これはきっと“恋”なんかじゃない〜前世で恋人だった兄の想いを、私は思い出せない〜
数ある中からお話に巡り合っていただきありがとうございます。
「そろそろ“フォン”も結婚相手を見つける時期ですね」
兄のその言葉に、私は心の奥で小さく弾けた──。
リーベンタール伯爵家のダイニングルームには家族が集まり、楽しく団らんの最中。
父と母、2人の目の前には私と兄。
ジークハルト・リーベンタールは私の自慢の兄。
高身長で漆黒の短い髪。鍛え上げられた身体は凛々しく騎士そのもの。
「ジーク、学園のテストでまた1位だったんだって? この前、ヴァイゼンベルク伯爵に会った時にそう聞いたぞ。あそこのクラリッサ嬢はどうだ?」
「ジークは学園でも令嬢からよく誘われるって聞きましたよ。そろそろそういう時期かしら?」
嬉しそうに話しかける父と母。食事を取り終えた兄は朗らかな笑顔を両親に向けた。
「お父様、お母様、お気遣いありがとうございます。私もそうですが、そろそろ“フォン”もそういう時期ではないでしょうか?」
それを聞いた父も母も微笑みながら私の方を見た。
隣で一瞬兄を睨みつけたが、私も両親に笑顔を貼り付けた顔を向ける。
「お兄様は人気者ですもの。学園で見つけるといつも人に囲まれていますわ」
私は兄の話に戻そうとする。私も兄も両親からの言葉をのらりくらりと交わして、談笑を続ける。
壁際に立っている侍女と執事も微笑んでいる。
私たちの水面下の闘いに気が付く人はいなかったようだ。
「お父様、お母様、それでは失礼いたしますわ。さぁ、お兄様も──」
私は笑顔で退出を促した。
「そうですね。お父様、お母様、私もそろそろ失礼させていただきます」
兄はお辞儀をすると私と一緒にダイニングルームから出た。
廊下に出た途端に、私は真顔に戻る。
兄の袖を掴むと強引に引っ張り、部屋へと連れて行く。
部屋に入ると、すぐにドアを閉めた。
ドアを閉める私の背中に兄の声が飛んでくる。
「フォン、男の人を部屋になんて連れ込んではいけないよ」
くるりと向き直すと私は口をへの字に曲げて、怒っているアピールをする。
「男の人ですって? 残念ながら、お兄ちゃんはカウントしないの」
私は先ほどの言葉遣いとは打って変わってタメ口になる。口を尖らせて不満顔を兄へと向ける。
「フォンは怖いなぁ」
そう言いながらも、口元が緩んでいる兄。襟元を正してちらりと視線を投げかける。
私はそれを跳ね除けて、手を腰につけて怖い顔をする。
「それより、さっきの言葉は何?」
それを見た兄はわざとらしく肩をすくめる。
「何って言葉通りだよ。そろそろフォンは人生のパートナーを見つける時期だ。もちろん俺のお眼鏡にかなう相手じゃないといけないよ」
その笑みの裏に、どこか黒い影が滲んでいた。背中に冷たいものが走り、思わず身震いした。
「⋯⋯大丈夫だもん」
「心配だよ。俺にも何人か知ってる人がいるからさ、会ってみる?」
兄の覗き込んだ瞳に頷きそうになるのを堪える。
お兄ちゃんに頼ってばかりでいつまでたっても大人になれないわ。
「いいの! 私だけでも見つけられるわ」
私は鼻息を荒くして意気込んで見せた。
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学園で良い人を見つけよう。
クラスにも何人か良さそうだなと感じる人はいたのだ。
少し話してみてそれから、お茶をするという流れも悪くないだろう。
私はそう決めると、次の移動教室へ行くのに近道をする。
庭園を斜めに突っ切ると少しだけ早く着ける。そして出来た時間で、誰かに話しかけようと考えた。
鮮やかな色で存在感のある花。淡い色の可愛らしい花。庭園にはみずみずしい緑の茎や葉の上に色とりどりの花が咲いていた。
それを見ているだけでも癒される。
私は花を眺めながら笑顔が零れる⋯⋯と、すぐに笑顔を引っ込めた。
見覚えのあるあの姿。
お兄ちゃんだわ。何をやっているんだろう。
覗き込むと兄の奥にはクラリッサ嬢。
私は息を呑んだ。身体が石になったかのように全身の感覚が分からなくなった。
その間にもクラリッサ嬢は兄の言葉に笑っているようだった。
