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父の遺言

夜の帳が下りる中、橘東家の広々とした屋敷の一室に、二人の男が向かい合って座っていた。


橘宗近たちばなむねちか——橘本家の当主。

橘東桂一きっとうけいいち——分家の橘東家を率いる男。


本家である宗近の邸宅は、鬼との戦闘で破壊され、現在は改修工事の最中だった。そのため、宗近も広い屋敷を持つ、桂一の元に身を寄せていた。


「……まだ彩花様は見つかりませんか?」


宗近はおもむろに懐からスマートフォンを取り出し、画面を桂一に向けた。


そこには、一通のメールが表示されていた。


『元気にしてるから心配しないで』


差出人は、彩花。


「このメールが届いたのは、一月前だ。すぐに返信したが……その後の連絡はない。」


「それが最後の消息……ということですか。」


「そうだ。」


桂一は眉をひそめ、厳しい表情を浮かべた。


「和助が言うには、一月前に大阪のコンビニで彩花らしき少女を見たという情報があった。だが、それ以降の足取りはつかめていない。」


「……陰陽師協会には?」


「既に通達している。各支部に捜索を依頼し、協会の者たちも協力してくれている。」


「それは……何よりですな。」


彩花はどこにいるのか——


その答えは、未だ霧の中だった。


「……話は変わりますが。」


先に沈黙を破ったのは桂一だった。


「実は、陰陽師協会から奈々を推薦したいとの申し出がありました。研修生として預かり、育成したいとのことです。」


「……奈々を、か。」


「どう思われますかな?」


「……実は、陰陽師協会からは、紗月についても同じ打診があった。」


「おや、それは……」


桂一は少し考え込んだ後、改めて口を開いた。


「でしたら、以前にも一度申し上げましたが……この機に、紗月を橘北家の当主に据え、橘北家を再興させるべきではありませんか?」


宗近の表情が僅かに険しくなる。


「……。」


「東西南北、すべての分家が揃ってこその橘本家。」


桂一の話には、理がある。


「雅彦様も彩花様も、この先どうなるかわかりません。勇真様が戻るとはいえ……比叡山で改心され、素直に成長されているかどうか……保証はありませぬぞ。」


「……。」


明確な反論はない。


だが、その沈黙こそが、宗近の迷いを物語っていた。


「…以前から思っておりました。」


「何か思案があるのかと思い、今まで聞きませんでしたが——。」


「なぜ、紗月を陰陽師にしないのですか?」


「……。」


「……かと思えば、帝陰学院には通わせる。」


「橘北家が本家を裏切り、制裁として断絶されたかと思えば——」


「紗月の母、美紗子殿は、病院の費用まで出して保護されている。」


「矛盾することばかりではありませんか?」


その言葉に、宗近は目を閉じ、ゆっくりと口を開いた。


「……すべては、父の遺言なのだ。」



——14年前、橘本家にて。


橘本家の庭園には、穏やかな夕暮れの光が差し込んでいた。


「……父上、お話とは?」


橘宗近は、整った姿勢のまま、書斎へと足を踏み入れた。


机の向かい側には、当主・橘宗重たちばなむねしげが静かに座っている。


机の上には、禍々しく揺らめく黒い玉と、一枚の書状。


「……宗近、お前に伝えねばならぬことがある。」


「……何でしょうか。」


宗重は、一度目を閉じた後、ゆっくりと筆を取り、机上の書状に何かを書き加えた。


「これは、わしの遺言と思え。」


「父上……?」


宗重は、筆を置き、静かに口を開いた。


「宗近。橘北家は断絶する。そして、その後の再興は許さん。」


「……!?」


「紗月は橘本家で引き取る。決して紗月に陰陽術を教えてはならん。」


宗近は思わず身を乗り出した。


「……橘北家が断絶…?」


「………。」


「何故です。何があったのですか?」


橘北家は、代々、陰陽術の名門として存在してきた。それがいきなり滅びる?


「……理由は問うな。」


「……っ!」


「橘北家は、本家を裏切ったことにする。」


「……そんなっ!!」


「………。」


「ですが、それでは——」


「宗近、お前は明日から、東京の陰陽師協会に行け。」


宗重の声には、絶対の決意が込められていた。


「……し、しかし、正成や美紗子殿はどうなるのですか……?」


「……京都を離れ、一般人として静かに暮らしてもらう。本家で生活費は用意する。そのことは、私から直接伝えるつもりだ。」


宗重はそう言うと、ふと視線を机上の黒い玉へと落とした。


「……これを使う日が来なければいいのだが……。」


——宗重自身も迷っていた。


——だからこそ、決断を下した。


「宗近……お前がどう思おうと、これは橘北家を、しいては紗月を守るための決断なのだ。」


「……。」


彼は、父の真意を完全に理解することはできなかった。しかし、それでも父の決定に従うしかない。


———「橘北家は滅びる。そして再興させてはならん。」


———「紗月は本家で引き取る。しかも、陰陽術を教えてはならん。」



宗近の口から語られた事実に、桂一は驚愕した。


「……橘北家が、本家を裏切ったと聞いておりましたが……では、それは……」


「父が……和助に命じて、わざとその噂を流させたのだ。」


「……!!」


桂一の顔が一瞬、固まる。


「……では、一体なんでそんなことを……?」


「…父は、何かを隠していた。」


「……何を、です?」


「それは私にもわからない。だが……何者かから、橘北家を、紗月を守るためだったのは間違いない。」


桂一は、畳を叩いた。


「……なんてことだっ……!!」


強い怒気が滲んだ声だった。


「おかしいと思っていたのです! あれほど忠義に厚かった正成殿が、本家を乗っ取ろうとしたなど、あるわけがない……!!」


「……」


「正成殿は、本家に誰よりも忠実だった。 それを裏切り者だと……!」


「……。」


「……では、その後…何者かに橘北家は襲撃され、正成殿は殺され、美紗子殿は廃人になられた。襲撃されることを、宗重様は知っていたということですか?」


「……橘北家の襲撃の夜、私は父の使いで、東京の陰陽師協会を訪ねていた。」


「……!」


「だから……その間に何が起きたのか、私にはわからない。」


桂一は息を詰まらせた。


「しかし、父に問いただしても……逃げるように話したがらなかった。」


「……そんな……!」


「だが……父の顔は、何かに怯えていた。 それだけは、確かだ。」


桂一は、拳を握りしめたまま、しばし沈黙する。


「……お前は、橘北家を再興すべきだと思っているのか?」


「はい。」


「橘北家を再興させることでこそ、正成殿の汚名をそそぐことができる。 それに——」


「……それに?」


桂一は、宗近を真っ直ぐに見据えた。


「……紗月は優秀です。橘家を繁栄させる陰陽師になるでしょう。」


宗近は、沈黙した。


14年前の、父の言葉が蘇る。


「……紗月には、陰陽術を教えてはならん。」


「……橘北家を再興させてはならん。」


その遺言が、いまだに宗近を縛っていた。


「宗近様。」


桂一の声が、低く響く。


「橘の未来は、本家だけのものではないのですよ。」


宗近は、深く息を吐きながら、瞼を閉じる。


(……父上、私は……)


紗月の姿が脳裏に浮かぶ。

昔、幼い紗月が、霊符を書きながら無邪気に笑っていた光景。


(……本当に、これで良いのか……?)


そして、ゆっくりと吐息を漏らしながら——


「……わかった。紗月を協会に預けよう。奈々も経験を積ませればいい……それと、橘北家も再興させる。」


——夜の静寂が、二人の間を満たしていた。

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