久しぶりの我が家
網代笠に袈裟をまとい、錫杖を片手に、京都駅の雑踏の中、一人の男がゆっくりと歩いていた。
「……いったい…どこなんだ、ここは……」
橘勇真は、困惑した表情を浮かべた。
十三歳になると同時に比叡山へ修行に出され、それから五年——。
周囲を見渡すと、巨大なビルが立ち並び、すっかり様変わりした京都駅の構造——。
勇真が知っていた京都の街は、もはや異国のようだった。
ふと、彼の前に一人の老婆が立ち止まる。
「………?」
「お坊さん……ほんのお気持ちですが……どうぞ」
そう言って、小銭をそっと手のひらに乗せる。
「いや、あの……俺、別に——」
勇真が止めようとしたが、老婆は手を合わせ、拝みながら去っていった。
「………」
完全に托鉢僧と勘違いされている。
仕方なく歩き出すと、また別の老人が近寄ってきた。
そして同じように、小銭をそっと差し出し、拝んでくる。
「……あの、違いま……す……」
どうやら、この風貌のせいで完全に「托鉢僧」として見られてしまっているらしい。
「………」
諦めた勇真は、差し出される喜捨を素直に受け取りながら、改札を抜け、やっとのことでバスに乗る。
そして——ようやく橘本家の前に辿り着く。
「……懐かしいな……」
五年ぶりに見る我が家——。
しかし、目の前に広がるのは、無惨にも半壊した屋敷だった。
「……な、なんだこれ……?」
瓦が崩れ、壁には大きな亀裂が入り、柱の一部は折れている。庭には足場が組まれ、あちこちで修繕作業が進んでいた。
トン……トン……トン……。
大工たちが懸命にノミと金槌を振るい、崩れた屋敷を修復している。
「………」
「お坊さん、なんかようかい?」
不意に大工から声をかけられ、勇真はハッと我に返った。
「これって……一月前の霊障事件の時に?」
勇真が半壊した屋敷を見上げながら呟くと、大工は手を止め、目線を建物へと向けた。
「これか……? 確か事件の前に壊れたみたいやな……知り合いの家かい?」
勇真は一瞬、答えに詰まる。
家を追い出された自分に「自分の家」と言える資格があるのか——そんな迷いが頭をよぎったが、結局、誤魔化すように言葉を濁した。
「……まぁ、そんなところだ……ここの家の人は無事なのか?」
「たまに進み具合を見にきとるで。今は親戚の家におるみたいやな」
「……そ、そうか、ありがとう」
(……ってことは、東西南のどこかか……一番ここから近いのは東……)
勇真は半壊した橘本家を見上げながら、どこに避難しているのか考える。
しかし——
「……橘東家か」
ふと、ある記憶が蘇る。
——幼い頃、奈々にイタズラをしたら、仕返しに背後から音もなく忍び寄られ、首筋にナイフの刃を当てられたことがある。
(……ヒュッ)
勇真はブルブルっと身震いする。
——東家は最後にしよう。
そう決めた勇真は、まず橘西家を訪ねることにした。
***
橘西家の門前に立ち、勇真は錫杖を軽く鳴らしながら声をかける。
「すみませーん」
しばらくすると、門の奥から若い下働きの男が顔を出した。
「……ん? なんや、お坊さん?」
「いや、俺は——」
「托鉢か? すまんな、うちは余裕ないねん」
——バタンッ!
勇真が名乗る暇もなく、門が勢いよく閉じられた。
「………」
しばらく門の前で呆然としていたが、もう一度声をかけるのも面倒になり、次の橘南家へ向かうことにした。
橘南家——。
しかし、門の前に着いた勇真は、すぐに異変に気付いた。
「……留守か?」
門扉は固く閉ざされ、屋敷の中からも人の気配がない。勇真はため息をつき、振り返る。
結局、西家は門前払い、南家は留守。
このままではどこにも泊まる場所がない。
昼間に京都に着いたはずなのに、もう日は落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。
「はぁ……」
勇真は肩を落としながら、トボトボと歩き出した。
「……橘東家に行くか……」
もう選択肢はない。
「……これで誰もいなかったら……比叡山に帰ろう……」
そんなことを考えながら足を進めた、その時——
——ガサッ!
「……ん?」
勇真は足を止め、周囲を見回す。
——ガサガサガサ……!!
次の瞬間——
「——グギャアアァァ!!」
唸り声とともに、影が勢いよく飛び出してきた。
それは——山猿の妖だった。
大きく裂けた口から鋭い牙がのぞき、血走った目で勇真を睨んでいる。
「ちっ、妖か……」
勇真は素早く後退し、錫杖を構える。
山猿の妖は四足の姿勢で地面を蹴り、驚異的な速さで勇真へと跳びかかった。
——ズバァン!!
