帰り道
「莉乃、奈々ちゃん、今日はほんまありがとう」
京都支部で紗月の誕生会を終えた三人は、すっかり暗くなった鴨川沿いの道を歩いていた。
川面には月が映り、遠くからは時折、カエルや虫の鳴く声が聞こえる。
「ケーキ美味しかったね! どこのケーキだろ?」
「……」
奈々も気になったのか、首を傾げながら紗月を見上げる。
「祇園の『甘華堂』やて。あそこの和栗モンブランは絶品や」
「また食べたいな〜!」
「……食べたい」
紗月、莉乃と奈々は楽しげに会話を弾ませる。
しかし——
「……ねぇ、あれ……」
不意に莉乃が後ろを振り返った。
少し離れた場所を、一人の男が歩いていた。
サングラスにマスク、帽子という完全な不審者スタイル。しかも、ずっと無言で一定の距離を保ちつつ、ついてきている。
「……あの人、支部でもずっとあの格好だったよね。一言も喋らないし…紗月お姉ちゃんの友達?」
「違う。あんな人友達やない。でも、凄い有名人みたいやで」
「えっ、誰?気になるんだけど……?」
「ま、明日、学院に行ったらわかるわ。今日も大騒ぎになっとたからな」
莉乃は不満そうに口を尖らせた。
「えぇ〜、気になる!」
「明日のお楽しみや」
「……でも…あの人のことじゃなくて……最近、変な気配多くない?」
「そうやなぁ……前よりも妖の気配、濃なっとる気がする」
奈々は少し後ろを歩きながら、静かに頷いた。
小さな橋のたもとに差し掛かったとき、奈々が足を止めた。
「……あそこ」
奈々が指差した先――
川辺の石畳の上で、ひとつの影が、ゆらりと揺れていた。
淡く滲む輪郭。
人でも、獣でもない。
――妖だ。
紗月は、反射的に懐へ手を伸ばした。
だが――
(紗月、待って)
頭の奥に、清雅の声が差し込んだ。
(……今それ言う?)
霊符を構えたまま、紗月は困惑する。
(とりあえず滅する前に、よく見て)
(なんで?)
(全部の妖が、人に害をなすわけじゃない)
紗月は、わずかに視線を細めた。
確かに――
その妖は、こちらに敵意を向けていない。
威嚇もない。
霊圧の高まりもない。
ただ、川辺を漂うように、揺れているだけ。
まるで――
何かを探しているかのように。
紗月は、霊符を下ろした。
(……確かに。妙やね)
(でしょ)
清雅の声に、どこか満足げな響きが混じる。
「……さまよってるみたいやな」
「紗月お姉ちゃん、大丈夫?」
少し不安げに莉乃が問いかける。
「うん、大丈夫や」
紗月はゆっくりと歩み寄り、石畳の上に揺れる影を見つめた。
そこにいたのは、年老いた男の妖——
しわの刻まれた顔、優しげな目元。だが、その姿はどこか寂しげだった。
「……なぁ、おじいさん。何か探してるん?」
紗月が静かに問いかけると、妖はかすかに顔を上げた。
揺らめく影が、川の向こうへと手を伸ばすように指さす。
「……あっち?」
莉乃が首を傾げる。
そのとき——
「下がっていろ」
不意に冷たい声が響いた。
離れた場所にいたはずの青山颯が、いつの間にか紗月の隣に立っていた。
彼の手のひらには、空気が渦巻き、まるでそのまま力を発動させるつもりだった。
「やめてや」
紗月が、はっきりとした声で制した。
「……なぜ止める?」
「見てみぃ」
颯が一瞬、訝しげな表情を浮かべる。
妖は、再びゆっくりと川の向こうを指さしていた。
紗月たちがその先へ視線を移すと、小さな祠が見えた。
「……あぁ、なるほど……この川を、渡りたかったんやな」
妖はかすかに揺らめきながら、小さく頷いたように見えた。
「そっか……ほんなら、一緒に行こか」
紗月は、ゆっくりと橋の方へと歩き出す。
その後ろを、妖がふわりと浮かぶようについていく。
だが、橋の前で、ピタリと足を止めた。
妖が、それ以上先に進まない。
「……?」
紗月が振り返る視線の先、橋の入り口にある親柱に五芒星の霊符が貼られていた。
「……これ……」
奈々が呟く。
莉乃がじっとそれを見つめ、静かに言った。
「霊障事件のとき、大阪支部の人たちが、鬼が鴨川を越えないように防御結界を張ったやつだ……」
そう、ここに残されている霊符は、鬼を封じるための結界。
それがまだ残り、妖を通さない障壁となっていたのだ。
「……帰れなくなっちゃったんだね」
莉乃がぽつりと呟く。
妖は、橋の向こうをじっと見つめていた。
