Epi 村瀬紅子
———夏の昼下がり。
窓の外では、じりじりと照りつける日差しが京都の街並みを照らしていた。
帝院学院に設置されていた臨時の対策本部は、事態の収束に伴い京都市役所へと移され、そこに設けられた一室で、村瀬紅子は冷たいお茶を口にしていた。
部屋には、エアコンの微かな音と、窓の外から聞こえる蝉の声。
卓上の時計に視線を向ける。
時刻は14時23分。
(……約束の時間は14時……遅いわね……)
お茶を飲み干し、グラスを静かにテーブルに置いたその時——
ガチャリ。
入ってきたのは、陰陽師協会の長官、安倍輝守だった。
「待たせてすまないな、村瀬」
紅子はすぐにソファから立ち上がり、一礼した。
「いえ、長官もお忙しいでしょう。気になさらないでください」
「……はぁ……まあな……マスコミの対応は疲れる……」
輝守はため息をつくと、ソファの前まで歩み寄り、片手を軽く動かした。
「座ってくれ」
輝守は無言のまま部屋に備え付けの冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を取り出した。
「……橘紗月に変わりないか?」
「はい、特に変わりはありません……」
紅子は現在、紗月の監視役を兼ねて橘東家に泊まり込んでいる。
霊障事件後、輝守の命令で、紅子は紗月の動向を監視することになった。
その理由は明白だった。
——霧島賢治の報告にあった「神降ろし」。
——輝守自身が目にした、千紘を圧倒する異常な戦闘力。
——千紘が語った、雷神の召喚という前代未聞の現象。
——平安時代の伝説的な陰陽師。『白鴉』が取り憑いているという理解しがたい状態。
これらすべてが、紗月という少女の存在を“超危険人物”へと押し上げた。
輝守にとって、『橘紗月』という存在は霊障事件以上に厄介で、頭を悩ませる問題となっていた。
そのため、彼女の正体は秘匿事項として扱われ、知る者は輝守、土御門、賢治、紅子、千紘、そして橘家の少女二人のみに限られた。
もっとも、関係者の間でも情報の共有に多少のばらつきがあった。
それと、千紘は何故か異様なほどに協力的だった。
(……千紘の協力的な態度が、気になるといえば気になるが……)
輝守はそう思いながら、封を開けたばかりのペットボトルの水を一口飲んだ。
「……ただ…。」
紅子が言葉を濁すと、輝守はすぐに察したようだった。
「ああ……本家の子、橘彩花か……」
「はい……そのことでだいぶ気落ちしています」
「まだ、見つからないのか……?」
「ええ……」
「土御門さんのところの人手を借りて、鞍馬山一帯を探しましたが……まだ見つかりません」
懸命に探している——だが、手掛かりすらつかめない。
「……例の鬼に連れて行かれたか……」
紅子は視線を落とし、唇を噛みしめた。
「……はい、恐らくは……」
「……村瀬……お前の責任じゃない……気を落とすな」
「……ですが……」
「松江の霊障事件以来、京都支部を動かしてなかったのも裏目に出たな……今更だが、人員をもっとかけるべきだった」
輝守は深いため息をつき、眉間に手を当てる。
「支部長の緑が松江で事件を起こしたせいで、京都支部はただでさえ世間から疑いの目を向けられていたんだ……」
さらに肩を落とし、疲れたように息を吐いた。
「そこへ、“京都支部にはテロリストが潜んでいる” なんてマスコミが好き勝手騒ぎ立てた。あれで完全に閉鎖に追い込まれた」
「結果として今回は全てが後手に回ったな……政府の偉い連中にも散々絞られたよ」
愚痴をこぼしながら、ペットボトルの水をもう一口飲む。
「……ゴホン」
気を取り直し、改めて紅子の方を見やる。
「……そこでだ。今日お前を呼んだ理由になるんだが……」
