやネットショップを作る人、法律や価格設定を助けてくれる人……一つの商品を作るのに、想像以上にたくさんの専門家の手が必要なんだ」
亀さんは窓の外の景色に目を向け、感心したように続けた。
「普通はバラバラの専門家に相談しなきゃいけないんだけど、緒妻さんはそれを一人で全部こなしてしまうんだよね。ハハハ、本当に規格外な人だよ」
少女たちの歌うメロディの裏には、そんな敏腕社長の想いと計算が隠されているようだった。二人は顔を見合わせ、再び自分たちの新しい「歌」へと意識を向けた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