あの祠へ行きたいのに、行けない。
それだけで、どれほどの時をここで過ごしていたのか。
紗月は、そっと手を伸ばした。
「……大丈夫や」
指先で霊符の端をつまみ、静かに力を込める。
微かな霊気が揺れ、霊符の表面に刻まれた五芒星の印がじわりと薄れていく。
紗月は慎重に霊符を剥がし、それを掌に収める。
「……もう、行けるで」
柔らかな風が吹き抜け、結界の境界が静かに解かれていった。
その瞬間——
妖がゆっくりと橋を渡り始める。
歩みを進めるにつれ、その姿は少しずつ薄くなっていく。
——まるで、それが正しい道だったかのように。
やがて、祠の前にたどり着くと——
すぅ……っと、光の粒となって消えていった。
「……」
莉乃と奈々が、そっと手を合わせる。
「……帰れたみたいやな」
その瞬間、川面がふわりと輝き、月の光が一段と冴えた。
——まるで、妖が最後にお礼を伝えたように。
静かになった川沿いの道を、三人は歩いていく。
莉乃が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、今日、勇真が京都に戻ってくるって言ってたよ」
「えっ?」
紗月の足が止まる。
「帰ったら、家にいるかもね」
「……ほんま……?」
紗月の表情が、一気にげんなりとしたものになる。
「あいつが……?」
「……うん……」
「……うち、帰るのやめよかな……」
「うぅ〜、私も会いたくない……」
「……奈々、平気」
夜の風がそっと吹き、三人の笑い声が静かな川辺に溶けていった——。
***
青山颯は、彼女たちの背中をじっと見つめていた。
川沿いの道を並んで歩く姿は、どこにでもいる普通の女の子に見えた。
——危険因子。
颯は、その言葉を頭の中で繰り返す。
——橘紗月。
異能管理庁から、彼女の監視を命じられた時、その処置の内容に驚愕した。
——『危険因子としての管理目的』——
それが、橘紗月が十八歳未満で、陰陽師協会入りする理由として正式に記載されていた。
前代未聞の特例処置だった。
陰陽師協会は、強力な術者を積極的に迎え入れる組織ではあるが、それはあくまで「人材」としての話だ。危険人物を「管理するために受け入れる」という処置は、これまでに例がなかった。
危険人物とは、一体何をしたのか——?
颯は、異能管理庁からの報告書を思い出す。
そこには、たった一行だけこう記されていた。
『対象は、危険度の高い術を行使した。詳細不明』
それだけだった。
詳細が不明——?
異能管理庁は、人の動向を徹底的に監視し、特別な能力のある人間を分類し、社会への影響を管理する機関だ。その庁が「詳細不明」と記すほどの事態とは、一体どれほどのものだったのか。
颯は、その想像の中で『橘紗月』という少女を作り上げていた。
危険な術者。
制御不能な存在。
何かを滅ぼすほどの力を持つ陰陽師——。
そんな少女を監視し、場合によっては『抹殺』しなければならないのかもしれない。
彼はそう思っていた。
だが、今目の前にいる橘紗月は、それとはまるで違った。
颯の目には、妖に対して霊符を構えながらも、すぐに祓わずに迷う姿が焼き付いていた。
『……さまよってるみたいやな』
あの時の声は、どこか優しく、迷える存在を慈しむようだった。
『……なぁ、おじいさん。何か探してるん?』
討伐すのが当たり前の対象に対して、彼女はあたたかく問いかけていた。
祓うどころか、結界を解き、最後まで妖の意思を尊重した。
———危険な陰陽師?
……あの少女が、本当に「危険因子」なのか?
異能管理庁が認識している『橘紗月』と、颯が目の前で見た少女——
その二つのイメージが、全く一致しない。
颯の眉がわずかに寄る。
彼は、陰陽師ではない。
陰陽師協会に関わることすら、本来ならあり得なかった。
だが——異能管理庁が、彼をここへ派遣したのは、橘紗月の「監視」と「調査」、状況によっては「暗殺」が目的だった。
『お前が直接観察し、彼女が”社会に害を与える存在”かどうかを見極めろ』
だから、颯はここにいる。
監視者として。
——だが、本当に監視すべき対象なのか?
夜空には、静かに月が浮かんでいた。
その月光の下、少女たちはただ普通に笑いながら歩いている。
颯は黙って、夜の風を感じた——。




