夜桜の宴
——黒い霧が凝縮したような鴉。
深く沈んだ瞳が、どこまでも底知れない。
奈々は庭石の上に佇むそれを見つめながら、静かに息を吐いた。
「……あの人の鴉」
奈々は静かに黒霞の横に座る。
「……よろしくね」
黒霞が、コクコクと小さく頷いた。
「——高天原に坐す雷神よ。」
大気が震える。
「——天地の狭間に轟き、万象を裂く者よ。」
風が舞い、雷雲がたちこめ、稲妻が夜空を裂く———。
ふと視界の端に、印を結ぶ紗月の姿が映る。
——流れるような動き、整った詠唱。
姿も声も紗月お姉様だけど—— これは、あの人だ。
隣に座った莉乃が、こそっと話しかけてきた。
「ねぇ、奈々……紗月お姉ちゃん、なんか別人みたいじゃない?」
(……正解)
「特に、一回倒れてからの術や動きが……なんか、凄くなかった?」
(……意外と鋭い)
「それに白龍に、この……霧みたいな鴉? 普通じゃないよね……?」
(……いつも鈍感なくせに)
「でもさ、紗月お姉ちゃん……やっぱりすごいね」
(……同感)
「……って、ちょっと奈々! なんで黙ってんの!? なんか言いなよ!」
(……うるさい)
「もー、奈々って本当無口なんだから!」
(知ってる)
——バリバリバリバリィィィンッ!!!!——
「……ッ!」
奈々と莉乃は反射的に庭石から飛び降り、目を瞑り、耳を塞ぎ、身を縮こまらせた。
視界の隅が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
——何かが、変わった。
次の瞬間——肌に触れたのは、ひんやりとした風だった。
「……え?」
さっきまで纏わりついていた真夏の湿った空気が、すっかり消えている。
それどころか——
「……いい香り……?」
ふわりと鼻をくすぐる、甘く、それでいてどこか切ない香り。
瞑っていた目を、恐る恐る開ける。
ひらひらと、舞い落ちる桜の花びら——。
「……桜……?」
莉乃の小さな声が震える。
ついさっきまで、頭上には雷雲が渦巻いていたはずなのに——
なのに、今、視線の先に広がっていたのは——
———満開の桜。
暗闇の中、ぽうっと浮かび上がるように、たった一本だけ草原の中にそびえ立ち、静かに咲き誇っている。
——幻想的な光景だった。
「……なんで……?」
現実感のない風景に、意識がついていかない。
そして、その桜の根元——
影のように佇む、一人の男の姿。
(……っ!!)
奈々は反射的に頭を起こそうとした。
——でも、上がらなかった。
——上がらない、じゃない。
——上げたくなかった。
心が、魂が、頭を下げろと命じている。
見てはいけない。
直視してはいけない。
頭を上げたくない、頭を下げて平伏したいという——抗えないほどの衝動が、奈々の全身を支配していた。
——それでも、視線だけをそっと上げた。
——そして、息を呑む。
桜の根元に、まるで夢の中のように、穏やかに眠る一人の男がいた。
女性の膝枕で、静かに寝息を立てる男。
もう一人の女性は、彼の盃に酒を注ぎ、さらにもう一人が団扇で扇いでいる。
夜闇の中に浮かび上がる、春の宴。
それは、どこか浮世離れしていて———
あまりにも異様だった。
(……ここは……いったい……?)
奈々は慌てて視線を逸らし、前方を見た。
———千紘たちは。
青ざめた顔で、ただ震えながら、ひれ伏していた。頭を垂れ、声すら発せず、ただ、息を潜めるように。
まるで、そこにいることすら許されないかのように——。
その横で、黒霞に拘束され、身動き一つ取れない多治比直野勝だけが、泣きそうな顔で立ち尽くしている。
奈々には、何が起こっているのか、まるで分からなかった。
そして——
その男が、ゆっくりと目を開けると、瞳の奥には雷光が瞬いていた。
白銀の髪が、風に揺れ、桜の花びらが舞う。
———高天原の主神の一人、武甕雷が顕現した。
桜の根元——その足元で、清雅は静かに跪いた。
「——ご無沙汰しております。武甕雷様」
——しかし。
武甕雷は、わずかに開いていた瞳を——
再び、すぅ、と閉じてしまった。
(……おいおい、また寝ちゃったよ……)
清雅がわずかに顔を上げると、膝枕をしていた女性が、そっと武甕雷の耳元に唇を寄せる。
「武甕雷様、お客様がいらしてます」
「……ん?」
重いまぶたを上げ、ゆるりと上半身を起こす。
清雅は、改めて礼を正し、もう一度口を開く。
「ご無沙汰しております。武甕雷様」
(……何回言わせんだよ……)
