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鬼の兄弟

少年の耳に、かすかに赤子の泣き声が届いた。


「オギャー……オギャー……!」


誰もいないはずの夜の墓地。


確かに聞こえる——小さな命の叫び。


イチは思わず立ち止まり、耳を澄ませた。


「……だ、誰か、おるんか?」


「オギャー……オギャー……!」


この世には“捨てられる命”があることを、彼は痛いほど知っていた。


そして、ここは墓地——


見捨てられた者たちが、最後に行き着く場所だった。


(まさか……土の中か?)


息を呑み、震える手で地面に触れる。


「オギャー……オギャー……!」


「う、うそやろ……!」


イチは両手で必死に土を掘った。


爪の間に泥が入り込み、指がかじかんでも、構わず掘り続ける。


「ちょっと待っとれ……今、助けたる……!」


必死で掘ること、どれくらい経っただろう。


やがて、冷たい土の中から、白い小さな手が現れた。


慎重に、そっと土を払う。


すると——


「……ぁ……ぅ……」


そこには、汚れた白布に包まれた、小さな赤子がいた。


生きている——!


赤子は薄く開いた瞳で、彼をじっと見上げる。


イチは、驚きと安堵に息を呑み、ゆっくりと赤子を抱き上げた。


「お前……どうして、こんなとこに……?」


赤子は何も答えない。ただ、小さな指をイチの服にしがみつかせる。


寒さと、飢えと、不安——


イチは、その小さな手を優しく包み込んだ。


「……もう、大丈夫や。お前は、俺が守ったる。」


そう呟いたとき、イチの心に、ひとつの決意が生まれた。



——この子は、俺が守らなあかん。



——誰がなんと言おうと、俺が絶対に助けたる。



彼は赤子を抱き上げ、満月が浮かぶ夜空を見上げながら、誓った。


「お前の名前は……千代や。」


「これからずっと、俺の妹や。」


それは——“鬼の兄妹”の始まりだった。



——イチと、その妹・千代ちよ


身寄りもなく、食べるものもなく、ただ、生きるためにそこにいた。


「お兄ちゃん……お腹、すいた……」


イチはそっと妹の背を撫で、震える手で肩を抱いた。


「大丈夫や。すぐになんとかする。」


だが、その言葉とは裏腹に、イチ自身の骨と皮ばかりの身体は、今にも折れそうなほどに細い。



——生きるためには、何でもするしかなかった。



彼らは、鴨川の河原に打ち捨てられた死体を漁り、衣を剥ぎ、僅かな食料を奪った。


それが、二人にできる唯一の「生きる手段」だった。


——いつからか、人々は彼らを「鬼の子」と呼ぶようになった。


「またあの子たちが死体を漁ってる……。」


気味悪がられ。


忌み嫌われ。


石を投げられ。


目を逸らされ。


それでも、二人は生きるために、それを続けるしかなかった。


——しかし、常に衣を剥げるわけではない。


——魚がいつも捕れるわけではない。


——誰かが恵んでくれるわけではない。


飢えは、絶え間なく二人を蝕んでいった。


そして——その夜、千代はとうとう「それ」に手を伸ばした。


河原に打ち捨てられ、腐臭を放つそれ——


「……お兄ちゃん……」


月明かりの下、千代は地面を凝視したまま、動かない。


「お兄ちゃん……見て……」


イチは、妹の様子に違和感を覚えた。


薄く開いた唇が、かすかに笑ったように見えた。


「お兄ちゃん……おいしそうなお肉があるよ……」


「……え?」


「ふふ……いい匂い……」


千代の小さな手が、ゆっくりとそれに伸びる。


震えながらも、しっかりと掴み——


——口に運んだ。


「——千代!!やめろっ!!!」


「……なんで…?……ん……ふふ……おいしい……」


「…ち、千代……それ…は…」


千代は、無邪気に笑っていた。


口元には、赤黒い血が滲んでいる。


「おいしいよ。お兄ちゃんも食べる……?」


——その瞳が、月光を反射して、妖しく光った。


「……千代、お前……」


(千代は……ひょっとして……)


イチは、妹の口元を拭おうと手を伸ばした。


——しかし、その瞬間。


「お兄ちゃん、なに?」


千代の小さな手が、イチの手首をがっちりと掴んだ。


「っ!?」


まるで、大人の男のような強さだった。


イチの目が、大きく見開かれる。


(なんや……この力……)


千代の手は、小さなはずなのに——


まるで、獣に掴まれたように、冷たく、異様に力強い。


「お兄ちゃん……?」


千代が、首を傾げる。


その仕草は、いつもの妹と変わらない。


だが、その目の奥で——


何かが、目覚めかけていた。


「お兄ちゃん……お腹、すいたの?」


「千代、お前……」


——違う。


これは、千代ではない。


イチは、直感的にそう思った。


妹の中に流れる「何か」が、目を覚ましかけている。


(千代は……ひょっとして……)


