沈めるもの
その村は、三十年前にダムの底に沈んだ。
正式には「統合移転」と呼ばれたが、実際は住民の大半が泣く泣く出ていった。
残されたのは、朽ちた祠と、誰も訪れない墓地。
そして、ダムの底に沈んだ旧集落——神渡村。
「最近、奇妙なことが起きてるんです」
その依頼が舞い込んだのは、地方新聞社で特集記事を任されたばかりの頃だった。
差出人は地元の観測所の職員だった。
定期点検中、水中探査機が旧神渡村の辺りで「建物の扉が開いた」映像を捉えたという。
「もちろん、水圧で倒れただけかもしれません。でも……奇妙なんです」
好奇心が勝った。
俺は軽トラックを借りて、取材のために山道を登った。
ダム湖を望む監視所からは、深い緑の水面が静かに広がっていた。
「夜、音がするんです」
案内人の職員は、小声で言った。
「鈴の音のような……それに、子供の笑い声が……」
最初は作り話かと思ったが、実際に夜のダム周辺を歩いてみると、その言葉が脳裏にまとわりつく。
風もないのに、葦がざわめく。
耳鳴りのような、金属の高い音。
ダムの堤体に貼りついた小さな祠に近づくと、何かが空気を押し返してきた。
中には朽ちた絵馬がぶらさがっていた。
「ミヲ ササゲマス」
子どもの筆跡で、そう書かれていた。
その夜、宿舎で目を覚ましたのは、午前二時を回った頃だった。
水音がする。
寝ている床の下から、じわじわと水がにじんでいる。
慌てて飛び起きたが、床は乾いていた。……夢か?
だが、廊下には濡れた小さな足跡が続いていた。
翌日、ダム管理事務所の許可を取って、湖底の旧村を遠隔操作のROVで探ることにした。
モニターに映ったのは、まるで今も生活が続いているかのような家屋の姿。
玄関には、風で吹き飛ばされたように扉が開かれていた。
そして、映像が“何か”を捉えた。
白いワンピースのようなものが、画面の端を横切ったのだ。
直後、機器は反応を失い、映像はブラックアウトした。
事務所内が凍りついた。
機材を引き上げたが、ケーブルは千切られたように裂けていた。
水圧でも魚でもない。
職員の一人がぼそりとつぶやいた。
「……あの子だ」
話を聞くと、神渡村には一つの言い伝えがあったという。
大干ばつの際、神に雨を乞うため「人柱」が立てられたと。
それは年端もいかぬ少女で、「水の神に捧げられた」とされる。
村が沈む直前、祠に供えられた最後の絵馬にはこう書かれていた。
「また くる おとずれる そのときに」
俺は帰ることを決めた。
この土地は、何かが「いる」。
祠は封じていたのだ。
それを、ダムという人間の都合が壊した。
帰路につく途中、ふとバックミラーに目をやった。
ダム湖の水面に、ひとりの少女が立っていた。
まるで、俺を見送るように。
次の日、新聞社に戻ると、あの地域で地滑りが起きたというニュースが飛び込んできた。
ダム周辺の監視所が飲み込まれたと。
行方不明者は一名——俺に最初に話を持ちかけた、あの職員だった。