兄の顔は⋯⋯。
こちらに向いているのは見慣れた大きな背中。
兄が見ているのはクラリッサ嬢なのだ。
そこに兄の笑い声も聞こえる。私は花の匂いさえも苦く感じる。
無意識に髪の毛をいじリ始めた。
くしゃくしゃになった髪にやっと気がついた私は、胸に大きな重りが入った身体のようで上手く動かせない。
その身体を引きずるように前へと進む。私は何度もあの光景を思い出しながら歩いた。
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兄のように短い髪で、大柄な身体。それに堂々とした物言いは好印象に感じるヴォルフラム伯爵子息。
たまたま母のお茶会に来ていた伯爵夫人の知り合いの子息だそう。行動が早い母は私に聞くやいなや、縁談をセッティング。
そして目の前にはヴォルフラムがいる。
何でもはっきりとした物言いは聞いていて気持ちの良い話し方ですわね。
「ヴォルフラム様はどんな令嬢がお好みですの?」
ようやく切り出した本題。ヴォルフラムはにこりと笑顔を向けた。
「フォン令嬢のようにおしとやかで可愛らしい方が好みですね」
話している間、何度もクラリッサと兄の姿が脳裏に浮かんだが、それを掻き消すように微笑みながら相槌を打った。
話した感じだとヴォルフラム様の感触も良さそうね。
「それでしたら──」
私が口を開くと聞き覚えのある声。
「失礼ですが、フォンはどこにいますか?」
そこに現れたのは、なぜか縁談を勧めたはずの兄。
周りにいた侍女たちが兄の姿を目にして少し色めき立つ。
だが、眉をひそめるヴォルフラム。どことなく冷ややかと言うだけではない感情を兄に向けている。
兄はヴォルフラムに近づくといつもの柔らかい顔から一変、見たこともない“軽蔑”という言葉がしっくりきそうな顔に変わる。
「まさかヴォルフラム殿とうちのフォンが縁談をしているとは思いませんでした」
「こちらもこんな可愛らしい令嬢がジークハルト殿の妹君だとは存じ上げませんでしたね」
ぴんと空気が張り詰める。これから決闘でも始まるのではないかと気が気じゃない。
ヴォルフラムも肩に力を入れて一歩も動かない。
周りにいた侍女も執事もこちらの様子をしきりに伺っているようで顔が青白い。
大きく聞こえるため息をつくヴォルフラム。
「ではこの縁談はなかったことに──」
「もちろんです。もう一度、決闘をする気はないでしょう」
周りを一切窺う様子はない兄。ヴォルフラムの言葉に被さるように言い放つ。
そして私の方へくるりと向き直り私の腕を掴んだ。
私は息を呑み、目を丸くした。
あまりに驚いて声が出なかった。そのまま引きずられるようにお茶会から退席する。
今までの兄ではしたことがなかった強引な姿。
私が兄の袖を引っ張りこそはしたが、兄がすることは一度もなかった。
ずるずると引っ張られるようにして馬車のところまで歩いていく。
混乱して何も考えられない。
そして押し込まれるように馬車へと入れられる。
そこでようやく口を開いた。
「ちょっとお兄ちゃん!」
しかし、目の前の兄は身を硬くして、赤い顔をして怖い目をしている。
「あいつは駄目だ」
「駄目ってひどいよ」
なんでお兄ちゃんが怒っているよ。私が怒りたいわ。
私はヴォルフラムとのお茶会を邪魔されたのが嫌だったのではなかった。
クラリッサ嬢とあんなに仲良さそうにしていたのに、なんで私のことは否定するのよ⋯⋯。
溢れた気持ちで喉が押しつぶされそうになった。
「なんで⋯⋯私の縁談を邪魔するの? お兄ちゃんが縁談しろって言ったのに⋯⋯」
何とか言葉を絞り出すと、苦いものでも噛んだように私は顔を歪めて肩で息をする。
いつものように落ち着いていたらこんなことは絶対に言わなかった。でも、お兄ちゃんの話すクラリッサ嬢の笑顔を思い出したら、つい強く当たってしまう⋯⋯。
兄は肩をすくめなかった。いつもなら大げさに悪びれるのに、この時は大きく見開いた目は少し潤んでいて左右に小刻みに動いていた。
「⋯⋯」
いつもならすぐに何か返してくれる兄は言葉を失っている。
馬の蹄が地面に当たる音が一定の間隔で聞こえる。
私は下を向いて居心地の悪そうに手もみをする。