「政府の強い要望もあって、京都支部を再開させることになった」
「……もともと、京都は霊障が多い地域だ。京都府警の霊障対策課だけでは対応できまい」
「……それに……あいつらは妖だけでなく、異能者や陰陽師の犯罪者も追わなくてはならんからな」
ため息を吐きながら、どこか疲れた口調で続けた。
「……そんなわけで、色々と面倒なことになるが……村瀬、お前には京都支部の再建を任せたい」
輝守は懐から封筒を取り出し、紅子に差し出す。
「辞令だ。村瀬紅子を京都支部、支部長とする。それに加えて、二級から一級陰陽師に昇格だ」
紅子はそれを受け取り、僅かに目を見開いたが、すぐに表情を引き締め、ゆっくりと口を開いた。
「……すみませんが、お断りします」
「……ほう?」
「……今回の任務は失敗です……京都にも甚大な被害が出ました。……それに……支部長って柄でもないので……」
「ふふ……凛の言った通りだな」
「凛が……?」
「そうだ。それに、任務の失敗はお前のせいじゃない」
「……それは……確かに……千紘の勝手な——」
「全部、賢治のせいだ」
「…………は?」
「賢治のせいだ」
輝守は二度繰り返した。
「……どういうことですか?」
「あいつのせいで俺は大事なものを見逃した」
「……え?」
「いや、なんでもない。ともかく、事件当日は賢治の指示に従ったんだろ。それなら原因は賢治にある」
「……それって……ただの八つ——」
「……何?」
「…い、いえ、なんでもありません……」
「まぁ、お前に京都支部を任せたい理由は三つある」
「………」
「一つ目は、お前の交渉能力を買っていることだ」
「……交渉能力?」
「ああ。お前は実戦だけじゃなく、交渉事もうまくまとめる力がある。今の京都支部は、ただ陰陽師の戦力を揃えただけじゃ立て直せない。行政や警察、地元との連携も必須だ」
紅子は黙って聞く。
「そして、もう一つ」
「橘紗月を『特例準所属陰陽師』として京都支部に所属させる。お前には、彼女の監視役を務めてもらう」
紅子は一瞬、言葉を失った。
「……監視、ですか?」
「そうだ」
「……しかし…18歳未満の協会入りは法的に認められていませんよね」
「ああ。だから、特例措置だ。特例条件は二つ。『危険因子としての管理目的』、『国家戦力としての必要性』だ」
「……たしか……千紘も元は特例措置でしたよね……」
「ああ、千紘は17歳だったときに『国家戦力としての必要性』として特例を受けた」
「……そうですか……」
「心配するな。実際は俺たちの手で“保護”し“育てる”必要がある」
「……つまり、彼女を協会の監視下に置きながら、陰陽師としての経験を積ませる……?」
「そうだ。お前なら、彼女を見守れる。だからこそ、京都支部の再建とともに、橘紗月を頼みたい」
紅子はしばらく沈黙した。
正直なところ、やりたくない。
それに、紗月の監視——監視という名には、どうにも気が進まない。
だが……誰かがやらなくてはならないのなら……。
「お前なら、彼女を見守れる」
「……はぁ……しょうがないですね。わかりました」
封筒を握りしめながら答えると、輝守は満足そうに頷いた。
「頼んだぞ」
ふと、紅子が思い出したように口を開く。
「……そういえば、理由が三つあるって言ってましたけど……もう一つは?」
「……うむ……三つ目の理由は特級陰陽師にも比類する力だ」
賢治から紅子は呪核を飲み、『異能』と『黒炎』という新たな力を得たと聞いた輝守は、その詳細を知るべく紅子に問いかけた。
「まずは呪核について詳しく聞きたい」
「……正直、呪核について詳しくありません。コイツに聞いていただいた方が良いかと……」