「——いや。」


イチは、首を振った。


考えたらアカン。


そんなこと、関係あらへん。


——千代は、俺が守る。


たとえ、この子がなんやとしても。


「千代、こっち来い。」


「お兄ちゃん……?」


「お前は、俺の妹や。」


イチは、千代をそっと抱き寄せる。


「……せやから、大丈夫や。」


——俺が、絶対に守る。


どんなことがあっても。


たとえ、この子の正体が何であろうと。


イチは、そう強く誓った。



しかし、その日から、千代は変わり始めた。


肌が雪のように白くなり、瞳は徐々に紅く染まっていった。


——まるで、それが本来の姿であるかのように。


夜になると、千代の気配はふっと薄れ、いつの間にか姿を消した。


そして、夜明け前に戻ってくる。


「お兄ちゃん……ねむい……。」


だが、千代の変化は確実に進んでいた。


指先が異様に冷たくなり、細い鋭い爪が伸び始めた。


そして、ある日——


千代は、ただの人間では考えられない動きを見せた。


——深夜、闇に紛れて野犬の群れが二人を囲んだ。


イチが咄嗟に千代を庇おうとした、その時だった。


「……邪魔……。」


次の瞬間——彼女は、音もなく“跳んだ”。


——瞬きする間に、目の前にいた犬の喉元に手が伸びていた。


「なっ……!?」


千代の小さな指が、野犬の首に絡みつく。


まるで、それが脆い玩具であるかのように、ほんの軽い力で——


——バキッ!!


野犬が短い悲鳴を上げ、そのまま地面に崩れ落ちた。


「……もっと……これじゃあ…足りない…」


「千代……お前……」


——なんだ、これは。


——これは、本当に千代なのか。


しかし、千代はそんな兄の戸惑いなど意にも介さず、ニィッと口角を吊り上げた。


その表情には、確かな——『悦び』が滲んでいた。


——イチは、妹が「何か」に戻りつつあることに、ぼんやりと気付いていた。


だが、否定した。


認めなかった。


——たとえ、どれだけ変わっても。


——たとえ、どれだけ異形になっても。


妹は妹だった。


彼にとって、たった一人の家族だった。


だから、イチは目を背けた。


千代の爪が鋭くなっても、歩くたびに影のように揺らいでも、気にしなかった。


ただ、微笑んで言うだけだった。


「……千代は、俺が守る。」


どんなことがあっても——。



ある晩、イチが目を覚ますと、妹はそこにいなかった。


いつものことだ。


すぐに戻ってくる——そう思っていた。


だが、その日は違った。


——妹が、血まみれの口で彼の前に立っていたのだ。


「……お兄ちゃん……。」


暗闇の中、嗤うように揺れる赤い瞳。


口の端から垂れる、滴る血の筋。


そして、妹の手の中に握られた誰かの腕。


イチは、ようやく理解した。


妹は、もう、人ではなかった。


——だが、それでも。


「……妹や……俺の、大事な……。」


「……ねぇ、お兄ちゃんのこと、食べてもいい……?」


——妹が生きられるなら、自分など喰われても構わない。


「……ほら、食べてええよ。俺のこと。」


妹が、ゆっくりと近づく。


爪が、細い指が、イチの肩に触れる。


その瞬間——


「下がれ。」


次の瞬間、千代の首が弧を描いて舞った。


鮮血が、月に照らされて輝いた。


イチの目の前で——


妹が、消えた。


「……っ……あ……。」


イチの膝が崩れた。


地面に倒れた首のない妹の身体を、ぼんやりと見つめる。


「……あ……ああ……。」


——死んだ?


——死んだ?


——俺の、妹が?


「……いや……ぃ……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」



「……どうして……。」


「なんで……!」


「なんで殺したァ!!!」


手を血で染めた男が、無表情で立っていた。


「……鬼だからだ。」


ただ、それだけ。


「てめぇ……てめぇ……!!!」


イチは立ち上がり、掴みかかろうとする。


その男は、白龍を従え、肩に黒い鴉が止まっている。


それは、陰陽寮の陰陽師だった。


イチの目に映ったのは、まるで何も感じていないかのような男の横顔。


——憐れみもなく。


——同情もなく。


——ただ“そうするべきだから”それをしただけだった。



その瞬間——


「……お兄……ちゃん……今…まで……あり…」


イチの背後から、小さな声がした。


(……え?)


そこには、妹の千代の首が転がっていた。


薄く開かれた唇が、かすかに動いたように見えた。


「……が……と……」


最後の言葉は、風にかき消された。


「…………」


イチの目が、ゆっくりと見開かれる。


「千代……?」


手を伸ばした。


——しかし、その瞬間。


千代の体は、黒い霧と化して、完全に崩れ去った。


そこには、何も残らなかった。


——まるで、最初から存在しなかったかのように。


「……」


「………」


「………ぁ………あ……」


「う、ぅわぁあぁぁ……ぅ、う、うそだ……」


イチの顔から血の気が引いていく。


「……がぁあああーーークソッがッ!。」


イチは、拳を握りしめた。


「……ぜ、ぜ、絶対に、許さねぇ。」


「……テメェだけは!!!」


己を「鬼一」と名乗るようになったのは、それからだった。


「……見とけよ……。」


「絶対に……いつか……!!」


握りしめた拳に、血が滲んでいた——。

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