「あいつは侍女や使用人にも手を出しているようなやつだ。昔、知り合いの令嬢があいつの素行に困っていたのを知って、関係を綺麗にするよう持ちかけた。そしたらなんて言ったか分かるか?」
何かを思い出したのか窓の方を見て長く息を吐いている。
それは私に問いかけたのではない。その後に続く言葉が兄にとって受け入れがたいのものなのだろう。
『騙される方が悪い』
ひゅっと冷たい何かが通り過ぎた。
「その言葉にキレて俺はあいつと決闘をした」
肺が軋むようで、唾を飲み込んだ。まっすぐ目を見たら射抜かれてしまいそうで、慌てて顔を背ける。
いつもそうだ。
いつもピンチの時には駆けつけてくれる強いのに優しい兄。
昔から自分の意見をしっかりと持っている兄。
その優しさが私は好きだ⋯⋯“兄として”。
私は少しだけ兄の方へ目線を向けると、まっすぐこちらを見ている瞳と視線を交差させる。
このままお兄ちゃんの胸の中へと飛び込んでしまいそうになるわ。
なんでだろう、いつも兄に心を奪われたように感じる時に懐かしく感じる。
それを私はよく知っているみたいに感じるし⋯⋯お兄ちゃんの近くにいたいと思ってしまう。
これは⋯⋯これは⋯⋯違う。
ある言葉が頭によぎってストンと腑に落ちそうになった。
頭を振って深呼吸。
これはきっと“恋”なんかじゃない。
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あの日以来、ぼうっとしてしまうことが多くミスが目立つ。
気がついたら教室まで辿り着いていた。
私は周りも見ずに空いている席へと腰掛けた。
「あの⋯⋯」
そこへ覗き込んでいるオリーブ色の瞳。
「あなたは⋯⋯コンラート様?」
「名前を覚えていてくださって嬉しいです、フォン嬢」
頬を少し赤らめて照れている様子のコンラート・リーベンクネヒト伯爵子息。
コンラートはありきたりな質問をした。この学園についてや周りの学生、カフェテリアのことなど。
私はコンラートと話すうちにさっき感じたことを忘れて笑った。
それを見たコンラートは微笑んだ。
「やっと、笑った。なんだか元気がないように見えたんです」
「あ⋯⋯」
コンラート様は私に気を使って話しかけてくれたのね。
「妹に相談したら、“とにかく声をかけてみなさい”って背中を押されてね。話しかけてみて良かったです」
コンラートの優しさが心に沁みた。
妹さんがいるのね。コンラート様の背中を押してくれる頼もしい存在なのね。⋯⋯それに比べて私は⋯⋯。
押し込んだはずの感情が溢れてくる。
眉間に皺を寄せて涙が零れるのを堪えた。
コンラートは温かく見守ってくれた。
何も言わず目の前にそっと差し出してくれたハンカチをきっかけに私の気持ちが溢れ出す。
そのハンカチに顔をぎゅっと埋めて身体を何度も震わせた。
コンラートは静かにずっと私の隣に座り続けてくれた。
私はその時強く思った。
コンラート様ともっとお話したいわ。
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その後もコンラートとは何度かお茶をした。
その度にコンラートは手帳を持ってきて時折何かを確認している。
私はその仕草に少しずつ惹かれているような気がした。
それは兄には感じたことのない“ゆったりとした春の陽だまり”──。
強く心を焦がすものではないけれど、私の冷たく固まった心をじんわりと溶かしていく。
「フォン嬢、今度歌劇を見に行きませんか?」
「まぁ、それは素敵ですね」
彼は悲しいお話が好きではないようだ。見ていて楽しくなるようなお話が好きだと言っていた。
そして今日は目の前にチョコレートケーキ。
あるお茶会で出てきたチョコレートケーキに目を丸くした。
とても美味しいわ⋯⋯これをお兄ちゃんと⋯⋯いえ、コンラート様と一緒に食べたいわ。
私は残りのチョコレートケーキも口に入るだけ詰め込んだ。
その美味しいチョコレートケーキの話をコンラートにすると、すぐに取り寄せてくれた。
そして、取り寄せたチョコレートとともにお茶をする。
ケーキを食べていたコンラートの口元にチョコが付いた。