紅子はそう言いながら、霊符を取り出し、軽く指を弾いた。
「招来——式神顕現」
霊符が宙で弾け、小さな光がふわりと舞い上がる。そして、ぼふっとした煙と共に、一匹のタヌキが現れた。
「おいおいおい!? 紅子!!…また修羅場じゃねぇだろうな!? 俺様を呼ぶ時は、大体ロクでもない場面なんだからよ!」
ポン太は四つ足で床に降り立つと、周囲を見渡し——戦場ではないことを確認すると、ホッと息をついた。
「おお……珍しく平和じゃねぇか……で、誰だ…この偉そうなオッサンは?」
「ちょっと黙ってなさい」
——ズバッ。
紅子の容赦ないチョップがポン太の頭を直撃。
「いてっ! なんだよ、オッサン呼びは駄目なのか!? じゃあ——なんて言やぁいいんだ!?」
ポン太が涙目になりながら頭をさする。
「……ふふ、初めまして。陰陽師協会の長官をやっている安倍輝守だ」
「……実は、君に聞きたいことがあるのだが……」
「おう、聞くのは構わねぇが……その前にだな」
ポン太は胸を張りながら、堂々と言い放つ。
「——饅頭と茶を出せ」
「はぁ!? なんであんたのために——」
「いいか紅子、俺様はただで情報を売るような安いタヌキじゃねぇんだ。饅頭と茶は対価ってやつよ」
「ちょっと!? 何言ってんのよ! タヌキに高い安いがあるわけないじゃない!」
「……まあまあ、それは当然の話だな……」
輝守は部屋のインターフォンを押した。
「すまない。和菓子と緑茶を用意してくれ」
数分後、盆に載せられた饅頭と湯気の立つ茶が運ばれてきた。
「おおお! わかってるじゃねぇか!! やっぱ陰陽師協会のトップともなると、話が分かるぜ!」
「……いいから早く食べて、さっさと話しなさい」
「おうおう、慌てんなって……んぐっ、んまっ!」
ポン太は饅頭を頬張り、茶をすする。
「……くぅ~~っ!! これだよ!!」
紅子が腕を組んで呆れたように見つめる中、ポン太は満足げに腹をさすった。
「ぷはぁ〜、やっぱ饅頭と茶の組み合わせは最高だぜ!……で、俺様に何を聞きたいんだい?」
輝守は改めて真剣な表情で問うた。
「——呪核について、教えてもらおうか」
ポン太は饅頭をもう一つ頬張りながら、ぽつりと呟いた。
「あー……たしか、昔、人間の間では、呪核のことを“呪玉”って呼んでたな……」
饅頭をもぐもぐしながら、懐かしそうに遠い目をする。
「俺様の昔のご主人様が、“最後の切り札”って言ってたっけなぁ……」
「……何よ、“呪玉”って?」
「……そうか……やはり呪玉のことだったのか……」
「……長官、ご存知なんですか?」
「ああ、知っている……というよりも、東京の協会本部にも二つ保管されている」
「えっ? じゃあ……それを使えば、何か力が手に入るってことかしら?」
紅子の目が輝く。
だが——輝守は首を横に振った。
「……いや、使えん。それどころか、呪いが強すぎて厳重に封印されている」
「……封印……?」
ポン太は頷きながら、腕を組んで言った。
「なあ、紅子、だから言っただろう? あれはあぶねぇーもんなんだよ!」
紅子はムッとした表情でポン太を睨む。
「……ちゃんと言いなさいよ、そういう重要なことは」
「何度も言ったさ! あぶねぇーってな!」
「……そ、そうだったかしら……」
「呪玉とは……昔、父から聞いた話だが、ごく稀に、強力な鬼や妖を倒した際、その“核”が残ることがあるそうだ」
「“核”……?」
「ああ。その呪玉には、倒された鬼や妖の“経験”や“能力”が宿ると言われている」
紅子は目を丸くする。
「じゃあ、それを取り込めば……私みたいに、その鬼や妖の力を手に入れられるってこと……?」
「そうだな……ただし、正気でいられるのは数分だけらしい」
