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橘 勇真、都へ

 ——平安の都。


 大路に並ぶ商家の屋根は朱塗りの瓦を輝かせ、行き交う貴族たちは華やかな衣をまとい、牛車がゆるりと進む。


 そんな都の喧騒に、不釣り合いなほど素朴な男がひとり、歩いていた。


——与平よへい


 名もなき山村の五男坊。飢えを逃れるため、家族の食い扶持を減らすため、遥々と都へ出てきた。


「おら、ここで侍さなる……!」


 都の大路に面した掲示板を見上げる。そこには、幾つもの屋敷が郎党募集の張り紙を貼っていた。


 与平は拳を握りしめた。


「おらも都で名を上げっぞ!」


——だが、現実は甘くはなかった。


 都の屋敷で郎党の面接を受けるため、与平は長い行列の中に並んでいた。


 前の者たちは一人ずつ呼ばれ、厳しい審査のもと、次々と振るい落とされていく。


 やがて、与平の順番が来る。


「次の者、入れ!」


 大きな声に促され、与平は緊張した面持ちで門をくぐる。


 待ち構えていたのは、堂々たる体格を持つ偉丈夫な武士。


「……そこの庭石を持ち上げてみよ」


 男が指差したのは、屋敷の庭に据えられた大きな石。


 普通の者なら動かすことすらできない重量物である。


 与平は一瞬きょとんとした後、庭石の前に進み——


「ふんっ!」


——ズシンッ!