コンラートの口元に私はハンカチを添えた。目を丸くしたコンラートがこちらを見ているので、胸が変な高鳴りをする。
「前に頂いたハンカチのお礼にコンラート様が好きだと言っていた蝶の刺繍をしました」
「あぁ、なんてもったいない!」
珍しく声を上げるコンラートに目を瞬かせる私。
「あっ失礼しました⋯⋯せっかくフォン嬢が刺繍を施してくれたのにと思うと、つい⋯⋯ハンカチ、すごく嬉しいです」
少し少年のような透き通った瞳を嬉しそうに向けてくる。
じわり、と満たされていく。
「ふふっそれでしたら、また何枚かお作りますわ」
「本当に!? あっ⋯⋯⋯失礼しました⋯⋯」
赤らめたコンラートの顔から目が離せない。
私、この人の隣にもっといたいわ。
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この日、屋敷へと戻って両親と兄との夕食──。
「あの、私、コンラート様と婚約したいわ。いいでしょうか?」
「もちろんさ!」
「フォン、ようやく見つけたのね!」
両親は相好を崩して私を見る。
一人だけ浮かない顔の兄。
私はその表情に我慢ならない。
「お兄様、言いたいことがあるなら言ってくださいませんか?」
兄は考え事をしていたのか、頭をぱっと上げると目を見開いた。
「ぃ、いや、何もない」
兄の煮え切らない態度に、私は焦れったい。
「そんなことを言って、喜んでくれていないじゃないですか」
「ち、違う。そうじゃないんだ」
以前より遠く感じる兄。何かを必死で伝えようとしている。
お兄ちゃんが今何を考えているのか分からない。クラリッサ様とは何度か会っているみたいだし、自分だってそろそろ婚約するんじゃないの?
それでも私の感情が溢れてくる。
「お兄様から縁談する年頃だ、なんておっしゃってたのに⋯⋯」
なぜか目端から何かが流れる。熱い何かは頬を伝って地面に跳ねる。
私は何が言いたいんだろう。
ぎゅっと締め付けられた喉に苦しさを感じる。
⋯⋯痛みを感じているのは身体だけではなく、心かもしれない。
あ、これは気がついてはいけない。
急いで立ち上がるとお辞儀をして部屋を出た。
早く部屋に帰らないと⋯⋯!
私は前だけを見て部屋へと急ぐ。
兄が後ろを追ってきているのかも分からないまま無我夢中で足を前に出す。
ようやく辿り着いた部屋のドアに手をかけて勢いよく開けると、すぐさま閉めた。
私は肩で息をしていた。私しかいない部屋に、隠す必要がなくなる。
コンコンコンと弱々しいノックの音。
「フォン、おめでとう。これだけは伝えさせて⋯⋯誤解してほしくないんだ」
何が誤解なのかもう分からない。
私はベッドに顔を埋めた。
ここなら嗚咽も聞こえないはず。
私は身体を揺らして嗚咽を漏らした。
「フォン、すぐにお祝いの言葉を言えなくてごめんね」
そんな言葉が聞きたいんじゃない。
私は怒っているわけではないの。
燃え上がるようなこの感情は“怒り”ではない。
今すぐドアを開けてしまいたい。
前みたいに何も考えずにタメ口を使いたい。
もっとそばにいたい。
あなたの隣にいたい。
その胸の中へと飛び込んでしまいたい。
私は顔を上げて愕然とする。
気づいては、駄目⋯⋯。
目から涙が溢れる。次から次へと流れ出る涙を止めることは出来ない。
───────────────
静まり返った部屋に、キィとドアが開く。
フォンのベッドに近づくジークハルト。
涙の跡が残る頬。疲れて寝てしまったフォンを見て隣にそっと座るジークハルト。
ジークハルトは愛おしそうな目を向けて、そっと口から零れ出る本音。
「俺が君に前世で“恋人”だったなんて言ったら、どんなに驚くだろうか」
君とまた別の世界で巡り合うことになるとは思ってもいなかった。
姿は違っても君そのものだと直感した。
困った時に眉をひそめる仕草、心を開いた人には遠慮のない姿。そして笑った時のあの笑顔。
全然変わっていなかった。
君が妹だって知った時は心底驚いた。
⋯⋯もちろん葛藤もあった。
なぜ妹なんだと叫びたくなる時もあった。
ようやく落ち着いたと思っていたけど、君の口から他の男と“婚約する”と聞いたら、動けなかった。