「……それは、どうして?」
「——呪玉は、力だけでなく呪いまで継承するからだ」
「呪い……?」
「そうだ。普通の人間が取り込めば、すぐに精神が侵され、廃人になる。だからこそ、東京本部に保管されている二つの呪玉も、厳重に封印されているんだ」
紅子は思わず、自分の胸元に手を置いた。
(……でも、私は……)
ポン太が、少し声を潜めながら続ける。
「……昔はな、呪玉を使って戦った陰陽師がいたんだよ」
「……使った……? じゃあ、その人は……?」
「……ああ、そいつは、自らの身を犠牲にする切り札として呪玉を使っていた。たった数分の力のために、命を賭けてな……」
「……!」
「強大な敵を討つために、呪玉を取り込み、一瞬だけ鬼や妖を超える力を手に入れる……だけど、その数分後には、呪いに苛まれて廃人になる」
紅子は、無意識に唇を噛みしめた。
「……そんな……」
「だから、呪玉は滅多に使えるもんじゃねぇし、使っちまったら、もう二度と戻れねぇ」
ポン太は、まじまじと紅子の顔を見つめる。
「……なあ、紅子、今さらだけどさ、お前、本当に平気なのか?」
「……今さら聞く?」
「今さら聞く」
「……平気よ」
「……ふ〜ん…まぁ、別にいいけどよ……」
「……あら、ずいぶん他人事ね」
「……そりゃ、俺様は取り込んでねぇからな……」
「……なによ……もう、ポン太は黙ってなさい」
「……長官、白鴉は“完全に浄化されている”と言っていました」
「……もし、村瀬の黒炎で協会本部の呪玉も浄化できれば面白いな」
そんな時——
「失礼いたします」
扉の向こうから、控えめなノックの音が響いた。
「長官、異能管理庁のエージェントの方がお見えですが、いかがいたしましょう?」
輝守は卓上の時計をちらりと見て、軽くため息をついた。
「……もうそんな時間か」
そう呟きながら、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「村瀬、悪いが、続きは落ち着いてからゆっくり話そう」
「了解です」
「それと、橘紗月にも、呪核について例の陰陽師に聞いてもらっておいてくれ」
「……わかりました」
輝守が部屋を出て行くと、ポン太がいつの間にかソファに寝転び、残っていた饅頭をもぐもぐと口に運んでいた。さらに、手元の茶までのんびりと啜っている。
「……何してるのよ」
ポン太はちらりと紅子を見上げ、もぐもぐと口を動かしながら答える。
「あ? なんだよ?」
「……もう用は済んだから、さっさと帰っていいわよ」
「ふん、俺様を使い倒しておいて、それはねぇだろ?」
ポン太は気にした様子もなく、饅頭をさらにもうひとつ頬張る。
「……もういい加減にしなさい」
紅子が無言のまま拳を握りしめると——
ゴツンッ!
「いってぇぇぇぇ!?」
ポン太の頭に見事な拳が炸裂した。
「オマエ、最近俺様への扱い雑じゃねぇ?」
「気のせいよ」
「……ぜってぇ気のせいじゃねぇ……それより、饅頭もう一個——」
「もうないわよ」
「……えええ!? ないのかよ!?」
「アンタが全部食べたじゃない」
「……俺様の力の源が……」
「タヌキのくせに饅頭がエネルギー源みたいに言うのはやめなさい」
「クソッ……食い足りねぇ……!」
「……散々食べたでしょ……」
「まぁ、いいや。とりあえず、紗月のところに戻るんだろ? 俺様も付き合ってやるよ」
紅子はじろりとポン太を睨む。
「……別にいいけど、家に置いてあるお菓子を勝手に食べるのはやめなさいよ?」
「うっ……」
「……やめなさいよ?」
「……努力する!」
「やめるって言いなさい!!」
そんな言い合いをしながら、紅子とポン太は部屋を後にするのだった。