 庭石が軽々と持ち上がる。


 その場にいた試験官たちが目を見開く。


「な、なんと……!」


「こやつ、化け物か……!?」


 一瞬、静寂が走るが、次の瞬間、周囲がざわめき始める。


「すごい力だ! これほどの男を逃すのは惜しいぞ!」


「これは期待できる!」


 試験官たちは口々に驚きの声を上げ、武士の男も感心したように頷く。


「よくやった、お主、名は何という?」


 与平は大きく息を吸い込み——


「おら、与平だっぺ!」


「……なぬ?」


 武士の眉がピクリと動く。


「もう一度、申してみよ」


「与平だっぺ!!」


「……いや、すまぬが、まるで聞き取れぬ」


 与平は何度も名を名乗るが、男は困惑した表情を浮かべるばかり。


「与平だっぺ!」


 何度繰り返しても与平の田舎訛りはまったく解読できない。


 試験官たちは顔を見合わせ、困惑の表情を浮かべる。


「これは……困ったな……」


「強いのは確かだが……命令が伝わらねば戦場では使い物にならぬ……」


「……おい、悪いが、お主、どこから来た?」


「おら、山奥の村っこから来たべ!」


「……駄目だ、何を言っておるのか、さっぱりだ」


 結局、試験官たちは悩んだ末——


「実技は見事合格だが……言葉が通じぬのでは仕方ない。すまぬが、不採用とする」


 与平は、がっくりと肩を落とす。


「おら……なんも悪ぐねぇのに……」


 試験官たちも残念そうな顔をしていたが、言葉が通じない以上、どうしようもなかった。


 与平の田舎訛りはあまりにも酷く、誰一人として彼の言葉を理解できなかった。


 落ち込む与平は、最後に一軒だけ残っている屋敷の前に立った。


『藤原家 郎党募集』


 都でも有力な貴族、藤原の一族の屋敷である。


「ここでダメなら、山に帰るべ……」


 そう決意し、門を叩いた。


「——何用じゃ?」


 現れたのは、武士のような佇まいの男。


 与平は姿勢を正し、必死に訴えた。


「おら! 侍さなりでぇ! よろすく頼むべ!」


 男の眉がピクリと動く。


「……何を言っている?」


「だから、あれだ! おら、戦さ場さ出でぇ!」


「……まったくわからぬ。帰れ」


「おらぁ、つえぇんだ! 里じゃ猪さも倒したことあっぺ!」


「……だめだ、無理だ」


 男はため息をつき、門を閉めようとする。


「お待ちなさい」


——その声が響いたのは、そのときだった。


 現れたのは、艶やかな黒髪を風に揺らす美しき姫君。


 藤原家の姫君、月姫つきひめであった。


「何事ですか?」


 男は慌てて頭を下げる。


「この者が郎党に志願してきたのですが……いかんせん、何を申しているのか理解できませぬ」


 月姫は興味深そうに与平を見つめた。


「あなた、お名前は?」


「与平だっぺ!」


「ふふ……元気なお方ですね」


 月姫は微笑みながら、郎党の面接官に視線を戻した。


「それで、なぜ雇わないのですか?」


「申し上げました通り、言葉が通じませぬ。このような者を雇っては、命令すら届かぬでしょう」


「言葉は覚えればいいではありませんか?」


「……しかし、姫様……」


「初めてのことは、誰にとっても難しいものです。ですが、頑張ればできるようになります。そうでしょう?」


 与平は、月姫の優しい声に胸を打たれた。


「おら! 命懸げでがんばるっぺ!」


「ふふ、よいお返事です」


「……しかし、姫様……」


 面接官はなおも難色を示したが、月姫は静かに微笑んで首を振った。


「大丈夫ですよ」


 男は一瞬ためらうが、月姫に逆らうわけにはいかない。


「……御意」


 こうして、超田舎者の与平は藤原家の郎党として雇われることになった。


 与平は拳を握りしめ、満面の笑みを浮かべた。


「やったべぇぇぇぇ!!」


「ふふ。まずは、言葉を覚えるところからですね」


 月姫の優しい笑顔が、与平の胸に深く刻まれた。


——比叡山の寝所。


「勇……、勇真…、勇真殿……」


 襖の向こうから、誰かが優しく呼びかけていた。


 しかし、布団の中の勇真は、夢の中——


「やったべぇぇぇぇ!!」


 自分の寝言に驚いて、ガバッと起き上がる。


「な、なんだっ……!?」


 荒い息を整えながら、勇真はしばらく天井を見つめた。


(……なんだ、夢か……)


 寝ぼけた頭で考える。


 都に出て郎党になろうとする夢だったような……?


 誰かに「言葉は覚えればいい」って言われたような……?


 だが、そんな記憶はすぐに霧散する。


 襖の向こうから、若い僧の声が聞こえた。


「勇真殿、本日より京都へ戻られると聞きました。なんでも、帝陰学院に通われるとか?」


 勇真は眠たげな目を擦りながら、襖を開ける。


「……あぁ、そうだ。」


「しかし、残り一年もないのに……なぜまた?」


 若い僧は不思議そうに首を傾げる。


 勇真はしばし沈黙した後、ぼんやりと朝の山の空気を吸い込んだ。


「……色々あってな」


 若い僧は、それ以上は聞かずに頷いた。


 勇真は深く息をつき、比叡山の境内を歩いた。


 あの日、反抗的だった自分。


 何もかもが面倒で、理不尽に思えて仕方なかった修行の日々。


 けれど、今はどうだ?


 後ろを振り返ると、僧たちがそれぞれの修行に励んでいる。


 座禅を組み、棍棒を振り、ある者は黙々と読経を続けていた。


 その中に、かつての自分のようにやる気のない若い僧がいるのを見つけ、勇真は小さく笑った。


(……ま、俺も最初はこんなもんだったか)


「勇真殿!」


 振り向くと、同門の僧たちがこちらへと駆け寄ってきた。


「今日で本当にお別れですね。京都へ戻られるとは、寂しくなります」


「帝陰学院というのは、陰陽師の学び舎だとか。僧から陰陽師へ……少し不思議な気もしますが……」


「比叡山の修行と比べたら、学院の勉強なんて楽なものでしょうね!」


 次々と声をかけられる中、勇真は苦笑いを浮かべた。


「……どうだかな。俺には、比叡山の方が性に合っていたかもしれん」


「ですが、師僧様もおっしゃっていましたよ。『学びの場はひとつではない。都に戻ることもまた修行なり』と」


「………」


 朝から晩まで座禅、読経、武術の鍛錬……日々を生きるだけで精一杯だった。


 だが、それだけに、心は研ぎ澄まされ、迷いも消えていた。


「……京都に行ったら、また違う迷いが生まれるかもしれないな」


「その時は、また比叡山へ戻ってきてください!」


 僧の一人が笑いながら言うと、皆がそれに続いて頷く。


「勇真殿なら、いつでも歓迎いたしますよ!」


「……ああ、機会があればな」


(まずは、京都へ戻ることだ……)


 橘勇真は決意を新たにし、境内を後にした。

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