清雅は内心でため息をつきながらも、変わらぬ恭しさで頭を垂れ続ける。
武甕雷は、じっと紗月の顔を見つめた。
そして——
「……お前、誰だっけ?」
清雅は、静かに答える。
「清雅です」
「清雅……?」
武甕雷の眉が寄る。
「……あー……あー……あー……」
しばしの沈黙。
「——すまん、知らん」
(やっぱり……)
予想はしていたが、やはりこの神は適当だ。
「以前、大国主様のお相手をしていただきました」
その瞬間——
武甕雷の瞳が、はっきりと見開かれた。
「……うん? あの清雅か!」
驚きの声が、桜の木の下に響く。
「お前、確か男だったよな? 娘に生まれ変わったのか?」
「いえ、この娘の身体を借りています」
武甕雷は、じっと紗月を見つめる。
その視線は、まるで内側を見透かすかのようだった。
「ほぉー……ならば、その娘も器持ちか?」
「はい。立派な器を持っております。力がつけば、武甕雷様をお呼びする日も来るかと思います」
「名は何と言う?」
「橘紗月と申します」
武甕雷は、一瞬目を細めると、ゆるりと頷いた。
「——うむ、覚えたぞ」
(……嘘つけ)
しかし、その刹那。
武甕雷の視線が、ぴたりとある一点に向く。
「——ちょっと待て。」
空気が、張り詰める。
「あそこに、頭を下げぬ無礼者がおるな」
武甕雷の目は、庭石の前に立ち尽くす——拘束されたままの多治比直野勝を射抜いていた。
清雅は、ちらりと横目でそれを確認する。
(……あぁ、すまん……終わった)
———フッ。
武甕雷が、軽く息を吹きかけた。
ただ、それだけ。
しかし、その瞬間——
——ゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!
雷鳴が轟き、稲妻が奔る。
武甕雷の口から吐き出された息は、そのまま黄金の雷となり、瞬時に多治比直野勝を直撃した。
——ズドォォォォォン!!!!!!
瞬きする間もなく——
多治比直野勝は、悲鳴を上げる間もなく、黒い燃え滓だけを残して——一瞬で、消えた。
あまりの光景に、千紘は目を見開いたまま、声を失っていた。
この場にいる全員が、自らの存在すらかき消されそうな、圧倒的な**“神威”**の前に——ただ、ただ、沈黙するしかなかった。
桜の花びらがひらひらと舞う中、武甕雷はゆったりと身体を起こし、清雅を見下ろす。
「——して、清雅。なんの用があったのだ?」
清雅は静かに膝をつき、深く頭を垂れる。
「武甕雷様、市中の鬼退治をお願いできますでしょうか?」
「ふむ……清雅よ。我に“ゴミ掃除”をせよと言うのか?」
その威圧的な声に、一瞬で空気が張り詰める。
「……やはり、武甕雷様でも難しいですか……?」
「——なに?」
「いえ、決して無理をなさらず。武甕雷様ほどの御力をもってしても、市中の鬼を一掃するのは難しかったですか……」
「……清雅、今なんと言った?」
「ええ、これほどの規模ともなれば、もはや——“武甕雷様でも手に負えない”のでは?」
——バチバチッ!!!
武甕雷の身体から、怒りの雷光が走る。
「誰が手に負えぬと言った!? 鬼如き、我が雷にかかれば、一瞬で灰と化すわ!!」
「おお、それは流石です。では、何卒——お力をお貸しくださいませ」
武甕雷は鼻を鳴らし、堂々と立ち上がる。
「ふん、我に任せよ」
(……チョロすぎる)
武甕雷が軽く手を挙げた瞬間、空が暗転し、雷雲が京都の上空に厚く広がる。
「——万雷の龍よ、天より降りよ!」
雷神の号令が響き渡った瞬間——
——ドゴォォォォォォン!!!!!!
天が裂け、眩い光とともに万の雷が降り注ぐ。
轟く雷の奔流は、天から降る龍の群れへと姿を変えた。
無数の雷龍が、京都の各地へと疾走し、鬼たちを必中で貫いていく。
——ズバァァァァァァン!!!!
——バチバチバチィィィ!!!!!
雷龍が降り注いだ地では、鬼たちが逃げる間もなく灼かれ、瞬く間に黒い霧へと散る。
奈々と莉乃は、あまりの光景に息を呑み、思わず身を寄せ合った。
千紘も目を見開いたまま、ただ圧倒され、言葉を失っている。
「………ふわぁぁぁぁ……これでよいか……?」
大あくびをしながら、武甕雷が呟いた。
その顔には、まるで虫でも潰した程度の気楽さしかない。
「ただ、鬼の数が思ったより多いな。四半刻ほどかかるが……まあ、一掃すれば雷も勝手に消えよう」
「十分です。感謝いたします、武甕雷様」
その瞬間も、雷龍たちは京都の各地を駆け、鬼たちを焼き尽くしていく——。




