日本陰陽師協会
東京都千代田区・大手町——将門塚を望む近代的なオフィスビルの一角に、日本陰陽師協会は本部を構えていた。
———「日本の霊的防衛の盾」
現代では、陰陽師は国家公務員としての地位を持ち、警察官や自衛官と並ぶ、日本を守ることを志す若者たちの職業の一つとなっている。
その近代的なオフィスの中の会議室、ホワイトボードの前に立つ女性がペンを走らせていた。
———久我凛。
一級陰陽師の証である黒と金を基調とした羽織をまとい、その袴の裾には小さな五芒星模様が刻まれている。
胸元には銀と黒のバッジが輝き、「一級」と刻まれているのが目に留まった。
「京都の橘家から正式な要請が来たわ。敷地内にある封印石が割れ、封印が解けた。」
目の前に座る二人の陰陽師、二級の 村瀬紅子と、三級の 大野悠希は神妙な表情で聞き入る。
「封印石が割れた原因は不明。ただ、封じられていた存在に関しては諸説あるけれど、一つ明確なのは、それが『平安時代に封印されたもの』ということ。そして、その封印を施したのが……橘家の祖先と“白鴉”だと言われている。」
「…白鴉……?」
村瀬紅子が口を開く。
彼女は真っ赤な髪を後ろに流し、背中には陰陽道を象徴する太陽と月の模様が描かれている羽織を着用している。
「そう、平安時代後期に活躍した伝説的な陰陽師よ。鬼を退け、人を導いたと言われる存在。千年近くも昔の話。残っている記録では陰陽寮の実務部隊の長——。」
「つまり、平安時代の伝説級の封印を、私たちが見に行けるってことよね?面白そうじゃない。」
「そんな簡単な話じゃないわ。」
「どういうこと…?」
「問題なのは、封印が解けたことで、敷地周囲の結界が不安定になり、妖が集まり始めている。そして——中から鬼らしき者が出てきた。しかも陰陽術を使っていた…という証言がある。」
「……つまり、その“封印されていた鬼”は、陰陽術を使える存在ってことですか?」
大野悠希が慎重に問いかける。彼はまだ若手だが、期待されている陰陽師だ。
「橘家の文献によると、封印されてたのは鬼とされているけれど、それもはっきりしない。」
「それと、もう一つ。」
「跡取りである 橘雅彦だけれど、陰陽師協会への加入が決まってるわ。彼は二級陰陽師としての資格を持っている。」
その言葉に、村瀬紅子が少し眉を上げる。
「…加入前で二級ですって?」
「ええ。協会内でも特別な期待を寄せられている。今回の件についても、彼が現地で対応する予定よ。」
「……ふぅん。まあ、橘家の御曹司様がどれほどの実力か、楽しみにしておくわ。」
村瀬紅子は挑発的な笑みを浮かべながら、興味を引かれた様子を見せた。
一方、大野悠希の表情にはわずかな緊張が見え隠れしていた。
「橘家と協力しつつ、現地の状況を調査して対応してちょうだい。」
久我は最後にそう言い放ち、ホワイトボードのペンを止めた。
「任務は以上。何か質問があればどうぞ。」
「特にないわ。ただ、少し面白そうじゃない?」
「……俺は、少し緊張してますけど。」
「……頼んだわよ。橘家と協会の信頼関係を損なうことだけは避けて。」
久我凛は二人が京都に向かう姿を見送ると、足早に長官室へ向かった。
「久我凛です。」
「入れ。」
凛は深呼吸をして扉を開ける。
室内には、日本陰陽師協会・長官の 安倍輝守 が正面に座っていた。
金色と深紫の豪華な羽織に、特級の象徴である金色の五芒星が刺繍された姿は、どこか疲れた表情を浮かべている。
久我は深々と一礼し、報告を始めた。
「長官、村瀬と大野がたった今、京都に向かいました。昼過ぎには現地に到着できるかと思います。」
「そうか、ご苦労だったな。」
「ですが……本当にこれでよかったのでしょうか…?」
「何がだ…?」
「橘家からは一級陰陽師の派遣要請を受けていました…村瀬が一級の実力があったとしても、階級は二級、何か言われるのでは……?」
「まぁ…その点だけは…大丈夫だ……」
「……それは…」
「実は賀茂千紘が、京都で待っている。階級だけは特級だ、問題ないだろう。」
「……え?」
凛の顔が凍り付いた。
「千紘が……京都に?!」
「ああ。どうやら、星の動きから何かが起きると察知したらしい。俺が知った時には、すでに京都で準備万端だ。」
「そ、それは…問題なくないです。止められなかったんですか?」
「止めるも何も、連絡があった時には既に京都にいた。千紘を止めるには、星を動かすくらいの力がないとな…」
その軽い冗談を凛は全く笑えず、頭を抱えた。
「千紘が京都で何をするかわかりませんよ!橘家が混乱するどころか、下手をすれば京都そのものが――」