勇真は咄嗟に身をかわし、地面を蹴って間合いを取る。
「……なるほど、比叡山の猿とは違って、こっちはだいぶ気性が荒いな……」
山猿の妖は再び地面を蹴り、勇真へと飛びかかる。
だが——
「遅い」
勇真は冷静に錫杖を構え——
指を素早く組み合わせ、印を結んだ。
「……オン・アビラウンケン・バザラダトバン……!」
大日如来のマントラを唱えると、勇真の周囲に黄金の光が揺らめく。
山猿の妖がその光に触れた瞬間——
「ギャァァァ!!!」
悲鳴とともに、妖の身体が弾かれるように後方へ吹き飛ぶ。
勇真は静かに目を閉じ、もう一度印を結ぶ。
「光明遍照——」
その言葉とともに、勇真の足元から純白の光が広がった。
その光が山猿の妖を包み込むと——
——スゥ……
まるで朝霧が晴れるように、その姿はゆっくりと消えていった。
「……ふぅ」
勇真は軽く錫杖を鳴らし、印を解いた。
すっかり静かになった道の上、勇真は大きく息を吐く。
「……比叡山に帰るのもアリかもな……」
そんな弱音を吐きながら、それでも勇真は歩き出した。
向かう先は——橘東家。
勇真はゆっくりと歩き出した。
ここで誰にも会えなかったら、本当に比叡山へ戻ろう——そんなことを考えながら、勇真は橘東家の門を叩いた。
——コン、コン。
しばらくすると、門の奥から足音が近づき、小さな窓が開いた。
「……なんや? こんな時間に」
門の隙間から顔を出したのは、若い下働きの男だった。
「俺だ、橘勇真だ。親父に呼ばれて今日、比叡山から戻ってきた」
男は眉をひそめ、じろりと勇真を舐めるように見た。
「……橘、勇真……? いや、そないな話は聞いとらんなぁ」
「……マジか」
『なんで話が伝わってないんだよ』と内心で悪態をつきつつ、なんとか門を開けてもらおうと続けた。
「親父の許しが出て、今日戻ってきたんだ。おそらく話は通ってるはずなんだが」
「……ちょっと確認してくるから、ここで待っといてくれ」
男は納得したのか、門を閉めると、足早に屋敷の奥へと向かっていった。
勇真は一人、門の外に取り残される。
(……ここで待っとけって、どれくらいかかるんだよ)
仕方なく門の前でぼんやりと待っていると——
カツ、カツ、カツ……。
勇真が振り向くと、そこには紗月、奈々、莉乃の三人が並んで歩いていた。
「……ん?」
紗月は門の前に立つ勇真を見つけるなり、ゲンナリした顔で言った。
「げぇ、勇真やんか……」
「……あ? もしかして紗月か……?」
「そうや。こんなとこで何してん? 早う入り」
勇真は、一瞬戸惑う。
さっき門番の男に「待っといてくれ」と言われたばかりだ。
しかし、紗月はそんなこと気にもせず、ズカズカと近寄ってくる。
「え、でも……まだ——」
「何言っとんの? 早う入り」
勇真の躊躇をよそに、紗月は当然のように門を開け、勇真の背を押した。
「お、おい——」
「ほら、はよ!」
ズルズルと押し込まれ、勇真は橘東家の玄関へと足を踏み入れる。
「……お邪魔します」
屋敷の中へ入ると、奥の方からバタバタと人の気配がした。
すると、先ほどの門番の男が、血相を変えて何人かの使用人とともに小走りで現れた。
「勇真様!? ほ、本当にお戻りになられたんですか……!」
勇真が昔見たことのある年嵩の女性も一緒にいた。彼女は何か思い出したように目を見開き、そして妙にビクビクしながら頭を下げた。
「勇真様、本当に申し訳ありません。今日お戻りになるという話が、皆に行き届いておりませんで……!」
「あぁ、別に気にしてない」
勇真は笠と錫杖を外し、そばの使用人に預ける。そして、さほど気にした様子もなく、玄関の段差に腰を下ろした。
「……ふぅ」
その穏やかな仕草に、使用人たちは互いに顔を見合わせた。
(…あの勇真様が、素直に話を聞いて……?)
(もっとこう、荒っぽい感じやと思っとったんやが……)
まるで、昔とは別人のように落ち着いている。
そんな周囲の視線を気にすることもなく、勇真は旅の疲れから解放され、ホッと息をついた。
そして、そのまま無意識に——
「……やったべぇぇぇぇ……」
ポツリと、小さな声で呟いた。
「「…………」」
周囲が一瞬、静まり返る。
「……え?」
——莉乃が目を瞬かせる。
——奈々は黙って勇真を見つめる。
——そして、紗月は眉をひそめた。
「……勇真、今、なんて言うた?」
「え?」
「……今、『やったべぇ』言うたやろ?」
「……え? 言ったか?」
勇真は、自分の口から出た言葉を思い返し——
(……ん? 俺、今、何て言った……?)
記憶をたどると、どうやら「やったぜ」的なことを言ったつもりだったらしい。
だが、どういうわけか無意識のうちに、田舎っぽい訛りが混じってしまったらしい。
「いや、俺がそんなこと言うわけ——」
「いや、言うてた」
「うん、言ってたよ」
「……言った」
三人から畳みかけるように言われ、勇真は言葉に詰まる。
「五年も山篭りしとる間に、とうとう訛り出したんか?」
「いや、してねぇし!!」
勇真は慌てて否定した。
が、奈々も莉乃もクスクスと笑っている。
「……はぁ……」
勇真は眉間を押さえながら、深々とため息をついた。
(……もう、なんなんだよ……)
こうして、勇真の五年ぶりの京都の夜は——微妙な形で幕を開けたのだった。