君には“前世の記憶”は無いのにな。
ずっとそばに居たかった。
俺が幸せにしてあげたかった。
どうしても君を抱きしめたかった。そして俺の腕の中へ納めて俺だけのものにしたかった。
今はそれも叶わない。
だから君と前世で誓ったように、“君を幸せにする”にはその“誰か”を探す必要があった。
君はようやく見つけたんだね。
ジークハルトは遠慮がちにフォンの頭に顔を近づけた。
チュッ、と音を立てて髪に唇を優しくつけた。
「俺は君を愛している⋯⋯それは自分の心の中にちゃんと仕舞うから、それだけは⋯⋯どうか、許して⋯⋯」
そっと髪を一度だけ撫でる。
3秒、目に焼き付ける。
フォンから離した手を強く握りしめる。
踵を返してドアへと向かうジークハルトの立っていたところに残ったのは、想いを込めた、虚しいため息──。
そしてジークハルトは部屋から出ていった。
───────────────
目が覚めたら朝になっていた。
昨日は泣きつかれて眠ってしまったらしい。
ぼんやりした頭をゆっくりと持ち上げる。
夜に夢を見た気がする。
懐かしい誰かと過ごしたような⋯⋯。
温かな手で頭を撫でられて⋯⋯。
ずっと前から知っている誰かと会った、幸せなひととき、そんな気がした。
私は昨日部屋で考えていたことをふと思い出す。
ベッドの上に座り込み、頭を掻いてため息をつく。
するとカーテンの隙間から光が差し込んでくる。
眩しい⋯⋯。
私は目を細めた。
湧き出るような何かを感じる。
これはきっと“恋”なんかじゃない。
ぎゅっと目を瞑って、深く息を吸い込んだ。
「よしっ!」
自分自身に喝を入れる。
「お兄様には八つ当たりばかりしてしまったわ。後でお会いしたら謝らないといけないわ」
早くコンラート様にお会いしたいわ。
───────────────
朝食へ向かう途中の廊下で、兄に遭遇する。
涙で汚れた頬も泣き腫らした目も冷たいタオルで冷やしてなんとか落ち着けた。
今出来る一番いい笑顔を兄に向ける。
「おはよう、お兄様」
「⋯⋯あぁ、おはよう」
「昨日は取り乱してしまってごめんなさい。お兄様がお祝いしないはずがないですものね」
「⋯⋯うん、フォン、おめでとう。⋯⋯コンラート殿と上手くいくといいね」
私は兄の目の奥を探りたくて仕方がなかったが、その度にコンラートの顔を思い出すようにした。
もう戻っては駄目よ。私は進まなきゃいけないの。そう、誰かに背中を押されている気がするわ。
私とコンラートの交際は順調に進み、婚約もすぐに決まった。
両家で改めて顔合わせをして、穏やかな微笑ましい時間が流れた。
「フォン、婚約おめでとう」
兄の優しい目は変わらない。
強くて優しい私の自慢の兄。
「次は、俺も前に進まなくちゃな」
兄はそう言って少し笑う。
「クラリッサ様ではないのですか?」
「⋯⋯多分、そうだろうな」
私はコンラートの姿を見つけると、前の方で待っていてくれているコンラートの横に立った。
私とこの先の未来を共に進んでくれるあなた。
あなたとのこれからの約束をたくさんする。
兄とは違う穏やかで包まれるような温かな存在。
私はコンラートの手を取る。
じんわりと温かくなるのは手だけではない。
私はコンラートを愛おしげに見つめた。
次は愛を噛み締めたいわ。
「これからもよろしくね、“フォン”」
コンラートは頬を上気させてフォンを見ている。照れながらも笑顔を向けてくれる。
初めて“フォン”と呼び捨てで呼ばれて、春の風が私たちを包む。
「私こそよろしくお願いしますね、“コンラート”」
お読みいただきありがとうございました。
前世の恋人、今の兄妹。その揺れ動く心を上手く伝えられれば幸いです。
前世を知らないフォンはそれでも兄に対して大きく心を動かしました。
フォンの兄に対する態度はタメ口でしたが、最後には敬語へと戻っていく。
フォンを主人公として描きましたが、それを書く間、ずっと、兄のジークハルトを想像しながら書きました。
これからの2人の未来にも幸あれです!!
いつも誤字脱字をそっと教えていただく皆さま、ありがとうございます。こちらでも、またよろしくお願いします。