「……その可能性は否定出来ないな…」
賀茂千紘。十代と若いながら、日本にわずか9人しか存在しない特級陰陽師の一人であり、強力な式神を数体操り、未来予知とも言える星読みの能力、その実力は計り知れない。
———しかし、彼女の性格は問題だらけだった。
好奇心旺盛で、面白いことには目がない。
だが、協調性がゼロ、いつも自分のやりたいように動き、周囲を混乱させる。
どうしようもない強敵が現れた時以外、使いどころがない諸刃の剣だった。
「戦闘を楽しむあの性格……過去に何度頭を悩まされたか…」
「以前な、あいつが一級陰陽師の任務に勝手について行って、土地神をわざと怒らせたとき……俺が止めに行ったが、あの時の混乱ったらなかったぞ。村も結界もぐちゃぐちゃになった。」
久我は額に手を当てながら、当時の混乱を思い返して頭を抱えた。
「……あれがまた起きるかもしれないんですね……。」
「…起きないと思いたいが……。」
「千紘が行動を起こせば、村瀬と大野の任務がさらに混乱するのは間違いありません。どうするおつもりですか?」
「どうするもこうするも……。俺があいつを京都に向かわせたわけじゃないからな…もう運を天に任せるしかない。」
「運に任せるって……!」
「星を読んで動いた以上、あいつが何かを察知しているのは間違いない。問題は、それをどう収拾つけるかだ……。」
「それが問題なんです!いつも千紘はやり過ぎる……。」
「心配するな。最悪の場合、俺も京都に行くさ。」
「はぁぁ……その言葉が一番心配なんですよ。何かあったら、長官が出向くなんて事態は避けたいですし……。」
そう言いながら、ふと顔を伏せて小さく呟いた。
「それに……村瀬には連絡を入れないと。彼女、怒るでしょうね……結局、私が悪者になるんです。全然関係ないのに……。」
新幹線の車内、窓際の席で村瀬紅子は楽しげに缶ビールを片手にシュウマイをつまんでいた。
備え付けの小さなテーブルには、すでに空き缶がいくつも転がっている。
「プハッ!仕事中のビールは、なんでこんなに美味しいの!」
紅子は満足げに笑いながら、大野悠希に缶を差し出す。
「悠希も飲む?」
「いりませんよ!」
悠希は呆れた表情で紅子を睨みながら、真剣に叱る口調で続けた。
「それに紅子さん、飲み過ぎです!あと一時間ぐらいで京都に着いちゃいますよ。どうするんですか?そんなに飲んじゃって……俺、知りませんからね!」
「なに固いこと言ってんのよ~?」
紅子はケラケラと笑いながら、悠希の肩を軽く叩く。
「そんなんじゃ女にモテないぞ!」
「別にいいですよ!それに紅子さんみたいな女性にモテたくありませんから!」
「…言うわねぇ…悠希はほんと素直ね。…でも、京都駅に橘家の人が迎えに来るでしょ?マズイかしら、酔っ払ってたら?」
「だから言ってるじゃないですか!」
悠希はテーブルの上の空き缶を片付けようと手を伸ばすが、紅子に止められる。
「大丈夫、大丈夫、こんなんじゃ酔わないから!」
そんなとき、紅子のスマホから突然電子音が鳴り響く。
紅子がスマホを手に取り、何気なくメールを開いた途端、その表情がみるみる険しくなり、手が震え始めた。
「……えっ?なにこれ!」
声を荒げた紅子が、手元の缶ビールを乱暴にテーブルに置く音が響く。
「え、どうしたんですか?」
紅子はスマホを片手で握り締めながら、もう片方の手でテーブルを軽く叩き、怒りを抑えきれない様子でメールの内容を読み上げた。
「『賀茂千紘が京都にいるから、一緒に任務にあたれ』だって!凛のやつ、絶対にわざと出発前に言わなかったわね!」
「賀茂千紘……?えっと…まさか!?」
「そう。特級陰陽師の賀茂千紘。でも、あの子は、トラブルメーカーよ。」
「……?」
悠希の表情には困惑と不安が入り混じる。
「協調性なんて一切ない。自分のやりたいことを優先して、周りを混乱させる問題児なんだから!」
「そんな人と……一緒に任務ですか?大丈夫なんですか、それ……?」
「大丈夫なわけないでしょ!ちゃんと、言うこと聞いてくれればいいけど…」
紅子は窓の外に目を向けながら呟く。
「凛のやつ……気まずくて言い出せなかったんだろうけど…。こっちは巻き込まれる側なのよ!」
「で、でも……特級陰陽師ってことは、実力があるんですよね?俺もこの目で見てみたいです。」
「……悠希、あんた、意外と肝が座ってるわね…」
紅子が窓の外を見ると、浜名湖の穏やかな水面が広がっている。
「何事もなく終わればいいけど……。」
新幹線は浜名湖を望む鉄橋を越え、徐々に京都の街並みへと近づいていった。